新撰組の天才剣士・沖田総司はここイチバンで役立たず!!

幕末・明治時代のわやなストーリー

新撰組きっての武闘派でありながら、心根の優しい好青年。

沖田総司(おきたそうじ)の印象は、常に二面性をもっています。

歴史好きのくろーるです。

近藤勇(こんどういさみ)の一番弟子にして、十代で天然理心流の免許皆伝。

人を斬ることにためらいの無い姿は、「隊中一等の剣なれども残酷」ともいわれました。

しかし、新撰組を代表する事件の中では、沖田総司の活躍の場面は多くはありません。

天才でありながら、その剣技を振るうことなく27歳でその生涯を閉じます。

沖田総司の残念な姿を追ってみます。

沖田総司
沖田総司

子供大好き!

ジョーク大好きっ!!

沖田総司のもっとも輝いたときは芹沢鴨暗殺!!

沖田総司
沖田総司

近藤さんは

ボクの師匠です!

新撰組のはじまりは、江戸で近藤勇が開いていた試衛館道場です。

近藤勇を筆頭に、土方歳三(ひじかたとしぞう)や沖田総司たちが徳川将軍護衛のために京都へ行くことから幕末の表舞台へと出ていくことになります。

徳川将軍護衛のために募集した浪士組の中には、水戸藩浪士・芹沢鴨(せりざわかも)という人物がいました。

将軍護衛で京都へやってきた浪士組は、一部が江戸へ戻りながらも、そのまま「壬生浪士組」として京都の治安維持の職に就くことになったのです。

近藤勇
近藤勇

このままでは芹沢さんの

部下になってしまいかねん!!

その壬生浪士組の中で、近藤勇派VS芹沢鴨派の主導権争いへと発展していったのです。

1863年(文久3年)9月、近藤勇一派が芹沢鴨を暗殺することになります。

宴会を開いて、芹沢鴨を十分に酔わせたあと、夜中になって眠りいってるところを襲ったのです。

沖田総司は芹沢鴨を布団の上から馬乗りになり、そのまま突き刺したとされます。

沖田総司
沖田総司

ハハハッ!

芹沢さんはやっぱ、強ぇやぁ~

一緒に寝ていた芸者も、そのまま突き刺しました。

芸者の首は皮一枚でつながって、頭がブラブラしていたといいます。

芹沢鴨も隊内では腕利きの剣士だったため、沖田総司を振り払い、庭へと一度は逃げました。

交わしたときの剣で沖田総司も軽傷を受けているほどです。

しかし、深手を負った芹沢鴨は、そのあと他の隊士たちにずたずたに斬られ死亡します。

沖田総司の人を斬ることをためらわないエピソードとして伝わっています。

池田屋事件では5人を斬るも吐血して戦線離脱

新撰組を大きく世に知らしめた池田屋事件

尊王攘夷志士が京都で計画していたテロを未然に防いだだけではありません。

20名以上もいた尊王攘夷志士を相手に、新撰組隊士が4人で奮戦したことで注目を浴びました。

その4人の中には沖田総司がいたのです。

ただ、沖田総司は池田屋へ乗り込み、尊王攘夷志士5人を斬ったものの、吐血して戦闘不能になります。

殺された尊王攘夷志士の死体を枕にして横たわっていたともいわれます。

その後、土方歳三隊が到着するまでは、近藤勇と二番隊隊長・永倉新八が二人で奮戦しました。

もう一人の隊士・藤堂平助も負傷して戦闘不能になっています。

ここぞというときに血を吐いてしまうなんて、なんとも運が悪い!

天才剣士として才能がありながら、開花できずに逝ってしまう若者として沖田総司は記憶に残る隊士になったのです。

沖田総司
沖田総司

んん~

もっといっぱい

人を斬りたかったのに!!

新撰組の名だたる事件には病気で離脱続き

池田屋事件で名をあげた新撰組は、京都では知らない人のいない存在となります。

尊王攘夷志士を次々と捕らえ、ときには殺害しました。

そして、大政奉還・王政復古を迎え、徳川幕府の世が終ると、新撰組は幕府とともに追われる身となります。

池田屋事件後の新撰組が関わった出来事と、沖田総司の状況を見ていきます。

禁門の変 → 池田屋事件後の療養で参加できず

油小路の変 → 結核の具合が悪く不参加

近藤勇襲撃事件 → 療養中

鳥羽・伏見の戦い → 負傷した近藤勇とともに大阪にて療養

甲陽鎮部隊による甲州線 → 甲府までは移動するも病状悪化で江戸へ戻る

近藤勇
近藤勇

総司のやつ

ぜんぜん、いねぇじゃねぇか!

“新撰組”という組織は、芹沢鴨暗殺後に正式な名称になります。

まもなく池田屋事件が発生することを考えると、“新撰組”となってからは、ほとんど沖田総司は活躍していないことになります。

もっとも、一番そう感じていたのは沖田総司自身だったかもしれません。

大政奉還以後の、新撰組の落日を間近で見なかったことが救いだったかもしれませんね。

まとめ 新撰組の天才剣士・沖田総司はここイチバンで役立たず!!

その後の沖田総司は、新撰組のシンパであった医師・松本良順(まつもとりょうじゅん)の家にかくまわれ、療養生活をしていたとされます。

さらに、新政府軍が江戸へやってくると危険を避けるために、江戸郊外の植木屋の家へと移ったともいわれています。

当時の結核は不治の病とされていたため、隔離生活をさせられていたようです。

その隠れ家で3ヶ月ほど過ごしていましたが、1868年(慶応4年)5月に27歳で亡くなりました。

近藤勇が新政府軍に捕まって斬首されてから2ヶ月経っていましたが、沖田総司は近藤勇の死を知らなかったとされます。

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