病死か?暗殺か?名将軍・徳川家茂の死こそ徳川幕府の終わりの始まり

日本史(幕末・明治時代)

「いい人ほど早く死ぬ」

昔からそういわれています。

この″いい人早死にの法則”は、将軍においても通用するようです。

歴史大好き、くろーるです。

第15代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の破天荒な人生に隠れて、歴史の上では存在感の薄い第14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)。

ところが、徳川家茂こそ徳川家最後の名将軍だったのかもしれないのです。

そして、その突然すぎる死が、その後の幕末の動乱を生み戊辰戦争を引き起こしたかもしれません。

家臣に愛され、天皇からも慕われた第14代将軍。

その死因は、病死か?それとも暗殺か?

徳川家茂の死の真相を暴きます!!

これは、徳川幕府滅亡へのプロローグに過ぎない!!

家臣に慕われ幕末の動乱をわずか21歳で逝った名将軍

紀州和歌山城

徳川家茂は、1846年(弘化3年)に徳川御三家の紀州藩・斉順(とくがわなりあき)の次男として生まれました。

長男が死産であったため後継ぎとなります。

のちに徳川15代将軍となる慶喜(よしのぶ)との将軍後継争いがあったものの、1858年(安政5年)、13歳にして徳川第14代将軍となります。

徳川家茂の時代は、日本が攘夷か、それとも開国かで揺れる激動の時代でした。

徳川家茂政権で起こった出来事を追ってみましょう。

1846年5月徳川家茂誕生
1853年6月黒船来航
1854年3月日米和親条約
1858年10月安政の大獄 ~翌年まで
徳川家茂、第14代将軍就任
1860年3月桜田門外の変
1862年2月皇女・和宮と結婚(公武合体)
9月生麦事件
1863年4月新撰組結成
6月馬関戦争
7月奇兵隊結成
8月薩英戦争・八月十八日の政変
1864年8月禁門の変
9月四国艦隊下関砲撃事件・第一次長州征伐
1866年3月薩長同盟成立・坂本龍馬暗殺
7月第二次長州征伐
徳川家茂死去

できごとをひとつひとつは説明しませんが、日本史の授業では聞いたことあるようなできごとが多いはずです。

まだまだ歴史上重要なできごとはありますが、おおまかなできごとを見ただけでも、どれほど激動の時代であったかがわかります。

若い将軍には、判断が難しいところも多かったことでしょう。

徳川家茂が歴代の徳川将軍に劣ることのない名将軍といわれるのには、相手の考えや思いを読む能力と気遣いの能力、それによる人材の適材適所への採用があったのではないでしょうか。

家臣からは大変人望の厚い人格者であったことは、多くのエピソードからも十分伝わります。

徳川家茂の書の指導をしていた幕臣・戸川安清は、当時70歳を超える老齢となっていました。

書の習い中、戸川安清はふとした拍子に粗相(そそう)をしてしまいます。

そのとき、突然、徳川家茂は戸川安清めがけて、墨を擦るための水をかけていたずらを始めます。

ひとしきり遊んだところで、

「今日はこのへんにして、あとは明日にしよう。」

そう言って、書の習いを終わらせてしまいました。

将軍の前で粗相をしたことで処罰を受けないよう、徳川家茂がいたずらにして見せたのです。

徳川家茂の気遣いに、戸川安清はその場で涙を流したといわれます。

勝海舟
勝海舟

徳川家、今日滅ぶ

1866年(慶応2年)、第二次長州征伐の途中に大阪城で徳川家茂が亡くなったことを聞いた勝海舟は、こう書き記してその死を惜しんだといわれます。

勝海舟といえば、幕末の風雲児・坂本龍馬を見出し、西郷隆盛との江戸無血開城を成し遂げた人物でもあります。

それほどの名将軍であったとされ、事実、徳川家茂の死が徳川幕府終焉への発端となったといえるのです。

たった一人の妻だけを愛した清廉潔白な“いい人”将軍

徳川家茂といえば、皇女・和宮(かずのみや)との婚姻による公武合体が知られます。

公武合体とは、天皇家と徳川家が姻戚関係を結ぶことで、朝廷と幕府が統一して政治活動を行うことです。

当時、和宮はすでに婚約相手がいたにも関わらず、政略結婚として徳川家茂の元に嫁ぐことになりました。

どんな相手かもわからず、引き裂かれるように徳川将軍家へ嫁ぐ和宮にとっては、悲しみと不安しかなかったことでしょう。

しかし、徳川家茂と和宮は、大変仲が良かったといわれます。

というのも、徳川家茂は側室をもつことなく、和宮ただ一人を妻としました。

徳川家存続のためには、多くの側室をもち、後継者を作ることも将軍の仕事とされていた時代です。

天皇家から嫁ぐ和宮への誠意を示す表れでもあったのでしょう。

そして、この公武合体は成功したかと思われました。

第121代孝明天皇は、攘夷(外国勢力を排除すること)の支持者であったため、井伊直弼(いいなおすけ)により開国方針だった徳川幕府と対立していました。

ところが、徳川家茂との公武合体により、その人柄と能力を知った孝明天皇は徳川家茂に信頼を置くようになります。

天皇家・徳川将軍家ともに、攘夷を第一方針としていくことを考えるようになりました。

外国を排除するという攘夷論を方針とすることは、歴史の結果論から見ると間違っているように思えます。

しかし、徳川家茂であれば家臣の意見をよく聞き、孝明天皇からの信頼を得たことで、国内の混乱を抑えつつ、攘夷といいながらも開国できたかもしれません。

天皇家からも将軍家からも信頼のある唯一の人物こそ、徳川家茂だったのですから・・・

第二次長州征伐の途上でのタイミング良すぎる死

ところが、徳川家茂は第二次長州征伐の途中で、病気により21歳の若さで急死してしまいます。

死因は、脚気(かっけ)といわれています。

脚気は江戸には1000万人もの患者がいたとされ、「江戸患い(えどわずらい)」とも呼ばれていました。

白米が中心の食生活が起こすぜいたく病ともいわれ、ビタミン不足が原因といわれます。

さらに、徳川家茂は大の甘党であったことが知られています。

ヨーカンやモナカといった和菓子やカステラや金平糖といった、当時は洋菓子の扱いであったものなど、多くの菓子を好んで食べていたとされます。

1960年(昭和33年)に行われた増上寺にある将軍墓の調査では、徳川家茂が歯のエナメル質が極端に薄い体質であったことがわかっています。

そのため、30本もの歯が虫歯になっていたことがわかりました。

まだ、青年であった徳川家茂にとって、度重なるストレスと疲労を癒すためにも甘いものが必要だったのかもしれません。

徳川家茂暗殺説を検証する!

重度の脚気により急死した徳川家茂ですが、その死には暗殺説もささやかれます。

暗殺説の根拠とされるのは・・・

  • 体が弱っていたとはいえ長州征伐という長旅に耐えられる健康状態であった。
  • 朝廷医師団と幕府医師団の診断の違いにより治療が遅れた。
  • 攘夷の方針であったにも関わらず、大阪から遺体をイギリスの船で江戸へ戻した。
  • 遺体はとても黒ずんでいたため、死因には毒による影響が考えられた。

しかし、暗殺説の根拠にはそれぞれ反論となる根拠があります。

  • 内乱をできるだけ最小限に止めるには、将軍自らの出陣が必要だった。(徳川家茂の人柄を考えると無理をしてでも出陣した可能性が高い。)
  • 医師団にはリウマチという診断もあったため、投薬による治療効果が十分に出なかった。
  • 遺体を運んだ船はイギリスから購入した徳川幕府のものであってイギリス船ではない。
  • 7月の死去であるため、運搬している間に暑さで腐敗がすすむことは想定される。

徳川家茂の死によって、第二次長州征伐は中止となり、長州藩勢力が温存されることになりました。

そして、その後の薩摩藩との共闘により徳川幕府を追い詰めることを考えると、タイミングが良いと考えるのも一理あります。

しかし、「徳川家茂が暗殺された」というのは、少し飛躍が過ぎるでしょう。

ただし、徳川家茂の死が孝明天皇の死を誘発した可能性はあります。

孝明天皇こそ、暗殺された可能性は高いかもしれません。

病死か?暗殺か?名将軍・徳川家茂の死こそ徳川幕府の終わりの始まり まとめ

徳川家茂の政治能力は、徳川最後の将軍となった慶喜よりも高いかもしれません。

孝明天皇とともに日本に内乱を招くことなく、外国勢力を排除しながら開国できた可能性もあります。

しかし、

それでは自分たちの望む権力を握れない!

と考えていた勢力がありました。

薩摩藩・長州藩を中心とした、のちの“維新グループ”です。

天皇家を味方につけることで、日本の中心となろうとしていたものにとって、名将軍の出現は苦々しいものだったでしょう。

その徳川家茂が急死したことで、一度は手を結んだ天皇家と徳川将軍家を破談にする機会が訪れたのです。

徳川将軍家との調和を重視する孝明天皇は、維新グループにとって邪魔者になったと考えても不思議ではありません。

そして、半年後には孝明天皇もこの世を去ります。

これこそ、″タイミングが良すぎる″とみるべきではないでしょうか。

徳川家茂の死が、孝明天皇を亡き者にしようと動き始めるきっかけになったとしたら・・・

幕末の動乱は、作られていったものなのかもしれませんね。

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