日本史の故事に由来する歴史ことわざ【その3】天下統一編

国語の自由研究

国語の必須項目ともいえることわざ・慣用句・故事成語。

故事成語は、そのほとんどが中国の故事などに由来するものです。

しかし、調べて見ると日本発祥のものも意外にあります。

そんな日本由来の故事成語の中から、日本史の偉人にゆかりのあるものを集めてみました。

意味・由来・関係する偉人解説という構成になっています。

さらに、日本史の時代順と出来事順に並べることで、国語でありながら歴史も学べる一石二鳥のお得感!

今回は、その第三弾!天下統一編です!!

洞ヶ峠(ほらがとうげ)を決めこむ/筒井順慶

太平記英雄伝・筒井順慶
太平記英雄伝・筒井順慶
  • 「洞ヶ峠を決めこむ」の意味

自分が有利になる、または利益になる人や団体に付き従うために、状況の進み具体をしばらく見る様子。

  • 「洞ヶ峠を決めこむ」の由来

1582年(天正10年)、京都の本能寺において織田信長が家臣・明智光秀に討たれるという事件が発生します。

明智光秀は織田信長に代わって天下の覇者となろうと、反織田勢力に声をかけ、旧織田家家臣との戦いに備えようとしました。

京都に近い大和地方(現在の奈良県周辺)の大名・筒井順慶(つついじゅんけい)は、明智光秀と親戚関係でもあったため、味方になって援軍となるようにいわれます。

そのため、筒井順慶は京都と大阪の境にあった洞ヶ峠まで兵を出しました。

ところが、想定外に早く戻ってきた豊臣秀吉軍と明智光秀軍が激突したため、筒井順慶は洞ヶ峠からその戦況を眺めたとされます。

明智光秀は、筒井順慶が協力してくれると考えていたため、どちらにつくか迷っている筒井順慶の優柔不断な態度が「洞ヶ峠を決めこむ」の由来になっています。

筒井順慶の名誉のために付け加えますが、最近の研究では当初から明智光秀軍には味方しない方針であったといわれます。

早くから豊臣秀吉軍が戻ってくる情報が届いていたとも、明智光秀軍には協力者が少ないと読んでいたとも考えられています。

  • 「洞ヶ峠を決めこむ」ゆかりの山崎の戦いってどんな出来事?

天下統一を目前にしていた織田信長が、家臣・明智光秀の裏切りにより本能寺において殺されます。

日本史上でも有名な「本能寺の変」です。

織田信長を討った明智光秀は、代わって天下人になるべく、縁者の武将などに協力するよういいます。

ところが、備中(現在の岡山県周辺)で西国の毛利軍と戦っていた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)は、早々と停戦を約束させて戻ってきたのです。

これが「中国大返し」といわれる、当時としては予想外の早さの撤退戦でした。

他の織田家の有力家臣が各地の戦場から戻れずにいる中、羽柴秀吉軍と明智光秀軍は京都の山崎で激突します。

充分な戦力が整わなかった明智光秀軍は、羽柴秀吉軍に敗北し、逃亡の途中で明智光秀も殺されてしまいました。

それまで織田家中では低い地位であった羽柴秀吉でしたが、君主・織田信長の仇を討ったとして影響力が大きくなっていきます。

こうして、織田信長のあとを継ぎ豊臣秀吉の世となっていくのです。

天王山(てんのうざん)/山崎の戦い(明智光秀VS豊臣秀吉)

天王山
天王山
  • 「天王山」の意味

勝負の分かれ目や重要な決断をすること。

  • 「天王山」の由来

「洞ヶ峠を決めこむ」にもあるように、明智光秀と羽柴秀吉が京都の山崎で戦いました。

天王山は実際にある標高の低い山のことをいい、その地を争ったことに由来します。

さらに山崎の戦いでは、明智光秀は織田信長亡き後の天下人の立場を掛けて、羽柴秀吉は織田信長の仇討ちをすることで後継者の地位を掛けて激しい戦いを繰り広げたのです。

結果、準備が十分に整わなかった明智光秀が敗けました。

そして、山崎の戦いに敗れた明智光秀は逃亡中に、農民狩りに会い殺されてしまいましたが、勝利した豊臣秀吉は織田家臣団の中でもっとも有利な立場になります。

羽柴秀吉はライバル家臣を排除したり、跡目争いで有利になるなどを経て、豊臣秀吉として天下統一を成し遂げることになったのです。

実際にこの山崎の戦いが、その後の大きな勝負の分かれ目になったのですね。

  • 「天王山」ゆかりの山崎の戦いとはどんな出来事?

前述「洞ヶ峠を決めこむ」を参考にしてください。

三日天下(みっかてんか)/山崎の戦い

天王山から見る山崎合戦場
  • 「三日天下」の意味

権力を短い間しか保つことができないことの例え。

  • 「三日天下」の由来

「洞ヶ峠を決めこむ」「天王山」でも書いたとおり、織田信長亡き後の天下の覇権を、明智光秀と羽柴秀吉が争うことになった山崎の戦い。

織田信長の戦力が手薄な隙を突いて、本能寺の変を明智光秀は成功させました。

強大な織田家勢力に従っていた各地の武将たちの中には、織田信長を良く思っていなかったものもいたことを知っていたため、明智光秀に味方するものも多いと見込んでいました。

ところが、想定以上に味方になるものが少なかったことに加え、羽柴秀吉の「中国大返し」により、予想より早くに戦うことになったのです。

本能寺の変から、たった13日後には明智光秀は羽柴秀吉に敗れてしまいます。

「三日しか天下が続かなかった」というのは、後日のフィクションですが、その逸話を由来しています。

  • 「三日天下」ゆかりの山崎の戦いとはどんな出来事?

前述「洞ヶ峠を決めこむ」を参考にしてください。

小田原評定(おだわらひょうじょう)/小田原征伐(豊臣秀吉VS北条氏政)

小田原城と伊豆半島
  • 「小田原評定」の意味

話合いばかりでなかなか結論が出ないこと。

また、その話し合う内容の程度が低いことを皮肉る例え。

  • 「小田原評定」の由来

1590年、天下統一のために豊臣秀吉は、東国の有力武将・小田原北条家を攻めることにします。

相模国(現在の神奈川県周辺)に広い領土をもった小田原北条家でしたが、20万を超える豊臣軍に城を囲まれます。

小田原北条家の家臣団は、徹底抗戦か降伏かで意見が分かれ、連日城に籠って話し合いが続きました。

その間に、小田原北条家の支城は次々に豊臣軍の前に降伏していきました。

小田原北条家の豊臣秀吉軍に対する方針が決まらないまま、領土内の戦力は削がれていき、最後には内部からの裏切りもあり降伏することとなります。

ろくに抵抗をすることもなく敗北してしまったことが由来となっています。

  • 「小田原評定」ゆかりの小田原征伐とはどんな出来事?

小田原北条家は四代にわたり相模国を含めて7か国を領土とする、関東最大の勢力でした。

豊臣秀吉とも当初は友好な関係にあったものの、隣国との領土争いをきっかけに関係が悪化します。

天下統一には関東最大勢力の小田原北条氏が障害と考えた豊臣秀吉は、1590年(天正18年)全国から招集した20万の兵力で小田原征伐へと向かいます。

小田原北条家の城の特徴は惣構(そうがまえ)といわれる、町全体を土塁と空堀で囲む巨大な城塞都市で、籠城には威力を発揮します。

そのため、籠城派と迎撃派に小田原北条家の意見が分かれ、統率した行動がとれなくなっていました。

豊臣秀吉の大軍を前に、ほとんど抵抗できずに小田原北条家の支城が降伏したこともあり、小田原城は敗北を認めて開城となったのです。

ここに小田原北条家は滅亡します。

さらに、この小田原征伐の戦況を見ていた奥州(東北地方)最大の武将・伊達政宗も、豊臣秀吉に従うことを決め、事実上の天下統一が成立したのです。

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