北条氏政は名君だった!秀吉の心変わりで勝ち目を失くした小田原征伐

小田原城の写真 戦国時代のわやなストーリー
三代目・北条氏康
三代目・北条氏康

北条家もわしの代で滅びるであろう。

小田原北条氏三代目・氏康(うじやす)が息子・北条氏政(ほうじょううじまさ)の食事姿を見て、北条家の滅亡を予見したといわれます。

歴史好きのくろーるです。

戦国時代に一介の浪人から関東を支配する大名となった北条早雲(ほうじょうそううん)から100年の歴史のあった小田原北条家。

ところが、1590年(天正18年)の豊臣秀吉(とよとみひでよし)による小田原征伐(おだわらせいばつ)で、ろくな戦いもせずに滅ぼされます。

小田原征伐を招いた四代目当主・北条氏政は先の読めない愚かな人物として、小田原北条家の汚点とされました。

しかし、北条氏政の能力にかかわらず、小田原征伐の実行は決められていたのです。

豊臣秀吉の心ひとつに翻弄された、小田原北条家の悲劇の真相です!!

暗愚な北条氏政が招いた小田原征伐により北条家滅亡??

本能寺の変から8年。

織田信長の後継者となった豊臣秀吉の勢いは目覚ましいものになっていました。

中国地方の毛利(もうり)氏、四国地方の長宗我部(ちょうそかべ)氏、九州地方の島津(しまづ)氏と西の有力大名は次々と豊臣秀吉に服従していました。

西日本を制した豊臣秀吉は、東日本へ目を向けます。

100年に渡り関東地方を支配してきた小田原北条家四代目・北条氏政は、そんな豊臣秀吉の強大さを見くびっていたとされます。

北条氏政がどれほど愚かな人物であったかには、こんなエピソードがあります。

食事のとき、北条氏政は1杯のお椀のご飯に、汁を二度かけて食べたといいます。

三代目・北条氏康
三代目・北条氏康

毎日食べる飯にかける汁の量すらわからないのでは、

国の政治や軍事の裁量などできるはずもない。

父である三代目・北条氏康は、こう言って北条家滅亡を予見していました。

さらに、もうひとつ。

農夫が麦を刈っている姿をみた北条氏政。

北条氏政
北条氏政

あの麦を麦飯にして、

すぐにここに持ってこい!

こう家臣に命じました。

収穫された麦は、乾燥して脱穀され、精白しなければ麦飯にはできません。

そんなことさえ知らない世間知らずな人物が小田原北条家の当主とは、その行く末も知れたものというわけです。

北条氏政
北条氏政

関東の名門・小田原北条家を攻めるとは、

豊臣秀吉も田舎者よ!

小田原に攻めてきた豊臣秀吉を、その程度の小物と思っていました。

全国から集めた豊臣軍は総勢20万!

圧倒的な戦力を前に、「戦うべきか、服従するべきか」も決められず、3ヶ月の長評定の末に小田原城は開城されます。

そして、北条氏政は切腹・息子は追放の末、小田原北条家は滅亡してしまうのです。

北条氏政の先見の明のなさが、小田原北条家の滅亡を招いたとされています。

それほど、北条氏政は愚かな人物だったのでしょうか?

織田信長・豊臣秀吉に従うつもりだった!!

織田信長
織田信長

北条氏政の息子とわしの娘を一緒にさせるとは、

いい案じゃ!

1580年(天正8年)に北条氏政は、息子の氏直に北条家を継がせ、自分は隠居の身となります。

実はこれ、織田信長の娘と氏直に婚姻関係を結ばせることが決まったことによります。

北条家当主との婚姻の方が、より良い格式になるのですから当然のことでした。

全国に覇を唱えようとしている織田信長と良好な関係を結ぶことで、北条家の安泰を考えたと思われます。

ところが、この縁談は本能寺の変により織田信長が殺されたことで変更せざるを得なくなります。

次の天下人も定まらない中で、北条氏政は徳川家康の娘を迎えることにしたのです。

織田信長との関係を良くすることを勧めてくれたのは徳川家康だったこともあったでしょう。

その一方で、徳川家康が将来性のある人物と考えたのではないでしょうか。

この選択は、結果としてのちのち良い結果をもたらします。

さて、その後時代は豊臣秀吉政権へとなっていきます。

北条氏政
北条氏政

どのようなことであろうとも、秀吉殿の命令に従います。

小田原征伐の2年前、北条家は豊臣秀吉への服従を決めています。

徳川家康の仲介もあって、豊臣秀吉と現当主・北条氏直の間には友好な関係が築かれようとしていました。

西日本の有力大たちと同じように、豊臣秀吉への臣下への手続きを踏んできていたのです。

むしろ、徳川家康との親戚関係もあり、スムーズともいえました。

これに対する豊臣秀吉側も、国境確定の手続きをするといった手続きを積極的に行なっていました。。

ここまでは、北条家・豊臣家ともに順調に進んでいたと考えられるのです。

小田原征伐のきっかけ「名胡桃事件」は北条家にとっては濡れ衣

小田原征伐にいたる直接の原因となった事件があります。

「名胡桃城奪還事件」です。

先の豊臣秀吉による北条家の国境確定のときに、隣接する真田家のものと決められた名胡桃城を突如、北条家側の猪俣能登守(いのまたのとのかみ)が奪還するという事件が起きます。

これをもって豊臣秀吉は北条家に従う気がないとみて、小田原征伐を決定したとされます。

ところが、この事件を北条家側は直前まで知らなかったと思われます。

それは、豊臣側へいつも通りに使者を派遣したことでもわかります。

豊臣側へ派遣した使者が拘束されたという報告を聞いて、はじめて何か深刻な事態が発生していることを知ります。

そして、この事態を招いているのが名胡桃城のことであることがわかると、現当主・北条氏直、先代当主・北条氏政、外務大臣にあたる北条氏規(ほうじょううじのり)が個別に徳川家康へ手紙を出しています。

北条氏政
北条氏政

名胡桃のことはまったく知らなかったことです!

北条氏政
北条氏政

真相を明らかにしてもらえれば、濡れ衣であることがわかるはずです!

豊臣秀吉に間をもってもらえるよう、徳川家康へ必死に訴えています。

三名が同時に手紙を出すこと事態も異例のことですから、相当あわてていたことがうかがえます。

もし、名胡桃城奪還事件が北条家の企みだったとしたら、または、知らなかったとはいえ豊臣秀吉を見くびっていたとしたら、十分な戦力を整えて決戦に臨んだのではないでしょうか。

名胡桃事件の前から小田原征伐は決まっていた!

名胡桃事件をきっかけに豊臣秀吉は、小田原北条家を攻めることに決めたとされていますが、そうとも限らないようです。

名胡桃事件の1ヶ月以上前に、豊臣秀吉は官僚の長束正家(なつかまさいえ)に指示を出しています。

・年内に20万人の1年分の食料を、来春までに駿河港へ運搬すること。

・伊勢、尾張、三河、駿河で兵糧を買って、小田原近くに運搬すること。

・馬二万匹分の飼料も調達すること。

すでに小田原の北条家を攻めることは決定事項で、これに向けて戦争準備を整えていたということです。

名胡桃事件を豊臣側が仕組んだのかはわかりませんが、少なくとも口実にしたに過ぎなかったといえます。

北条家側が慌てるのもムリはありません。

ちなみに、名胡桃事件で城を奪われたのは、沼田領主・真田昌幸(さなだまさゆき)です。

真田幸村(さなだゆきむら)の父親にして、徳川家康を何度も苦しめた戦術家でもあります。

豊臣秀吉から指示を受けて、名胡桃事件を仕掛けることなど容易いことでしょう。

これは、あくまで推測ではありますが・・・

子を想う親心が小田原北条家を滅亡させた!

途中までは、北条家の豊臣秀吉への服従は進んでいたのに、ここにきて小田原征伐をすることに決まったワケはなんだったのでしょうか?

1589年(天正17年)春の時点では、北条家の国境確定がされていましたので、豊臣家の一員となるつもりが双方にあったと考えられます。

長束正家への豊臣秀吉からの指示が同年10月ですので、春から10月までにあった出来事が関係しているといえます。

この年の5月、のちの豊臣秀頼となる待望の実子が、淀君との間に生まれているのです。

さらに、6月には東北の有力大名・伊達正宗(だてまさむね)が隣国の蘆名義広(あしなよしひろ)を破って会津への領土拡張を成功させています。

関東以北の情勢が不安定であることを、あらためて思い知った豊臣秀吉。

このとき北条家100年の中で最大の領土を獲得した功労者は、小田原北条家の先代当主・北条氏政だったのです。

我が子が生まれ、この先の豊臣家を想うとき、障害となるものは取り除いておきたいと考えたのでしょう。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

かわいい我が子のためじゃ!

小田原北条家はつぶすこととしよう!

小田原北条家、そして伊達家をこのままにしておくわけにはいかないというのも当然です。

小田原征伐は、豊臣秀吉に子供が生まれたために決められたといっても過言ではありません。

歴史にifは禁物ですが、豊臣秀吉に子供が生まれなければ、小田原北条家は滅びずに豊臣秀吉の一員として迎えられていたかもしれませんね。

北条氏政は名君だった!秀吉の心変わりで勝ち目を失くした小田原征伐 まとめ

優れた当主が続いたがために、100年続いたとされる小田原北条家。

中央の情勢を的確に読み、先を見通し婚姻による関係強化をしていた北条氏政は、先代たちに劣らない名君だったといえるのではないでしょうか。

そんな北条氏政も、さすがに豊臣秀吉の心変わりまでは見通せなかっただけなのです。

どんな弁明にも応じない豊臣秀吉に対し、北条氏政・氏直親子が混乱するのも仕方がありませんね。

「小田原評定」とのちに皮肉られる評定も、結論が出るはずがありません。

どうしようと北条家の滅亡は規定路線なのですから。

小田原征伐の結果、先代当主・北条氏政は責任をとって切腹させられます。

一方、息子であり現当主・北条氏直は高野山追放となって生き永らえることができたのです。

これは、徳川家康の娘婿であったことに豊臣秀吉が気をつかったためといわれています。

徳川家康の娘を息子の嫁に迎えることを決めたのは、北条氏政です。

北条氏政が先見の明のある優れた名君だった、ひとつの証ともいえるのではないでしょうか。

北条氏直が生き残ったおかげで、小田原北条氏の命脈は保たれます。

江戸時代には、徳川家康の家臣として北条氏直の息子が家臣となっているのですから。

小田原北条家滅亡から学びビジネスに活かす方法『小田原征伐に学ぶー相手に口実を与えない

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コメント

  1. 鷲谷 壮介 より:

    初めまして、鷲谷と申します。

    この度小田原征伐についての記事を書かせていただいたのですが、その際にくろーるさんのこちらの記事を参考にさせていただきました。

    ちょっと前まで「北条家が滅んだのは氏政が愚かだったせいだ」みたいな論調が強かったですが、小田原征伐は氏政の対応に関係なく決定事項だったということを知って衝撃を受けました。

    しかし、北条家滅亡以前の氏政のやり方を見ていたら決して愚将とも思えなかったので、かえって納得しましたw

    それと、誠に勝手ながら自ブログにてくろーるさんのこちらの記事のリンクを貼らせていただいたので、ぜひ遊びにいらしてください!

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