名茶器・平蜘蛛と最期は爆死がウソ?戦国三悪人・松永久秀の真の顔!

日本史(戦国時代)

歴史大好き、くろーるです。

戦国時代の三大悪人のひとりといわれた松永久秀(まつながひさひで)。

2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』では吉田鋼太郎さんの怪演で話題です。

松永久秀といえば、

・自分が仕えた三好家を乗っ取った

・将軍・足利義輝を殺害した

・東大寺の大仏を焼き払った

という悪行の限りを尽くした武将として知られています。

織田信長(おだのぶなが)を2度も裏切るという肝っ玉のデカい人物でもあります。

一方で、茶人としても有名な上、名茶器のコレクターでもあり、能にも詳しいという文化人なのです。

茶器に火薬をつめて爆死するという壮絶な最期からは想像できない教養の高さを感じます。

こうして見ると、松永久秀には今までのイメージとは違う真の顔がありそうです。

新説と比較しながら、本当の松永久秀に迫って見ましょう!

主君・三好長慶の親族を次々と毒殺!三好家を乗っ取る

松永久秀
松永久秀

裏切られるということは、弱いから裏切られるのだ。裏切られたくなければ、強くなることだ。(名将言行録より)

松永久秀の生まれについては諸説あるのではっきりしません。

わかっていることは、足利(あしかが)十三代将軍・義輝(よしてる)と対立しながらも、重臣のひとりであった三好長慶(みよしながよし)の家臣であったということです。

三好長慶は、京都をはじめとした近畿圏一帯に勢力をもち、“影の副将軍”とも噂されるほどに足利義輝以上の権力をもっていました。

戦国の三悪人ともいわれる松永久秀でしたが、はじめの仕事は意外にも事務方です。

祐筆(ゆうひつ)といわれる秘書と書記係を合わせたような仕事だったのです。

事務仕事を任されていた松永久秀が武将になれたわけは、三好長慶が織田信長以上の能力主義だったためです。

家柄よりも能力の高さを評価していたので、松永久秀に武将としての素質アリとわかれば、即活躍の場が与えられたのでしょう。

ところが、順調に権力を広げていた三好長慶にもかげりが見え始めます。

もっとも信頼をしていた弟の十河一存(そごうかずまさ)が病気により急死

さらに2年後には、跡継ぎであった三好義興(みよしよしおき)も、わずか22歳で病死したのです。

『足利李世記』によると、相次ぐ三好長慶の身内の急死は、松永久秀による毒殺だったとされています。

そして、三好長慶のもうひとりの弟である安宅冬康を、三好長慶自身が殺害するという事件が起きます。

これも松永久秀の告げ口によるものだったと、『足利李世記』には記されています。

度重なる親族の死に心身を衰えさせた三好長慶自身も、とうとう死んでしまいます。

このあとの三好家は、三好三人衆と呼ばれる重臣と松永久秀が中心となっていくのです。

三好家を支える主要なメンバーの殺害に、松永久秀は成功したとされますが、果たしてそれは事実だったのでしょうか?

ホントは三好一族殺害はウワサ!跡継ぎを守ろうと重臣たちと対立!

三好長慶の跡継ぎ、そして信頼していた弟を毒殺した犯人が松永久秀であるといわれてきましたが、その証拠となるものはありません。

今まで松永久秀が犯人である証拠とされる『足利李世記』には、本当はこう書かれています。

「松永久秀が毒殺したというウワサがある」

これって、どこにも根拠がないですよね。

もうひとりの弟・安宅冬康を殺害したことも、根拠がアヤフヤです。

むしろ、松永久秀は三好家のために常に行動していたと考えた方が納得できることがあります。

三好家の跡継ぎ・三好義興の急死のときには、松永久秀は深く悲しんだとされています。

後継ぎが病死したあとの三好家は、急死した弟・十河一存の息子を養子にして継がせました。

ところが、重臣である三好三人衆はあまり好意的ではなかったようです。

三好三人衆が三好義継を主君として認めていなかったのでしょうか。

三好長慶が死んだあと、三好三人衆と松永久秀は対立します。

はじめは三好三人衆の元にいた三好義継でしたが、松永久秀の元へ行っています。

松永久秀こそが信頼できる家臣であると考えていたのではないでしょうか。

室町幕府13代将軍・足利義輝を殺害!

足利13代将軍・義輝(よしてる)は、剣豪・塚原卜伝(つかはらぼくでん)に剣を教わり、自らも剣術を磨いた“剣豪将軍”と呼ばれています。

群雄割拠の戦国時代に将軍となった足利義輝にとって、今日の味方は明日の敵となるような混乱の中で将軍職を努めました。

京都をはじめ近畿圏に勢力を強めた三好長慶とは、協調と対立を繰り返していましたが、三好長慶が死去したのをきっかけに、権威が衰えた足利幕府を復活させようと考えたのです。

各地の大名たちの争いを積極的に仲裁し、足利義輝の影響を強くしようとしていました。

足利義輝をお飾り将軍にして権力をもっていたかった松永久秀と三好三人衆は、足利義輝暗殺を計画します。

清水寺を参拝するフリをして1万の兵を引き連れ、松永久秀たちは足利義輝のいる二条御所を襲い殺害したのでした。

ルイス・フロイスの記述には、松永久秀たちに襲われ殺害された足利義輝の様子が書かれています。

「足利義輝が自分で薙刀(なぎなた)をもって戦い、その剣術の凄さに驚くほどだった。さらに接近して戦うために薙刀を捨て、刀に変えて戦った。」

また、江戸になってから書かれた『日本外史』には、さらに足利義輝の奮戦ぶりが書かれています。

「足利家秘蔵の刀を畳に刺し、刃こぼれするたびに新しい刀に変えて兵と戦った。」

剣豪将軍らしい華々しい戦いぶりですが、多くの兵が攻めてくる状況では足利義輝も持ちこたえられず、殺されてしまいます。

権力を奪うためなら将軍殺しさえすると、松永久秀は恐れられたのです。

しかし、足利義輝殺害の現場に、松永久秀がいなかったとしたらどうでしょうか?

ホントは殺害現場にいなかった!将軍の跡継ぎを保護していた!

永禄の変と呼ばれる1567年6月17日、足利義輝が殺害された日に、松永久秀は京都にはいませんでした。

大和国になる多聞山城にいたのです。

足利義輝殺害に参加したのは、三好三人衆の他に、松永久秀の息子・松永久通(まつながひさみち)でした。

息子が参加しているなら、足利義輝暗殺の黒幕が松永久秀ということも考えられます。

計画はしたが、実行犯ではないともいえます。

だだ、足利義輝が殺害されたことを知った松永久秀は、すぐに覚慶というお坊さんを保護しています。

これは、のちに室町幕府15代将軍となる足利義昭(あしかがよしあき)のことです。

幕府転覆を計画しているのではないかと考えた松永久秀は、次期将軍候補が殺されることを警戒したようです。

このことからも、松永久秀自身が将軍に取って代わろうと思っていたわけではないと考えられます。

仏なんて怖れるなかれ!東大寺の大仏を焼き払う!

三好三人衆と松永久秀の三好家内の権力争いがヒートアップしていきます。

ついには、三好三人衆VS松永久秀での戦いになっていきます。

三好家の跡継ぎであった三好義継が最初は三好三人衆の側にいましたが、突如、松永久秀側に寝返ります。

三好本家の後ろ盾を得た松永久秀は勢いづきました。

三好三人衆は、松永久秀と大和国を巡って争っていた筒井順慶(つついじゅんけい)を味方につけます。

筒井順慶が奈良・興福寺の僧兵の出身であったこともあり、東大寺周辺に陣をつくり、松永久秀と戦うことになりました。

東大寺には大仏もあるため、仏様を粗末に扱えずに大規模な攻撃はできないと考えていた三好三人衆軍。

しかし、松永久秀は東大寺に火を放ち、大仏ごと焼き払ってしまったのです。

仏罰も恐れない鬼のような所業だと、松永久秀のことを僧たちは非難しました。

仏教が国の宗教となっていたこの時代に、松永久秀も思い切ったことをしたものです。

こののち織田信長も京都の比叡山延暦寺を焼き討ちしていますので、ありえないことではありません。

ホントは失火が原因!焦ってあとから謝罪していた!

東大寺の周辺に陣を作った三好三人衆もいかがなものかと、素朴に思ってしまいます。

特に協力関係にあった筒井順慶は、僧兵の出身でもあるのですから、もし焼かれでもしたらと考えなかったのでしょうか?

東大寺大仏殿の戦いといわれる争いについて書かれている『多聞院日記』には、こう書かれています。

「穀物小屋についた火が法花堂へ飛び火し、大仏回廊に延焼して大仏殿が焼失した。」

松永久秀が火をつけたようには読めない書かれ方です。

また、ルイス・フロイスの『日本史』でも違う書かれ方をしています。

「三好三人衆の軍の中に我らの同志がいたのだが、誰かにいわれたわけではないが、自分から火をつけてまわった。」

“我らの同志”とは、ルイス・フロイスのいたイエズス会を指すと解釈できます。

まるで三好三人衆の軍の中にいたキリスト教徒が放火をしたかのようにも読めますよね。

その他にも、書物によって東大寺大仏殿の焼失の原因が違っています。

・三好軍の火薬に火がついてしまった。

・大仏殿の近くにあった三好軍の小屋に、誤って火がついた。

いずれも松永久秀が東大寺大仏殿に火を放ったとされる書き方はされていません。

もっとも悪い見方がキリスト教徒の放火説であり、しかも、イエズス会の宣教師が書いたものです。

仏教界に倍返しだ!

かなり、自分の思いが入っているように受け取れます。

ほとんどが失火により、結果的に大仏殿が焼けてしまったと考えられます。

さらにいうと、松永久秀も三好三人衆も戦いが終わったあと、東大寺に対して謝罪しています。

さらに、東大寺復興への寄付しているのです。

まさか、東大寺を焼くことになるとは・・・申訳ないっ!!

松永久秀も三好三人衆も、さすがにやり過ぎたと焦ったのでしょうね。

織田信長には首も茶器も渡さない!日本最初の爆死!

東大寺大仏殿の戦いのあとも、三好三人衆と松永久秀の争いは続きました。

その間に、織田信長が足利15代将軍・義昭を連れて京都へ上洛してきます。

三好三人衆は織田軍と対立し、松永久秀は織田信長に協力し、大和国を平定します。

松永久秀は足利義昭の重臣となり、織田信長とは強力な同盟者となります。

しかし、甲斐国(現在の山梨県)の武田信玄が上洛のために進軍してくることを知ると、織田信長を裏切り対立したのです。

ところが、武田信玄が急死したことで状況が不利になり、織田信長軍に降伏します。

これが松永久秀の1度目の裏切りです。

その後、3年ほどは織田信長の下で行動していましたが、今度は越後国(現在の新潟県)の上杉謙信の上洛に応じて織田信長と対立します。

これが2度目の松永久秀の裏切りです。

ところが、またしても上杉謙信が急死してしまいます。

織田信長は、松永久秀を気にいっていたのか、裏切りを許すといってきました。

織田信長
織田信長

許すかわりに、名茶器・平蜘蛛をくれ。

松永久秀と同じくらい茶器のコレクターだった織田信長は、降伏を受け入れる代わりに茶器の名品といわれる「平蜘蛛」を要求してきました。

松永久秀
松永久秀

信長には、俺の首も平蜘蛛もみせてやらぬわ!

火薬を平蜘蛛につめこむと、抱きかかえたまま火をつけ、松永久秀は爆死したといわれます。

悪人らしい壮絶な最期といえますね。

ホントは爆死してない!修復された名茶器・平蜘蛛が現存する!?

織田信長が欲しがり、松永久秀が一緒に死ぬほどの名茶器・平蜘蛛とはどんなものなのでしょうか?

古天明平蜘蛛

蜘蛛がはいつくばったような形をした平たい茶釜のことです。

浜名湖舘山寺美術館に「古天明平蜘蛛」と伝わる茶釜があります。

ん!?

松永久秀が平蜘蛛を抱いて爆死したのに、現在もあるとはどうゆうこと!?

実は松永久秀の死因が爆死というのは、今では創作だといわれています。

松永久秀は信貴山城を織田軍に包囲され、その城の中で死んでいます。

しかし、信貴山城は焼失してしまい、松永久秀の遺体も見つかっていません

自害をしたとも、焼死したともいわれています。

平蜘蛛については、織田信長からの降伏を勧める使者の前で割ったとされています。

そして、信貴山城が焼失したあとに、その中から掘り返し、欠片を集めて作りなおしたのです。

爆発していたとしたら、欠片を集めることはできないと思いませんか?

現存する平蜘蛛が、松永久秀の愛したものと同じかどうかははっきりしていません。

それでも、松永久秀が平蜘蛛とともに爆死は無さそうです。

松永久秀の最期としては、爆死の方がロマンがありますけど・・・・・

織田信長を二度も裏切ったワケは足利将軍家を守るため!?

今までの通説だけを見ていくと、私利私欲のためにどんな手段も恐れないことが松永久秀の印象でした。

しかし、実際の松永久秀は、主家を守り、将軍を重んじる、とてもマジメな武将に見えてきました。

“マジメな武将・松永久秀”と考えると、織田信長を二度も裏切った理由もわかります。

松永久秀が、これまでどおり足利将軍を中心とし、各大名が将軍を支える国づくりを考えていたことに対し、織田信長は自分が支配者となり国を動かしていくことを目標としていた、考えの違いがあったのではないでしょうか。

織田信長による天下統一は、松永久秀から見れば足利将軍を蔑(ないがし)ろにして排除しようとする危険な人物と考えていたように思えます。

そこで松永久秀は、武田信玄や上杉謙信といった武将たちの動きに合わせて、織田信長を包囲・挟み撃ちして排除しようと考えたのです。

武田信玄も上杉謙信も、足利将軍には争いの仲裁をしてもらった恩もあります。

織田信長のように自分が支配者となるようなことはないと考えたのでしょう。

さらに武田信玄・上杉謙信ともに実力はあれども、領土は京都から遠くにあります。

松永久秀自身は、京都に近い大和国を支配下にすることで、足利将軍を支える重臣になろうとしたのです。

これまでのイメージと180度違う「忠臣・松永久秀」だったと考えられるのです。

まとめ:名茶器・平蜘蛛と最期は爆死がウソ?戦国三悪人・松永久秀の真の顔!

織田信長→豊臣秀吉→徳川家康と日本の支配者が変わる中で、足利将軍を否定することを正当化する必要があったのでしょう。

足利将軍の地位を狙った悪人・松永久秀を、織田信長が倒したということにしたかったのではないでしょうか。

そして、正しい天下統一の継承者が徳川家康であるというオチになっているのでしょう。

松永久秀が忠義に厚い人物では、辻褄(つじつま)が合わなくなってしまうのです。

“悪人・松永久秀”に仕立てるために、三好家乗っ取り・将軍暗殺・大仏焼き払いという大罪を負わせることにしたのです。

かなりの名プロデューサーがいたものです。

松永久秀にとっては敵であった筒井順慶の家臣だった島左近の言葉が残されています。

「今どきのものには、明智光秀や松永久秀のような決断力に欠けている。」

島左近は関ヶ原の戦いで西軍の指揮をとって石田光成の重臣だった人物です。

松永久秀が、明智光秀並みの能力を備えていた評価の高い人物だったということですね。

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