呪われた国「日本」。
呪霊を鎮めることを繰り返しながら日本という国は造られてきました。
歴史大好き、くろーるです。
日本三大怨霊でありながら史上最恐の怨霊でもある崇徳(すとく)天皇。
天皇という最高権力者の座にありながら、ダークサイドに身を堕とし、自ら魔物となりました。
日本の大魔王となることを誓い、今なお、崇徳天皇の呪術は生き続けているのです。
日本という国そのものを呪った崇徳天皇の呪術の本当の狙いを教えます!!
私たちは今も呪われている・・・・・
父・鳥羽上皇から嫌われた崇徳天皇の忌まわしい出生の秘密
1119年(元永2年)、鳥羽(とば)上皇の第一皇太子として生まれた崇徳天皇。
母は、大納言・藤原公実(ふじわらのきみざね)の娘・藤原璋子(ふじわらのしょうし)、のちの待賢門院(たいけんもんいん)。
現役天皇とナンバー2の娘を両親にもった、生まれながらにしての天皇であったのです。
そんな崇徳天皇の不幸は、父・鳥羽上皇に嫌われていたこと。
鳥羽上皇から、一度は天皇の座を譲られた崇徳天皇でしたが、その後は、あらゆる手段を使って崇徳天皇に実権を握らせないように裏で動いていました。
それほどまでに自分の子を嫌う理由は何であったのか?
崇徳天皇は、鳥羽上皇の子供ではない!?
鳥羽上皇の祖父・白河(しらかわ)法皇の子供ではないかという疑惑です。
この当時、絶大な権力を振るった白河法皇が鳥羽上皇の妻・藤原璋子との間に生まれた子が崇徳天皇だといいます。
真偽のほどはわかりませんが、もし事実だとすると、鳥羽上皇は祖父に妻を寝取られたということになります。
これほどの屈辱を味わいながらも、白河法皇には逆らえない孫・鳥羽上皇。
そして、その鬱憤の先が崇徳天皇に実権を握らせないというイジメへと向かいました。
特に、1129年(大治4年)に白河法皇がこの世を去ってからは、鳥羽上皇のしたい放題。
崇徳天皇は、自分の子供を天皇にすることもできずに、その地位を継いだのは弟・後白河(ごしらかわ)天皇でした。
後白河天皇は、崇徳天皇の弟でありながら、正真正銘の鳥羽上皇の実の子供だったのです。
父から嫌われ続けた崇徳天皇と兄でありながら兄弟とは認めない後白河天皇。
二人の確執は、やがてまわりの勢力に利用され、対立へと発展していきます。
「保元の乱」で敗れた崇徳天皇は無念のまま讃岐国へ都落ち
1156年(保元元年)、父・鳥羽上皇が亡くなります。
崇徳にはけっして遺体は見せるな!
最期まで崇徳天皇を嫌っていた鳥羽上皇の遺言によって、父親の死に立ち会うことが許されませんでした。
自分への憎しみの大きさにショックを受ける崇徳天皇に、さらに悲劇が襲いかかります。
崇徳天皇が兵を集めてクーデターを呼び掛けている!
それは、身に覚えのない噂でした。
一説には、後白河天皇と側近たちの陰謀ともいわれます。
崇徳天皇を拘束しようという動きに危機感を抱き、味方となった武家たちとともに脱出します。
これが、″崇徳天皇によるクーデター″という証拠になってしまいます。
運に恵まれない崇徳天皇は、図らずも後白河天皇と対立することとなってしまいました。
現役天皇である後白河天皇には、多くの勢力が味方しました。
特に、平家の頭領・平清盛(たいらのきよもり)が後白河天皇側に味方したのは、大きな流れの分かれ目となったのです。
数に劣る崇徳天皇勢力は敗れ、崇徳天皇自身も投降します。
保元の乱における処罰はとても厳しいものでした。
崇徳天皇側で中心人物となったものは、350年ぶりに死刑が復活して処刑されました。
そして、崇徳天皇は京都から追放され、讃岐国(現在の香川県)への流刑となったのです。
天皇がこれほどの厳しい処分を受けたのも400年ぶりのことでした。
崇徳天皇の百人一首の歌は恋の歌ではなかった!?
実権のない天皇として、無情なときを過ごして来た崇徳天皇。
政治ができないことへのあり余る想いは、和歌へと向けられました。
崇徳天皇の歌には情熱的な恋の歌が多いことでも有名です。
落語にも取り上げられ、『百人一首』にも選ばれている和歌は、特に知られています。
瀬を早み 岩にせかるる滝川の われても末に あわむとぞ思ふ
たとえ一度は別れてしまっても、また会うことができるという道ならぬ恋の熱い想いを、川の水が岩によって分かれる様になぞらえた歌といわれます。
父に嫌われ続けた崇徳天皇の心情を考えた時、この歌は父・鳥羽上皇へ向けた歌ではなかったかと思えてならないのです。
落語『崇徳院』ではこの歌のように、恋に落ちた二人が運命的な再会を果たします。
しかし、父・鳥羽天皇に愛されたかった崇徳天皇の想いは、現世では叶うことはなかったのです。
「魔縁となって遺恨を散ぜん」絶望と怒りが崇徳天皇を怨霊へ
恋人たちの想いを四季折々の風情に乗せて和歌を詠む崇徳天皇とは、心優しいロマンチックな人なのでしょう。
失意のうちに京の都を追われ、遠く離れた讃岐国に流され、さぞや恨めしく思っていたのではないか?
と思いきや、崇徳天皇の讃岐国での生活は、寂しさこそあれ恨みを抱く気持ちはありませんでした。
思いやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを
保元の乱を引き起こした原因は自分にあるとでも考えていたのか、戦乱のために命を落としたものたちの霊を慰め、自分の責任の大きさを省みる日々を送っていました。
仏教の教えを深く学び、その功徳によって報われなかったものたちを救おうと考えたのでしょう。
五部大乗経を写経したのです。
この五部大乗経をすべて写経すると、仏教をすべて学ぶと同じ功徳が得られるといわれるありがたい教えでした。
写経した五部大乗経の5つの写本を京都にあるお寺に納め、戦死者の供養をして欲しいと朝廷へ送ります。
崇徳のやつめ、俺を呪おうというのだな!!
長年の確執で疑心暗鬼になっていたのか、後白河天皇は写本を納めることを拒否しただけでなく、崇徳天皇の元へ送り返したのです。
ひどく頭痛に悩ませれていたといわれる後白河天皇ですので、心を病み冷静な判断ができなかったのかもしれません。
一文一文に極楽浄土への功徳を込めた写本を送り返された崇徳天皇は、ついに心が折れてしまいます。
この経を魔道に回向し、魔縁となって遺恨を散ぜん!
崇徳天皇は烈火のごとく憤り、舌を切ったその血で写本に呪いをかけます。
日本国の大魔縁となり皇を取って民とし民を皇となさん!
血染めの写本を海へと放り投げると、爪や髪は伸び続け夜叉のような顔となり、最期には生きながらにして天狗となったといわれます。
生ける妖怪となった崇徳天皇は、怒りのままに46歳まで生き続け、1164年(長慶2年)に命が尽きます。
死んでもなお、崇徳天皇の恨みは収まりませんでした。
崇徳天皇の遺体を納めた棺桶からは血が溢れ続け、腐ることもなく、まるで生きているようだったといいます。
焼いた遺体からは紫色の煙が立ち上り、京の都へ向かって流れていきました。
しかし、史上最恐といわれる崇徳天皇の呪術が、京の都を恐怖で覆うまでには、まだしばらくかかるのでした。
″裏切者には永遠の苦しみを″崇徳天皇の呪術が京の都を襲う!
崇徳天皇がこの世を去ってから12年が経った1176年(安元2年)。
突如、後白河天皇の関係者が、次々と亡くなります。
6月に息子嫁の高松院が亡くなると、7月には後白河天皇の皇太后・建春門院が、8月には孫・六条院が亡くなります。
9月には、保元の乱で崇徳天皇と敵対した藤原忠通(ふじわらのただみち)の養女も亡くなったのです。
たった4ヶ月の間に崇徳天皇と対立した関係者が4人も亡くなりました。
もしや、崇徳様の呪いではないのか??
京の都では、そう囁かれるようになりました。
崇徳天皇の呪術が広がるまでには、少し時間があるように思われます。
しかし、この間に崇徳天皇は罪人のまま扱われ、その死を弟・後白河天皇は無視し続けたのです。
後白河天皇が心を改めることを待っていたかのようですね。
しかし、崇徳天皇の堪忍袋の緒がきれたのでしょう。
翌年1177年(安元3年)には、京の都にも災難が降りかかります。
4月に起きた「安元の大火」は京の都の三分の一を灰にしてしまいます。
6月には平家打倒のテロ計画「鹿ヶ谷の陰謀」が発覚し、後白河天皇政権の信頼が揺らぐことになりました。
崇徳天皇の呪術は、保元の乱で自分を裏切ったものを苦しみ悶え死に至らしめるという恐ろしいものでした。
藤原忠通 | 保元の乱で貴族方の中心人物。可愛がっていた側室の不倫現場を見てショックを受け死亡。 |
信西(しんぜい) | 保元の乱の主導者で、死刑を復活させ崇徳天皇方についた武将を処罰した。続く平治の乱では敗れ逃走中に土中に穴を掘って隠れたところを発見され、刺し殺されたとも自害したともいわれる。 |
平清盛 | 保元の乱では崇徳天皇の期待を裏切り、後白河天皇に味方した。熱病にうなされ、苦しみながら死亡。 |
源義朝(みなもとのよしとも) | 後白河天皇に味方し功績をあげた。平治の乱では敗れ、家臣に裏切られ殺される。 |
崇徳天皇の呪術は、裏切り者にけっして安易な死を与えないこと。
ゆっくりと真綿で首を絞めるように、苦しみ抜くことが呪いの深さを感じます。
そして、その恐怖を味わい続けたのが、誰あろう後白河天皇だったのではないでしょうか。
平清盛の死因の謎→『感染症による熱病か?それとも崇徳院の怨念?死因不明の平清盛の最期』
西行でも崇徳天皇の恨みを鎮めることはできなかった!
遅きに失するも崇徳天皇の怨霊に悩まされた後白河天皇は、その魂を鎮めるため西行(さいぎょう)を讃岐国へ派遣します。
西行は、元は北面武士(御所の警護職)でありながら出家した異色の僧侶です。
天皇家とも縁のある西行は、崇徳天皇の身を案じていたひとりでもあり、讃岐国に流されたあとも元気づける手紙を送っていたのでした。
よしや君 昔の玉の ゆかとても かからん後は 何にかはせん
しかし、ときすでに遅し。
友人・西行による崇徳天皇の荒ぶる魂を鎮めることはできませんでした。
崇徳天皇の呪術は発動されたあとだったのです。
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1184年(寿永3年)に、後白河天皇は崇徳天皇の霊を鎮めるために「崇徳院廟」を建てました。
そして、保元の乱のときの濡れ衣を無かったこととし、「崇徳院」の名を送ることにします。
弟からの兄への和解の印として。
これにより崇徳天皇の呪術は本当に解けたのでしょうか?
史上最恐の呪い!日本三大怨霊・崇徳天皇がかけた呪術の真の狙いは? まとめ
その後も崇徳天皇の呪術は怖れられ、ことあるごとに崇められてきました。
室町時代には、崇徳天皇を慰めた細川頼之(ほそかわよりゆき)の四国平定に力を貸したともいわれます。
明治天皇は、崇徳天皇の御霊を京都へ返し白峰神宮を建てるとともに、戊辰戦争の終結を願い成就しています。
昭和天皇は、香川県にある崇徳天皇の御陵で儀式を行い、1964年の東京オリンピックの成功を祈願し成功させています。
なんといっても一度目の東京オリンピックは、戦争により中止になっているのですから。
しかし、崇徳天皇がかけた呪術の本当の狙いは違うところにあります。
「日本国の大魔縁となり、皇と取って民とし民を皇となさん」
こう宣言して、崇徳天皇は日本を呪う魔物となりました。
崇徳天皇が呪ったのは「天皇の権限」。
そのため、崇徳天皇の死後、天皇が日本の支配者となることは無かったのです。
鎌倉から戦国・江戸時代の武家支配、明治以降の中央集権、現代の国民主権と天皇が行政のトップになることはありません。
早くから上層階級からの支配を逃れ、庶民が時代を動かす力となってきたともいえます。
その力の源は、崇徳天皇の呪術によるものかもしれないのです。
850年にも渡り日本国家を覆い続ける崇徳天皇の呪術こそ、史上最恐の名にふさわしいのです。
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