雷撃で7人死傷!日本三大怨霊になった学問の神様・菅原道真の呪術力

平安・鎌倉時代のわやなストーリー

「呪霊は人間の負の感情から生まれる」

漫画『呪術廻戦』に登場する最強の呪術師・五条悟。

五条悟の祖先は、学問の神様といわれる菅原道真(すがわらのみちざね)だといいます。

歴史大好き、くろーるです。

受験生の強い味方であり、学問の神様であるはずの菅原道真。

呪いとは程遠いように思えますが、その菅原道真は日本三大怨霊のひとりでもあることを知っているでしょうか。

怨霊だったからこそ、その呪力を封じ込めるために全国1万2千社にもおよぶ天満宮の力で鎮められているのです。

太宰府天満宮や北野天満宮は、その中でも菅原道真ゆかりの地にあり、特に強力な力で封じています。

菅原道真の呪術力は、どれほどの力をもっているのでしょうか?

菅原道真の呪術力を知ったあなたは、もう天満宮へは参拝できなくなるかも・・・

学者からナンバー2へ異例の大出世をした菅原道真

平安時代の政治家であり、異例の出世をして、その才能を高く買われていた菅原道真。

幼少の頃の記録は少なく、三男であったといわれますが兄弟の所在はわかっていません。

漢詩や和歌の才能に優れ、その文才を認められて30歳ころには文章(もんじょ)博士といわれる学者としては高い職に就いています。

その後、宇多(うだ)天皇に側近として重用され、その改革路線を支えたひとりでした。

また、宇多天皇から譲位された醍醐(だいご)天皇の下でも、同じく改革路線を支え右大臣にまで出生しています。

右大臣は、今でいうところの副首相くらいの地位にあたります。

天皇に次ぐナンバー2またはナンバー3の役職です。

学者からの異例の大出世をした菅原道真ですが、普段の姿はとてもオジさん。

エロ詩吟を披露してみたり、部下にいたずらをしかけてみたりして面白がる変な上司でもありました。

とても家族想いであったことも知られており、家族のことを歌った和歌が多く残されています。

この家族想いの一面が菅原道真を怨霊にした原因のひとつともいわれるほどです。

しかし、出る杭は打たれるのが世の常。

菅原道真の左遷は、刻一刻と近づいていたのです。

左大臣・藤原時平の陰謀にハメられた昌泰の変

宇多天皇から譲位を受けた醍醐天皇でしたが、改革を進めてきた宇多天皇のブレーンたちが引き続き側近として残っていました。

醍醐天皇のもとで左大臣であった藤原時平(ふじわらのときひら)は、宇多天皇のブレーンから政治の主導権を握ろうと排除を画策していました。

左大臣・藤原時平も右大臣・菅原道真と同じく、ナンバー2またはナンバー3の地位になります。

宇多天皇の時代から引き続き重用されてきた菅原道真もまた、宇多天皇ブレーンのひとりだったのです。

901年(昌泰4年)、宇多天皇が菅原道真の娘婿を皇太弟とする計画がある発覚します。

もちろん、これは藤原時平たちの陰謀。

次の天皇を菅原道真の娘婿にするつもりです!このままでは追放されるかもしれません!

このことを知った醍醐天皇は、菅原道真を大宰府に左遷、関係者の処分だけでなく、菅原道真の4人の息子たちも流刑などの厳しい処罰を下したのです。

これを昌泰の変(しょうたいのへん)といいます。

菅原道真の左遷を画策した中心人物と、その後は以下のとおりです。

人物役職菅原道真死後の末路
藤原時平左大臣菅原道真により呪い殺され急死
源光(みなもとのひかる)大納言鷹狩中に溺死
藤原清貫(ふじわらのきよつら)式部少輔雷が直撃し即死
藤原菅根(ふじわらのすがね)蔵人頭雷に撃たれ死亡
三善清行文章博士唯一に生き残り。

この昌泰の変に関わったもののうち、4人が菅原道真の怨霊により殺されます。

菅原道真の呪術を逃れて生き残ったのは、三善清行ただひとりでした。

菅原道真の左遷に関わったものたちの末路は、のちほど詳しく書きますが、もう少し、菅原道真が怨霊になるまでをみていきましょう。

怨霊化を招いた大宰府への菅原道真の左遷

大宰府天満宮

九州・大宰府(現在の福岡県)に左遷となった菅原道真は、生きる希望を奪われる生活を送ることとなります。

大宰府へはすべて自費で行くこととされ、まわりに世話をするものさえいなかったのです。

藤原時平の指示により、藤原菅根が監視をしており、常に見張られての生活でした。

仕事も無ければ、好きな和歌を作ることも禁じられていたといいます。

家族とも離れ離れになった生活は、菅原道真にとっては生き地獄そのものだったのです。

和歌を作ることを禁じられたといっても、人の創作意欲を奪うことなどできません。

都・京都を想い、家族を想い、無実の罪への無念を和歌や漢詩に残しています。

都への募る想いが書かれた和歌

「東風吹かば 匂いおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」

無実が晴らされることを書いた和歌

「海ならず たたへる水の 底までに きよき心は 月ぞてらさむ」

月を天皇になぞらえて、自分の無実を醍醐天皇がわかってくれることを例えたと言います。

しかし、大宰府左遷から2年後の903年(延喜3年)、無実を晴らすこともなく無念の想いを抱いたまま、菅原道真はこの世を去ります。

59歳でした。

菅原道真の死から5年~京の都を異変が襲う~

菅原道真の無念の死から5年。

この頃から京都ではおかしなことが起こり始めます。

その発端は、906年(延喜6年)、藤原定国(ふじわらのさだくに)が41歳の若さで急死します。

藤原定国は、菅原道真左遷となる際に無実を訴えに来た宇多上皇を、醍醐天皇に会わせないよう阻止した人物でした。

もしや、道真殿の呪いではないか?

次に、藤原管根(ふじわらのすがね)が908年(延喜8年)に雷に撃たれて死亡します。

言わずと知れた、昌泰の変の中心人物のひとりでした。

しかも、藤原定国とともに宇多天皇と醍醐天皇の面談を阻止した人物です。

さらに、翌年909年(延喜9年)には、藤原時平が39歳で急死します。

藤原時平は、いうまでもない菅原道真のライバルでした。

藤原時平の死には、不思議な話が残っています。

病床にあった藤原時平には妙薬も陰陽師の祈祷も効かなかった。

文章博士であった三善清行は、自分の息子で当時都では評判だった浄蔵に加持祈祷をさせることにした。

三善清行が藤原時平の見舞いに行ったとき、時平の両耳から道真の怨霊が二匹の青龍となって現れた。

「無実の罪で配流となり大宰府で死んだ私は、今や天帝の許可により怨敵の復讐をすることに決めた。お前の息子・浄蔵の加持祈祷は無駄である。即刻止めさせよ!」

冥界のことにも明るい三善清行は、すぐに理解し、浄蔵を時平邸より退出させた。

まもなく時平は亡くなったという。

「扶桑略記」

三善清行は菅原道真左遷の中心人物のひとりでしたが、道真の呪術を逃れ生き残っています。

最大のライバル・藤原時平を呪い殺すことに手を貸したことへの見返りだったのでしょう。

そして、菅原道真の怨霊は、左遷に関わったものだけでなく、京都そのものにも襲いかかりました。

910年(延喜10年)~922年(延喜22年)の間には、毎年のように洪水・大火・渇水・伝染病といった災害が京都を襲い続けます。

その間には、菅原道真の後任として右大臣となった源光(みなもとのひかる)が、鷹狩中に泥沼に落ちて溺死。

その遺体もあがらなかったため、冥界へ引きづり込まれたといわれました。

道真殿を左遷したものたちが次々と!呪われておるのだ!

菅原道真の呪術力は権力者・醍醐天皇にも容赦ナシ!

都でその呪術力を大いに発揮した菅原道真の怨霊は、ついに自分に左遷を宣告した醍醐天皇にも向けられます。

醍醐天皇の息子で皇太子であった保明親王(やすあきらしんのう)が、まだ21歳にも関わらず亡くなってしまったのです。

ここにきて菅原道真の恨みの強さを恐れた醍醐天皇は、あらためて右大臣の地位を送り、さらに昇進させるという異例の待遇をしました。

しかし、すでにその程度では菅原道真の呪術力を抑えることはできなかったのです。

保明親王の子で、醍醐天皇からは孫にあたる新皇太子・慶頼王(よしよりおう)も925年(延長3年)に亡くなります。

まだ、5歳でした。

醍醐天皇の血縁を絶やすがごとく、菅原道真の怨霊は猛威を振るったのです。

そして、菅原道真の呪術力は最高潮に達しようとしていました。

雷神・菅原道真降臨!雷撃一発で7人を死傷させた清涼殿落雷事件

930年(延長8年)、醍醐天皇のいる清涼殿で大臣会議が行われていました。

議題は、日照りが続いたことによる干ばつ対策として、雨ごい儀式の執り行いについてでした。

まだまだ、菅原道真の呪術による災害が続いていたのです。

午後1時、にわかに厚い雨雲が空を覆いはじめ、激しい雷雨となって降り注ぎました。

これであれば、雨乞いも必要無かろう・・・

久しぶりの雨に、ひと息ついていたところに清涼殿の南西の柱に雷が直撃したのです。

周辺にいた公卿・官人が巻き込まれ、多くの犠牲者を出すことになります。

落雷の犠牲となったのは、次の7名です。

藤原清貫(ふじわらのきよつら)・・・菅原道真左遷に関わり、藤原時平の指示で太宰府での道真の監視をしていた。雷の直撃を受け、衣服は焼かれ胸を裂かれて即死。

平希世(たいらのまれよ)・・・顔面に雷が直撃し死亡。

美努忠包・・・髪を焼かれて死亡。

紀蔭連・・・胸を焼かれてもだえ苦しむ。重体。

安曇宗仁・・・膝を焼かれて立てなくなる。重傷。

他2名の警備近衛兵が巻き込まれ死亡。

天皇がいる清涼殿での死人は、ケガレとされ、その場にいると自分も被害を受けるといわれていたため、大混乱となったといいます。

醍醐天皇は、かろうじて被害を免れたものの、その悲惨な惨状を見たためか体調を崩してしまいます。

そして、清涼殿落雷事件から3ヶ月後、ついに醍醐天皇も亡くなってしまうのです。

自分の無実を晴らすことのない醍醐天皇を呪い殺すことが、清涼殿への雷撃となったのでしょう。

この事件により、菅原道真は雷神「天満大自在天神(てんまだいじざいてんじん)」となったとされます。

これ以後も、多くの寺社が焼失するたびに“雷神・菅原道真の怒り”だといわれるようになったのです。

雷撃で7人死傷!日本三大怨霊になった学問の神様・菅原道真の呪術力 まとめ

九州大宰府へ左遷され、無念の死から怨霊となった菅原道真。

その菅原道真の左遷での中心人物だった藤原時平。

ライバルとされている二人ですが、けっして仲が悪かったわけではありません。

菅原家と藤原家は幼いころから交流もあり、よく知っていた仲だったのです。

また、菅原道真の仕掛けたいたずらに大笑いした藤原時平が、ツボに入り過ぎて仕事にならなかったという微笑ましいエピソードも残っています。

ヒール役にされがちな藤原時平ですが、歴史上の本来の姿は醍醐天皇の下で改革を実行した立役者です。

むしろ、菅原道真の方が官僚的大臣で、宇多・醍醐両天皇の指示を忠実に実行する人物でした。

有能で驚異の出世をした菅原道真と改革の実行者であった藤原時平。

ことあるごとに起きる災害や不幸を「菅原道真の怨霊では?」と熱心に噂したのは、実は他の官僚たちだったといいます。

「菅原道真と藤原時平の能力をうらやみ妬み、宇多・醍醐天皇の改革を嫌ったものたちがその追い落としをした。」

これが、菅原道真怨霊化の真実ではないでしょうか。

実際、宇多天皇のブレーンは解散、菅原道真・藤原時平・醍醐天皇までも志半ばでこの世を去っています。

今も昔ももっとも恐ろしいのは“男の嫉妬″なのかもしれません。

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