長宗我部元親の悲しみの狂気が生んだ!四国最強妖怪「七人ミサキ」

日本史(戦国時代)

歴史大好き!くろーるです。

高知に伝わる妖怪・七人ミサキ

7人の亡霊が現れ、見たものが死霊となると、七人ミサキの一人が成仏されるといわれます。

自分が成仏する代わりに死霊となるものを求めてさまよう恐ろしい妖怪です。

七人ミサキが生まれたわけには、四国を統一した戦国武将・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)のお家騒動が関係しています。

息子の戦死により精神に異常をきたした長宗我部元親と、その機に乗じた家臣の権力争いにより殺された者たちの怨霊が七人ミサキとなったのです。

豊臣秀吉の軍門に下ったとはいえ、一度は土佐から天下を狙った長宗我部元親。

それほどの有能な武将が陥った狂気と、七人ミサキ誕生の悲しい伝説をお話しします。

鳥なき島のコウモリといわれた四国の覇者・長宗我部元親

長宗我部家軍旗

1539年(天文8年)、土佐国(現在の高知県)に生まれた長宗我部元親。

幼いころは、色白でおとなしかったことから「姫若子(ひめわこ)」と呼ばれ、父・国親(くにちか)は家督を継がせるか悩んだほどだったようです。

土佐特有の半農半兵組織・一領具足(いちりょうぐそく)を率いて、四国を統一した武将として有名です。

一領具足の強さは“死生知らずの野武士なり”といわれました。

織田信長とも早くから接近し、その過程で織田信長の家臣だった明智光秀とも親しくなったとされます。

四国のことは切り取りしだい。

織田信長の確約をもらったとして、伊予国(現在の愛媛県)・讃岐国(現在の香川県)・阿波国(現在の徳島県)へ侵攻し、1580年(天正8年)ころにはほぼ制圧します。

ところが、長宗我部元親の勢力を危険とみたのか、織田信長は前言を撤回し四国征伐を決めたのです。

これに納得のいかない長宗我部元親は、織田信長軍を受け手立つ姿勢を示していました。

長宗我部元親の態度に、

織田信長
織田信長

所詮は、鳥なき島のコウモリよ。

織田信長は、時の流れの読めない田舎者だと評したといわれます。

四国征伐は、「本能寺の変」で織田信長が明智光秀に殺され直前で中止になります。

一説には、長宗我部家との調整もしていた明智光秀が四国征伐に不満をもち本能寺の変につながったとも、長宗我部元親と連携をする計画があったともいわれます。

一時は危機を逃れた長宗我部元親でしたが、織田信長の後継となった豊臣秀吉が、1585年(天正13年)にあらためて四国攻めを行います。

豊臣秀吉の配下となった毛利氏をはじめとした中国地方大名軍12万に、長宗我部軍4万では対抗しきれず敗戦を重ねます。

徹底抗戦の姿勢だった長宗我部元親を重臣たちが説得し、伊予国・讃岐国・阿波国を明け渡し、土佐一国を与えられることを条件に豊臣軍に降伏しました。

「姫若子」といわれた男の子とは思えない、勇猛な大名になったわけですね。

豊臣秀吉の島津征伐での無謀な作戦が元親の息子を失うことに

長宗我部元親像

豊臣秀吉政権下で、長宗我部元親は常に期待以上の成果をあげています。

九州征伐・小田原征伐・朝鮮出兵などで、土佐の一領具足の強さを見せつけてきたのです。

しかし、長宗我部元親を最大の悲しみが襲います。

期待の長男・長宗我部信親(ちょうそかべもとちか)の戦死です。

1587年(天正14年)、九州征伐の途上、島津軍と豊臣軍が戸次川で激突します。

戸次川の戦いです。

九州統一を狙っていた島津軍に攻められた豊後国(現在の大分県)の大友宗麟(おおともそうりん)に救援要請を受けた豊臣秀吉は、家臣・仙谷久秀(せんごくひさひで)を軍監とした豊臣四国軍を向かわせます。

戸次川を挟み島津軍と対峙した長宗我部元親は、援軍の到着まで待つべきと進言します。

島津軍は相手をおびき寄せ壊滅する“野伏り(のぶせり)”という戦法を得意とし、それを防ぐためには戦力が足りないと考えたからです。

仙谷久秀
仙谷久秀

土佐の田舎侍のいうことなど聞くに値せぬわ!

ところが、成果を出すことを焦った仙谷久秀は、長宗我部元親の意見を却下し強行進軍をしてしまいます。

豊臣秀吉の家臣を死なせたとあっては、長宗我部家に難題となってはいけないと、先頭となって川を渡り戦いました。

しかし、戦況は予想通りに豊臣軍は総崩れとなり、仙谷久秀は逃走。

必死に豊臣軍の敗走を守りながら戦った長宗我部軍は、長男・信親を失うこととなったのです。

息子の死のショックは大きく、自害しようとする長宗我部元親を、家臣が必死になって止め土佐へ連れて帰りました。

九州征伐を境に、あれほど有能だった長宗我部元親は輝きを失っていきました。

精神を病み、正常な判断ができなくなっていった長宗我部元親が、ついに家督問題で狂気の沙汰をおこしてしまいます。

四男・長宗我部盛親への家督相続が長宗我部家のお家騒動へ発展

長宗我部元親には4人の息子がいました。

長男・信親の死によって、長宗我部家の跡継ぎ問題がおこります。

すでに、豊臣秀吉からは次男で香川家に養子で出ていた親和(ちかかず)が後継ぎとして認められていました。

ところが、四男・盛親(もりちか)を後継ぎとしたいと長宗我部元親は言い出します。

それだけではなく、長男・信親の娘を盛親に嫁がせるともいうのです。

後継ぎの順序を変えるだけではなく、姪と叔父を結婚させることに、家臣からは反対の意見が出ます。

長宗我部元親の叔父・比江山親興(ひえやまちかおき)と甥・吉良親実(きらちかざね)です。

特に、長宗我部元親の弟筋にあたる吉良親実は、叔父・姪の婚姻という人道に反することのないように何度も意見したといいます。

ところが、日頃からライバル関係にあった重臣・久武親直(ひさたけちかなお)が、この機会に吉良親実の信頼を堕とそうとしたのです。

長宗我部元親は、ついに吉良親実と比江山親興の処罰を決め、切腹を命じることとなりました。

同じく、吉良親実の切腹に同行した親族・重臣7名も自害したのです。

吉良親実
吉良親実

叔父殿の過ちを正そうとしたが、不忠の家臣に阻まれた。長宗我部家も長くはもつまい・・・

そういって、腹を真一文字に切り腸を引き出して抗議の証とする壮絶な最期だったと伝わります。

吉良親実の予言通り、四男・長宗我部盛親が当主となると、長宗我部家は取り潰されてしまったのです。

家臣の無念の死がこの世をさまよう「七人ミサキ」の怨霊に

吉良親実と重臣たちの自害からしばらくして、居城であった蓮池城下ではいくつもの怪奇現象がおこります。

吉良親実ゆかりの地には、夜な夜な自害した重臣たちの亡霊が現れました。

宙を駆け回る人と馬のうめき声を聞いたものが町中で何人も現れます。

吉良親実の墓や長宗我部家の城下にも、怪しい火の玉が見られるようになりました。

ある船頭は渡し船に姿の見えない数名のものを乗せます。

我らは吉良親実のもの。これより恨みを晴らしに参る。

と降りがけにいうと消えていったといいます。

ついには、その怨念がライバル・久武親直へと降りかかったのです。

屋敷の前に現れた老婆が久武親直の次男を抱えあげると、急に意識不明となりその夜に死んでしまいます。

さらにそれから三十七日目に、今度は長男が発狂して仏間にこもったまま腹を切って自害。

久武親直の妻も、息子たちの死にショックを受けたのか急死してしまったのです。

それだけでは終わらず、8人いた久武親直の息子のうち7人が次々と急死してしまいます。

親実殿と重臣たち7人が殺したのだ。

人々は、その怨霊を「七人ミサキ」といって怖れました。

「七人ミサキ」に出会ったものは、亡霊となり「七人ミサキ」のひとりとなります。

死んだものたちは、なぜ自分が死んでしまったのかはわかりません。

それは吉良親実と重臣たちの無念の思いを引き継いでいるからに違いないのです。

唯一、死の苦しみから逃れるためには、誰かを殺して成仏すること。

だから、今だに自分と入れ替わる誰かを求めて、「七人ミサキ」はこの世をさまよい続けているのです。

家臣の怨念!妖怪「七人ミサキ」は四国を統一した長宗我部元親の狂気 まとめ

最後に長宗我部家の家督を継ぐこととなった四男・盛親の話をします。

七人ミサキの伝承では、父・長宗我部元親の判断が誤りのように書かれていますが、武将としては盛親の素質は高かったと思われます。

長宗我部盛親は、体が大きく身長が180cmくらいあったとされます。

短気で気が荒く人望が薄かったことが、吉良親実たちが後継ぎに認めなかった理由とされますが、大坂夏の陣では豊臣方最大の戦力を集めて参戦していますので、けっして人望がなかったとはいえないのではないでしょうか。

関ヶ原の戦いで西軍についたことで長宗我部家は、取り潰されてしまいます。

しかし、最後まで長宗我部家復活のために、大坂の陣でも奮戦した盛親。

豊臣方武将として生きて捕らえられたのも、長宗我部家復活を諦めなかった証拠でしょう。

無念にも首を斬られ、京都の三条河原に晒された長宗我部盛親も怨念を残してこの世を去ったのではないでしょうか。

(参考サイト)日本伝承大鑑

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