大坂夏の陣の闇!屏風に見る惨劇!殺人略奪に女性子供の人身売買!?

江戸時代のわやなストーリー

ヒーロー以後(1615)なし大坂夏の陣

歴史ゴシップ好きのくろーるです。

1615年にあった大坂夏の陣を、こんな語呂合わせで覚えた人も多いでしょう。

関ヶ原の戦いから始まった豊臣家VS徳川家の天下争いは、大坂夏の陣をもって決着しました。

織田信長のあとを受け継いで天下人となった豊臣秀吉でしたが、二代で滅ぼされてしまいます。

真田幸村をはじめ数々の悲劇のヒーローたちを誕生させた大坂夏の陣。

大坂夏の陣のその後に、たくさんの民間人に対して行われた非人道的な行為を知っていますか?

大阪城天守閣に保管されている『大坂夏の陣図屏風』には、様々な残虐行為が描かれています。

無差別殺人・略奪・強姦・人身売買まで、ありとあらゆる犯罪行為を見ることができます。

しかも、『大坂夏の陣図屏風』を描かせた人物は、勝者である徳川家側の武将なのです。

勝者側にも関わらず、勝者が行った犯罪行為を屏風という絵にわざわざ記録したのはナゼなのでしょうか。

“戦国のゲルニカ”とも呼ばれる『大坂夏の陣図屏風』の背景を解説していきます。

ゲルニカ

1936年に始まったスペイン内戦のときに、ナチスドイツ軍がスペイン北部の都市・ゲルニカに対して行った無差別爆撃によって犠牲になった民間人の惨劇を描いたピカソの絵画をいう。反戦のシンボルにもなっている。

大阪城天守閣に保管され公開されている『大阪夏の陣図屏風』とは?

筑前福岡藩黒田家に伝わる大坂夏の陣の戦いを描いたものです。

大坂夏の陣のときの黒田家当主は、黒田長政(くろだながまさ)。

父親は、豊臣秀吉の軍師であり、豊臣秀吉の天下取りの功労者でもある黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと黒田如水(くろだじょすい)です。

黒田長政は、豊臣方にいながら早くから徳川家康の天下を予想し、徳川家康からも信頼の厚い大名でした。

『大坂夏の陣図屏風』は、その黒田長政が指示をして描かせたと伝わります。

向かって右側の屏風には、大坂夏の陣の戦闘模様が描かれています。

真田幸村(さなだゆきむら)や後藤又兵衛(ごとうまたべえ)といった豊臣側の有名武将たちが見られます。

向かって左側の屏風には、大坂城落城後の様子が描かれています。

この『大坂夏の陣図屏風』の左側に、民間人に行われた残虐行為を見ることができるのです。

華々しい戦国武将の活躍がある一方で、見るも耐えない戦国時代の現実があることを知らされるのです。

大坂の陣には欠かせない豊臣側武将“大坂五人衆”の最後

大坂の陣に引きつけられる人たちに共通するキーワードは「悲劇」ではないでしょうか。

本題の前に、大坂夏の陣で散っていったヒーロー武将たちをご紹介します。

“大坂五人衆”と呼ばれる、大坂の陣の戦いで主力となった五人の武将たちがいます。

関ヶ原の戦いで西軍・豊臣側に味方し、その多くは西軍が負けたことにより浪人となったため“大坂牢人五人衆”ともいいます。

徳川家康本隊に突撃!家康が一番恐れた男・真田幸村

真田幸村
真田幸村

秀吉公には恩があるだに!

大坂の陣でもっとも名前が知られた武将が真田幸村です。

本当の名は真田信繁(さなだのぶしげ)といいます。

信州(現在の長野県)の豪族だった真田家は、関ヶ原の戦いで西軍・豊臣家に味方しました。

そのために、真田幸村は父親とともに紀伊(現在の和歌山県)の山中で監視される生活を送っていました。

豊臣秀吉に縁の深い真田幸村は、大坂の陣の招集に真っ先にかけつけます。

大坂夏の陣の前年にあった大坂冬の陣では、「真田丸」といわれる出城をつくり徳川軍を苦しめました。

大坂夏の陣でも、真田幸村隊は徳川家康本隊に激しく何度も突入し、徳川家康が死を覚悟するほどに迫ったといわれます。

最後は、途中で休んでいるところを徳川軍の武将と戦い、打ち取られてしまいました。

真田十勇士をはじめ、いろいろな伝説も残している真田幸村。

今でも人気の高い戦国武将のひとりです。

道明寺口の最後は孤軍奮闘!天候に見放された後藤又兵衛

筑前福岡藩(現在の福岡県)黒田家の家臣で槍が上手だったため“槍の又兵衛”と呼ばれていました。

大坂の陣では、徳川軍に味方していた黒田家ですが、元は豊臣秀吉の軍師として栄えた家でした。

黒田長政の時代に黒田家から離れていましたが、豊臣家の呼びかけに応えて大坂の陣に参加します。

大坂夏の陣で激しい戦いとなった道明口の戦いで、天候の影響で当初の作戦どおりに行かずに、後藤又兵衛は敵の中に孤立してしまいます。

徳川軍に囲まれながらも奮戦しましたが、後藤又兵衛は力尽きて打ち取られてしまいました。

大坂五人衆の中では最初の死亡者となります。

後藤又兵衛がいなくなったことは、その後の戦況にも大きく影響したのです。

四国の覇者・長宗我部元親四男!復活を願った長宗我部盛親

長宗我部盛親
長宗我部盛親

もう一度、長宗我部家を復活させるきに!

土佐(現在の高知県)を中心に四国を統一した長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の四男が長宗我部盛親です。

父親・長宗我部元親の死後、長宗我部家の跡継ぎでしたが、関ヶ原の戦いで西軍・豊臣家に味方し土佐を取り上げられます。

大坂の陣では、豊臣方より勝てば土佐を与えることを約束され、長宗我部盛親は参加を決めます。

四国の統一者・長宗我部家だけに、大坂の陣参加のときには離れていた元家臣たちが集まり、もっとも多くの人数をもっていました。

大坂夏の陣でも、多くの戦いを勝ち抜き、豊臣軍の負けが決まったあと生き残って逃走しました。

もう一度、残った家臣・武将を集めて、再び戦おうとしましたが、徳川軍に捕まり首を斬られてしまいました。

長宗我部家復活は、貧しい生活をさせられている元家臣たちのためという心優しい当主だったようです。

長宗我部盛親が家督を継ぐことになったお家騒動の末の悲劇→『家臣の怨念!妖怪「七人ミサキ」は四国を統一した長宗我部元親の狂気』

大坂五人衆最強!徳川軍を圧倒した無双ぶり!毛利勝永

毛利勝永
毛利勝永

どうせ死ぬなら、秀頼公の前で華々しく死ぬだがや!

毛利勝永(もうりかつなが)は、父親である森吉人(もりよしなり)とともに豊臣秀吉の家臣でした。

九州征伐のときに多くの功績をあげ、豊臣秀吉から毛利の姓を名乗るようにいわれました。

関ヶ原の戦いで西軍・豊臣家に味方したため、国は取り上げられました毛利勝永ですが、親しい山内家に預けられるという穏便な罰で済んでいます。

大坂の陣の招集には、監視をしていた山内家をだまし、家族さえ置いて参加する

大坂夏の陣最後の戦いとなった天王寺口の戦いでは、真田幸村とともに徳川軍の主力を次々と撃破する活躍を見せました。

さらに、真田幸村隊が壊滅し、戦況が不利になったときには、追ってきた徳川軍を撃退しながら大坂城まで戻ることにも成功しています。

最後は、豊臣家当主・豊臣秀頼の首を斬る役目を与えられ、その後に自害しています。

大坂五人衆の中での功績としては、真田幸村以上ともいわれ、毛利勝永が最強ともされています。

キリシタンだった明石全登の最後は行方不明!

明石全登
明石全登

神のご加護で、キリスト教の復活を!アーメン!

関ヶ原の戦いで西軍・豊臣家最大の兵力で戦った宇喜多秀家(うきたひでいえ)の重臣だったのが明石全登(あかしぜんと)です。

宇喜多家の没落後、明石全登も浪人となってしまいます。

キリシタンだった明石全登は、徳川家康によって禁止されたキリスト教を復活させることを約束し、大坂の陣で豊臣軍に参加します。

大坂夏の陣最後となる天王寺口の戦いでは、徳川家康本隊を奇襲する部隊を率いていましたが、真田幸村隊の壊滅で作戦は不可能になります。

徳川軍に囲まれる中も明石全登軍は突破します。

その後の明石全登の行方はわかりません。

豊臣軍の敗北を見て逃亡したのか、途中で殺されたのか・・・・・

キリスト教では自殺は禁止されています。

いずれにしても、生き続けようとしたことは間違いないでしょう。

大坂五人衆によって、もっとも悲劇だったのは、上層部に意見が聞き入れられなかったことでしょう。

大坂豊臣軍のトップであった豊臣秀頼は、イメージのような弱弱しい青年ではなく、判断力も頭脳も良い人物と考えられます。

ただし、人生経験や戦場経験が乏しく、母親である淀君(よどぎみ)や重臣・大野治長(おおのはるなが)の意見を聞かなくてはいけない立場にありました。

決定権をもつ首脳陣は、実践経験の多い“大坂五人衆”を集めておきながら、その意見を軽く見ているところがありました。

大坂五人衆は、あくまで戦うための戦力でしかなく、全体の戦略には参加できなかったのです。

すべての望みをなくしながらも、最後まで戦い抜いた大坂五人衆たちは、こうして悲劇のヒーローとなったのです。

『大坂夏の陣図屏風』が語る敗者のたどるむごい運命

天下の台所といわれた大坂。

江戸時代においては、京都へ物を運ぶための経済の中心地でした。

大坂の陣があった頃の大阪の人口は、おおよそ20万人といわれています。

それほど人口があった大坂を、徳川軍が攻めてきたのですから大混乱になったことでしょう。

大坂夏の陣は真田幸村隊・毛利勝永隊の激しい攻撃により、徳川家康本隊をあと一歩のところまで攻めましたが、結果、負けてしまいます。

大阪城では、豊臣軍総大将である豊臣秀頼や淀君はじめ、その多くが自害しました。

また、大阪城も燃えてしまいます。

豊臣側が自分で火をつけたとも、戦闘中に引火して燃え広がったともいわれますが、武器庫に延焼し爆発したとされています。

大阪城落城の光景が、すさまじい光景であったと思われます。

豊臣家は終わった。

誰の目にも、そう映ったことでしょう。

そして、残された豊臣軍の敗残兵、豊臣家に仕えていた女性や子供たち、大阪城下の市民たちは、たちまち負け組となったのです。

戦国時代のルールとして、勝った側は負けた側のものを好きなようにできるというものがありました。

だから、勝った側の徳川軍は、負けた豊臣側の人たちに乱暴狼藉の限りをつくしたのでしょう。

戦国時代の非人道的行為はごく当たり前に行なわれていました。“敵に塩を送る”で知られた義の武将・上杉謙信も例外ではありません。

『戦国時代の奴隷狩り!乱取りが目的だった上杉謙信の関東侵攻!!』

戦国時代の暗黙のルール!“乱取り”という乱暴狼藉行為

殺人・略奪・人さらい・強姦など勝ったものが、負けた側から勝利品として奪う行為を総称して乱取りまたは乱妨取りといいました。

『大坂夏の陣図屏風』に描かれた乱取りを見ていきましょう。

戦争の目的は殺し合い!“偽首(にせくび)”で手柄を稼ぐ

戦国時代の主な戦いは、兵士同士の斬り合いです。

参加している兵士は、ひとりでも多くの敵の兵士を殺すことで戦いが有利なるわけです。

そして、多くの敵の兵士を殺したものが、出世していくことになります。

激しい戦闘の最中に、誰が誰を殺したのかを確認することは大変だったと思います。

一応、兵士を殺し、その証拠として首を斬り落とすのですが、近くにいたものが証人となることが必要でした。

実際に、首をとったことを確認した記録は残っています。

すでに死んでいたものの首を持ってきても、カウントされないといったこともあり、かなり厳しく確認されていたようです。

しかし、大坂夏の陣の最後は、逃げ出す人たちで大混乱になっていたはずです。

ですから、武将ではない民間人を殺して、手柄にしようとした兵士もいたのです。

荷物持ちをやっていたものを殺し、その首をもっていき敵方の兵士を殺したことにしたのでしょう。

また、兵士ではあっても敗残兵のため、戦うつもりのない兵士もいました。

徳川軍の兵士になんとか命だけは助けてもらおうとしたのでしょう。

しかし、そんな兵士でさえ殺して、自分の手柄にしていたのです。

大坂の陣は、戦国時代から江戸時代へと変わっていく最後の大規模な戦争でした。

参加した兵士にしてみれば、この機会を逃せば、次はいつ兵士としての出世ができるかわかりません。

だからこそ、必要のない殺害がたくさん行われる原因になったのでしょう。

戦利品はものだけじゃない!?女性・子供まで拉致して売り飛ばす

勝った側の戦利品として、負けた側のものを奪うことは認められた権利でした。

大坂城下から逃げ出した人たちのものを奪うことは当然の行為だったわけです。

大坂城下にあった屋敷・商家などは、当たり前のように徳川軍の兵士たちがなだれ込み、金目のものや高価そうなものは根こそぎ持ちだされました。

作戦上や戦闘の進行上、大坂夏の陣の主戦場に遅れてきた部隊にとっては、奪うものがなくなったところへやってくるのですから、戦利品を求めてさまようことになります。

大坂城下から逃げ出した民間人・女性・子供を追って、逃げた方へと徳川軍の兵士がやってきます。

無抵抗の人たちから奪えるものはなんでも奪うことになります。

戦利品として奪えるものの中には、“人”も含まれます。

奴隷として捕まり、売買もされていました。

阿波藩(現在の徳島県)に残された拉致者の一覧があります。

そこには、拉致された人の性別や年齢・生まれなどが書かれています。

『大坂濫妨人・落人改之帳 慶長廿 松平阿波守』と書かれたものによると、男女合わせて177人もの拉致者がおり、子供もいたことが書かれています。

阿波藩の記録は、たまたま現在まで残って伝わったに過ぎません。

“人さらい”と呼ばれたこの行為は、多くの藩でも行われたことでしょう。

いったいどれだけの人たちが、大坂から連れ去られたことか、想像するだけでも気分が悪くなりますね。

いつも犠牲になるのは立場の弱いもの、女性への暴行

戦場での性暴力は、今に限ったことではありません。

力の弱い女性を、戦場のどさくさに紛れて乱暴をすることは、戦国時代も変わりません。

『大坂夏の陣図屏風』の中でも、徳川軍の兵士に追われたり、何人かの兵士に囲まれる女性たちが描かれています。

すでに、着物をはがされた女性も描かれていますが、乱暴をされたのか、または着物を持っていかれたのか、それともその両方か、いずれにしても弱いものが犠牲になる様子がいくつも描かれているのです。

大阪城から逃げ出した豊臣家の姫が、そうとは知らずに乱暴をした兵士がいたという記録があります。

その姫は、その後伊達家に嫁いだという話が残されています。

『大坂夏の陣図屏風』最大のミステリー!本当の作者は誰なのか?

『大阪夏の陣図屏風』は、筑前福岡藩黒田家に代々伝わる家宝として残され、受け継がれてきました。

黒田家初代当主・黒田長政が描かせたと伝わります。

黒田長政は、大坂夏の陣には参加し、多くの活躍をしています。

しかし、大坂夏の陣の前年にあった大坂冬の陣では、留守番をさせられています。

徳川家康からは、元々豊臣家に仕えていた黒田家が裏切ることを警戒していたことが留守番の理由とされています。

黒田長政にとっては、徳川家康の疑いを晴らすためにも、大坂夏の陣での活躍が必要だったわけです。

『大坂夏の陣図屏風』を描く必要があるとしたならば、徳川軍の活躍を描くことが必要だったと考えると納得がいきます。

でも、実際の『大坂夏の陣図屏風』には、向かって右側の屏風には確かに徳川軍の活躍が描かれています。

そして、向かって左側の屏風は、徳川軍の乱暴狼藉が記録されているのです。

考え方にもよりますが、これは徳川軍の犯罪行為を告発しているようにも見てとれます。

事実、現代の考え方に基づいて『大坂夏の陣図屏風』を見るものは、徳川軍の行為を認めることはできません。

『大坂夏の陣図屏風』を描いた絵師は、何を考えて、告発するような記録屏風を作ったのでしょうか?

一族皆殺しを知る黒田美作と岩佐又兵衛が本当の作者!?

黒田家に伝わる話によると、『大坂夏の陣図屏風』は大阪夏の陣の戦いが終わって直後、当主・黒田長政が家臣の黒田美作(くろだみまさか)に指示をしたといいます。

黒田美作は、絵師の又兵衛に依頼をしたのですが、作成途中に亡くなってしまいます。

そのため、同じく黒田家家臣で絵に詳しい竹森貞幸が中心となり、別の絵師に依頼して完成させたといわれます。

途中から絵師が変わっているため、屏風絵の描き方に違う部分があるということです。

実は、この屏風絵の描き方が違うところに、『大坂夏の陣図屏風』真の作者に迫る秘密が隠されています。

黒田長政が生きているうちに描かれたものは、向かって右側の徳川軍活躍シーンだけではないかというのです。

そのキーパーソンは、作成指示を受けた黒田家家臣・黒田美作京都の絵師・岩佐又兵衛(いわさまたべえ)です。

そして、黒田美作と岩佐又兵衛の共通点は、荒木村重(あらきむらしげ)という戦国武将です。

それぞれの人物を簡単にご紹介します。

黒田美作

荒木村重の家臣の息子であった黒田美作は、荒木家滅亡後、黒田家家臣となりました。黒田長政の父親・黒田官兵衛は、荒木村重が反乱した時に織田信長の代理として、降伏の交渉をする役目をもらい荒木村重のところへ行ったのです。しかし、荒木村重は黒田官兵衛を監禁してしまいます。そのときに、黒田官兵衛の世話をし助けたのが黒田美作の父親だったのです。

岩佐又兵衛

岩佐又兵衛は、荒木村重の愛人の子供です。一族皆殺しとなった荒木家でしたが、まだ小さかった岩佐又兵衛は、養母に連れられ脱出に成功していました。その後は、京都で絵師となり『洛中洛外図屏風』を描いたことで有名です。岩佐又兵衛が『大坂夏の陣図屏風』を描いた理由は、もうひとつあります。『山中常盤物語絵巻』という岩佐又兵衛の作品にある、盗賊による殺害シーンがとても生々しく残酷に描かれているのです。その他にも、人間のみにくい姿を描いたものが見られます。この点が、『大坂夏の陣図屏風』に岩佐又兵衛が関わっているのではないかといわれるところです。

荒木村重

摂津国(現在の大阪と兵庫の境)の武将で、織田信長に対して反乱をおこし、一族皆殺しにあったことで知られます。しかし、荒木村重本人は城から脱出し生き残り、豊臣秀吉の時代には千利休の弟子のひとりにもなっています。

黒田美作と岩佐又兵衛作者説をまとめると、

  • ・黒田家に伝わる『大坂夏の陣図屏風』を描いた絵師・又兵衛=岩佐又兵衛では?
  • ・黒田美作と岩佐又兵衛は、荒木家一族皆殺しを経験している。
  • ・戦場での人間のみにくい本質を残すことを思いついたのでは?

もちろん、正式な伝承に登場する又兵衛は、当主・黒田長政より先に死んでいます。

もし、『大坂夏の陣図屏風』の戦場惨劇のシーンを描いた人物が岩佐又兵衛とするなら、時期に違和感が出てしまいます。

しかし、それは長い間に間違って伝わった、もしくは人物が特定されないように、わざと違う人物としたことも考えられます。

黒田長政が生きているうちは、当主に気を使って徳川軍の活躍だけを描いたのです。

そして、黒田長政が死んだあと、本当に描きたかった戦場のむごいシーンを屏風に残したのではないでしょうか。

黒田美作は、当主・黒田長政について大阪夏の陣を戦っています。

大阪夏の陣で行われた乱暴狼藉を、その目で見てきたはずです。

黒田美作が目撃したシーンを、そのまま岩佐又兵衛が屏風に再現したのかもしれません。

その完成度が高いわけは、黒田美作と岩佐又兵衛には幼いころの荒木家惨殺という共通の出来事があったからではないでしょうか。

まとめ:大坂夏の陣の闇!屏風に見る惨劇!殺人略奪に女性子供の人身売買!?

“乱取り”といわれた戦場での惨劇は、大坂の陣に限ったことではなく、他の多くの戦場でも行われたことです。

今であれば、戦場カメラマンが写真にすることで、戦場の真の姿を訴えることができるしょう。

写真のない戦国時代で、本当の戦場を知るには絵で描くことしかできませんでした。

黒田美作も岩佐又兵衛も、『大坂夏の陣図屏風』で戦場の惨劇を描きたかったわけではないでしょう。

いかに平和な時代が必要であるのかを伝えたかったはずです。

(参考資料)

雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り/著者:藤木久志

戦国のゲルニカ「大阪夏の陣図屏風」読み解き/著者:渡辺武

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