淫乱密教に幼女誘拐!理想の政治のためなら何でもアリの後醍醐天皇

室町時代のわやなストーリー

モテる男にはマキャベリストが多いと聞きます。

犠牲と引き換えに欲しいものを手に入れる非情な姿に魅力を感じるのだとか。

目的を最短で達成するためには、多少の犠牲も目をつぶるというのも、真理の一面ではありますよね。

歴史大好き、くろーるです。

武家政権から天皇中心の政治へと戻そうとした後醍醐(ごだいご)天皇

二度の倒幕計画の失敗にも関わらず、凄まじい執念で足利尊氏(あしかがたかうじ)たちの協力を得て、鎌倉幕府滅亡を成し遂げます。

その後、足利尊氏(あしかがたかうじ)との対立により、京都を追われながら奈良にもうひとつの政権(南朝)を起こして、最後まで自分の理想を実現しようとしていました。

「天皇史上最強!」ともいわれた後醍醐天皇には、“淫乱密教の崇拝”“幼女誘拐”という黒い噂もあります。

理想を実現させるためなら手段を選ばなかった後醍醐天皇伝説とはいかなるものでしょうか!?

天皇による政治の実現に一生を捧げた「最強の天皇」

鎌倉時代末期から室町時代初期に在位した第96代天皇である後醍醐天皇

鎌倉幕府による武家政権が長らく続いた中で、後醍醐天皇は天皇を中心とした国家運営を理想としていました。

後醍醐天皇
後醍醐天皇

鎌倉幕府は邪魔だ!

自らの理想のために早くから倒幕を志し、二度も倒幕を計画しています。

残念ながら倒幕計画は二度とも事前に発覚して失敗してしまいました。

それでも、後醍醐天皇はどこまでも挫(くじ)けることなく、天皇中心の政治に執念を燃やします。

隠岐島(現在の島根県沖)に流されても自ら脱出して京都へ帰還。

しかし、そのときに知り合い、のちに後醍醐天皇の元、鎌倉幕府を倒すことになったのが足利尊氏であり、新田義貞(にったよしさだ)であり、楠木正成(くすのきまさしげ)であります。

その後、足利尊氏との対立によって京都を追われた時も、自ら京都を脱出し、奈良の吉野で南朝政権を起こします。

「最強の天皇」ともいわれる後醍醐天皇とは、どれほど異色だったのでしょうか?

新田義貞

鎌倉時代後期から南北朝時代の御家人。鎌倉幕府を倒した張本人。後醍醐天皇に最後まで従った忠臣ともいわれるが、決断力が欠ける人物として描かれる。

楠木正成

鎌倉時代の後期の武将で、数々の奇策を用いて勝利し軍事の天才として評価される。後醍醐天皇を支え南朝軍でとして活躍するも、最後は自害する。

絵図に描かれた「異形の姿」と密教信仰の証拠

そもそも後醍醐天皇を描いた絵図には、「不思議な点がある」といわれています。

神奈川県の清浄光寺にある絵図では、後醍醐天皇が天皇の正装の上に、さらに袈裟を着ています。

頭には普通の冠の上に、「冕冠(べんかん)」といわれる飾りのついた被り物をしています。

過去の歴代天皇の中で、このような描かれ方をした人物はいません。

唯一、聖徳太子(しょうとくたいし)だけが同じ姿で描かれています。

聖徳太子といえば、「一度に10人の話を聞き分けた」という伝説をもつ日本の超人です。

しかも、聖徳太子には『未来記』という予言書を書いたといわれます。

室町時代の軍記物『太平記』では、後醍醐天皇と楠木正成の出会いを予言しました。

つまり、後醍醐天皇にも知られざるパワーがあることを暗示しているのです。

そして、この絵図によって後醍醐天皇と密教との関りが示されています。

後醍醐天皇の絵図では、右手に金剛杵(こんごうしょ)、左手に金剛鈴(こんごうれい)を持った姿が描かれています。

金剛杵も金剛鈴も。空海(くうかい)が開いた真言(しんごん)宗密教の法具で、数々の奇跡をもたらしたとされます。

特に、金剛杵は古代インドから伝わる神々の武器で、邪悪を打ち破るとされています。

後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒すために密教の力を借りていた可能性が高いのです。

「性行為によって願望を叶える」後醍醐天皇が崇拝した密教

後醍醐天皇が崇拝したという密教は、高野山の真言密教の一派であることは間違いありません。

その密教の習得へと導いたとされる僧・文観(もんかん)は、政策・政略のアドバイザーとして後醍醐天皇を支えたといわれます。

この文観が信仰していたといわれる“立川流“という密教一派の教えはとても特殊でした。

願いの成就は、男女の性行為によって成し遂げられる

野ざらしになった髑髏(どくろ)に8年にわたって、性行為を行ったときの液体を擦り続けると、その髑髏が蘇るという外道な宗派だったと伝わります。

ただ、この“立川流の教え”とされるものや文観との関係は、その後の資料研究により事実無根であると証明されています。

しかし、後醍醐天皇の崇拝した密教には、性的行為の必要性を含んだ教えがあったことは否定できないようです。

大聖歓喜天

「大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん)」というインドの神様の前で、護摩による祈祷を後醍醐天皇は行っています。

この「大聖歓喜天」は二つの象が抱き合う姿をしていますが、その形は男性器そのもの

性的要素のある密教を崇拝していたといっても良いのではないでしょうか。

後醍醐天皇が性的密教を行っていたかは、記録が無いのでわかりません。

しかし、後醍醐天皇が性的行為に、人一倍熱心であったというのは、その女性遍歴を見るだけでもわかります。

性的宗教を崇拝していたとしても、何ら疑う余地はないように思えます。

狙った女性さえ手段を選ばずものにする後醍醐天皇の女性遍歴

後醍醐天皇には、17人の皇子・15人の皇女がいたとされ、その皇子・皇女の母親が20人いたと書かれています。

天皇という地位を継続していくためにも、多くの女性と関係をもつことがよいとされた時代です。

必ずしも多い女性遍歴とはいいませんが、その経緯には眉をひそめるものもあります。

11歳で誘拐され妊娠させられた西園寺家の三女・禧子

後醍醐天皇が26歳ころに伴侶となった西園寺禧子(さいおんじきし)。

父親は西園寺実兼(さいおんじさねかね)という太政大臣で、朝廷での高い地位だけでなく、鎌倉幕府にも影響力をもつ人物でした。

このときから後醍醐天皇は、鎌倉幕府への影響力を考え、西園寺家との関係を深めようとしていたとされます。

ただ、問題は西園寺禧子を伴侶にする方法です。

『花園天皇宸記』によると、

東宮(後醍醐天皇のこと)、密かに盗み取るところなり

と書かれていて、要は誘拐してきたというのです。

このときの西園寺禧子の年齢は11歳とされていますので、後醍醐天皇は幼女を誘拐したことになります。

しかも、そのことが発覚したときには、すでに西園寺禧子は妊娠していたといいます。

幼女誘拐だけでなく妊娠させることで、既成事実をつくってまで、後醍醐天皇は西園寺禧子を手にいれようとしたのです。

後醍醐天皇
後醍醐天皇

ことを成し遂げるためには手段を選ばない

そんな後醍醐天皇のバイタリティを感じさせます。

とはいっても、西園寺禧子には高い知性と教養、そして美貌を備えた女性だったと伝わります。

和歌のセンスも良かったらしく、後醍醐天皇との和歌のやり取りも多くありました。

そのため、その後の夫婦仲は良かったといわれます。

そういう意味では、後醍醐天皇が男性としての魅力も備えていたともいえますね。

祖父の女だろうと気入れば自分のものにする民部卿三位

後醍醐天皇の皇子のひとり・護良親王(もりよししんのう)の母とされている民部卿三位(みんぶきょうさんみ)。

この民部卿三位は、後醍醐天皇の祖父・亀山(かめやま)天皇の後宮のひとりでありました。

ただ後宮にいただけではなく、亀山天皇の子供も産んでいます。

後醍醐天皇とは大叔母とのいえる女性関係をもったことになるのです。

民部卿三位には出生のはっきりした記録がなく、後醍醐天皇との恋愛関係がどのようなものであったかはわかっていません。

ただ、祖父の女性であっても、魅力があれば自分のものにするという後醍醐天皇らしい女性関係だと思います。

倒幕計画の発覚により隠岐島に後醍醐天皇が流されたときにも、その行く末を慕う話が『太平記』に書かれており、気持ちの優しい女性であったことがわかります。

祖父・亀山天皇との関係を考えると、後醍醐天皇よりは年上の大人な女性だったのかもしれませんね。

もっとも愛された阿部簾子は禧子に仕えた女

後醍醐天皇を取り囲む女性の中でも、もっとも知られているのが阿部簾子(あべのれんし)です。

阿部簾子ははじめ西園寺禧子に仕えていました。

しかし、その美貌を後醍醐天皇に気に入られ愛されるようになったといいます。

阿部簾子の魅力は美貌だけではなかったようです。

機転がきき、面白おかしく話をする才能にも長けており、男を飽きさせない小悪魔美女だったのでしょう。

隠岐島へも唯一同行した女性でしたので、後醍醐天皇のお気に入りぶりがわかるとともに、献身的なところもあったようです。

一方で、頭がキレるだけに、後醍醐天皇への助言や家臣への物言いの態度が悪く、悪女として扱われるようになっていきます。

それでも、最後まで後醍醐天皇を支え続け、南朝において後醍醐天皇の良き相談役だったようです。

密教の効果か!?最後の執権・北条高時を襲った「物の怪ばなし」

怪しげな密教を崇拝し、鎌倉幕府の倒幕を祈願していたという後醍醐天皇。

その祈祷の効果と思われる話が『太平記』に残されています。

鎌倉幕府執権・北条高時が体験したという不思議な話です。

後醍醐天皇の二度目の倒幕計画が発覚し、隠岐島に流されたころの話。

鎌倉幕府最後の執権となる北条高時(ほうじょうたかとき)は、そのころ毎日のように田楽踊りと闘犬を見ることに明け暮れていた。

あるとき、北条高時はかなり酒を飲み、田楽踊りをひとりで舞い続けていたことがあった。

まわりでは田楽師たちが北条高時を囃(はや)し立て、ともに歌っている。

そのあまりにも楽しげな様子に惹かれた侍女が、こっそり中を覗いてみると、田楽師だと思っていたものたちはひとりも人間の姿ではなく、異様な天狗となって北条高時のまわりを舞っていた。

恐ろしくなって舅である安達時顕(あだちときあき)に知らせにいき、知らせを聞いた安達時顕は剣を手にして急ぎやってきた。

その気配を感じた天狗たち物の怪は、一瞬にして消え失せた。

しかし、そこには鳥や獣のようなたくさんの足跡が残っており、物の怪がいたことは明らかだった。

北条高時は酔いからさめてもぼんやりとしていて、物の怪のことは覚えていなかったという。

この“物の怪事件”からまもなくして鎌倉幕府は滅びます。

鎌倉を攻められ、行き場を失った北条高時とその一族たちは自害し、悲惨な末路をたどったのです。

これも後醍醐天皇が執念を燃やし、祈り続けたことの効果だったのではないでしょうか。

淫乱密教に幼女誘拐!理想の政治のためなら何でもありの後醍醐天皇 まとめ

「異形の天皇」といわれた後醍醐天皇。

理想の政治のためには手段を選ばないバイタリティは、他に並ぶものがいないほどです。

ただ、その気持ちが行き過ぎて、怪しげな密教に手を染め、幼女誘拐をも起こしてしまう奇行となって現れたのかもしれません。

なかなか普通の人には、わからない領域ですよね。

“バカと天才は紙一重”なんて言葉もあります。

大業を成すものというのは、これくらい極端な行動ができなくてはいけないのかもしれませんね。

(参考資料)

後醍醐天皇/著者:兵藤裕巳/岩波書店

後醍醐天皇のすべて/著者:佐藤和彦・樋口州男/新人物往来社

日本の歴史9-南北朝の動乱-/著者:佐藤進一/中央公論新社

日本の歴史11太平記の時代/著者:新田一郎/講談社

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