残酷な陽キャラ・豊臣秀吉のウラの性格がわかる5つのエピソード

戦国時代のわやなストーリー

本当の恐怖は、笑顔とともにやってくる。

歴史に名を残した残酷な為政者も、はじめは優しげな顔で近づいてきます。

歴史大好き、くろーるです。

明るい性格と頭の良さで、相手の心をつかみ出世を遂げた豊臣秀吉(とよとみひでよし)。

しかし、笑顔で冷酷な判断を下す姿がドラマや映画にも描写されています。

豊臣秀吉の残酷な性格は、いくつかのエピソードに裏付けられたものなのです。

代表的な5つのできごとから、豊臣秀吉のウラの顔を明らかにします!!

豊臣秀吉の黒歴史を隠すために兄弟姉妹を殺害

戦国時代において親族の殺害は珍しいことではありません。

そのほとんどは、自分の地位を脅かしたり、後継ぎ問題が原因です。

ところが、豊臣秀吉の場合は事情が違います。

自らの身分が低くかった証拠を隠すために、血縁者を殺害していったのです。

イエズス会の宣教師であったルイス・フロイスが書き残した、二つのエピソードをご紹介します。

異父兄弟を殺してその首をさらしものに

あるとき、伊勢国(現在の三重県)に住むという男が20~30人の従者をともなって、大阪城へ豊臣秀吉を訪ねて来ました。

その男は、豊臣秀吉の異父兄弟だというのです。

まわりのものは、関白・秀吉の兄弟に間違いないと思ったそうなので、明らかな証拠をもっていたのでしょう。

貧しかった頃の豊臣秀吉の母・大政所(おおまんどころ)は、暮らしのために他の男とも関係をもった過去があります。

おそらく、関係をもった男を示すものや話す内容に信憑性があったのかもしれません。

その男を見た豊臣秀吉自身が大変機嫌を悪くしたところをみると、見覚えのある男とも考えられます。

秀吉はあえて、母・大政所に事実かどうかを問いただします。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

あの男は、母殿の息子に間違いないかの?認めるかの?

低い身分であった過去を認めることのできない母・大政所は、そのことを否定します。

大政所が言い終わるやいなや、秀吉はその男と従者をすべて切り殺るよう命じたのです。

その男たちの首は棒に刺され、みせしめとして街道に晒されたといいます。

血をひく姉妹をわざわざ呼び出した末に惨殺

さらに、この男の話から3~4ヶ月後のこと。

尾張国(現在の愛知県)にも、自分の姉妹がいることを知った秀吉。

この姉妹は、貧しい農民として暮らしていたそうで、秀吉の招きにあまり気が進まなかったとされています。

しかし、何度も秀吉から招かれるため、天下人との血のつながりは自分の身の幸運かと京へ行くことにしたのです。

ところが、京に入るなり姉妹は連れてきた身内ともども捕らえられ、首を斬られてしまいました。

この二つの話を書き残したルイス・フロイスは、秀吉嫌いとして知られています。

キリスト教徒や宣教師を国外へ追放した秀吉ですから、フロイスの評価が悪くなるのも当然です。

いつ頃の話か、事実かどうかもわからない話ですので、出まかせだといってもいいかもしれません。

しかし、豊臣秀吉が残酷な性格の持ち主であることが知られていたともいえます。

それを裏付ける話が、秀吉の中国攻めにもいくつも書かれているのです。

子供は串刺しに女性は磔にされた「上月城の戦い」

まだ、豊臣秀吉が織田信長の家臣で、羽柴秀吉と名乗っていたころの話です。

中国地方最大の勢力・毛利氏攻略を命じられた秀吉は、播磨国(現在の兵庫県南部)の攻略中でした。

1578年(天正6年)におきた上月城(こうづきじょう)の戦い。

上月城は、山の上にある山城であったため守りが堅く、籠城戦となりました。

城主・赤松政範(あかまつまさのり)は、物静かだが家臣想いだったと伝わります。

上月城兵1万名に対し羽柴軍3万名という不利な状況も、毛利氏の援軍を見込んで持ちこたえていたのです。

ところが、毛利方援軍が難しくなったことを知り、羽柴軍へ降伏することを決意します。

家臣想いの城主らしく、残りの城兵や女性・子供に犠牲を出さないため、赤松政範自身と一族の自害によって羽柴秀吉へ助命をお願いしたのです。

赤松政範一族の自害により、すでにかなりの犠牲を出し降伏をしたのですから、これ以上の殺害の必要はありません。

にもかかわらず、秀吉は上月城の兵をすべて殺すことを命じたのです。

さらに、女性と子供はすべて捕らえると、毛利方との国境まで連れて行き、みせしめとしてその場で全員を処刑します。

敵兵の首をことごとくはね・・・女・子供二百人余を播磨・美作・備前の境目において、子供を串刺しにして、女を磔にして並べ置いた。

これは秀吉自身が語ったといわれ、ある意味自慢のようにも聞こえます。

兵を殺すのは理解できるところがあるものの、子供の体を串刺しにするなど残酷極まりない行為です。

しかし、これほど凄惨な処刑現場さえ、これから始まる地獄絵図のプロローグに過ぎませんでした。

凄惨な兵糧攻めに人の肉まで喰らう「三木の干殺し」

上月城戦と同じくして攻略戦が行われた三木城合戦

のちに「三木の干殺し(みきのほしごろし)」といわれた凄惨な兵糧攻めが行われました。

播磨国の名族であった三木城城主・別所長治(べっしょながはる)は、早くから織田信長と親しい関係を築いていました。

中国攻めにおいても協力を約束していたため、秀吉としても毛利氏へ攻め込む拠点と考えていたのです。

ところが、別所長治が突如裏切り毛利方へと味方します。

裏切りの理由は、身分の低い秀吉に従うことに耐えられなかったという説もありますが、よくわかっていません。

秀吉にとっては、別所長治の裏切りは想定外でもあり、主君・織田信長から失態と見られることを恐れたようです。

軍師である竹中半兵衛の提案を受けて、1年半もの長期間の兵糧攻めを行います。

三木城のまわりを二重に取り囲み、毛利方との連絡や補給を遮断します。

秀吉の兵糧攻めにより、三木城内の食料が日に日に減っていくことになったのです。

別所長治側も毛利方との連絡と補給を確保しようと、秀吉軍に攻撃を仕掛けましたが敗けてしまいます。

毛利氏も援軍を送りたいものの、他方面の織田軍を防ぐために兵力が割かれて援軍を送れない状態でした。

その間に、秀吉軍は周辺の城をひとつずつ落城させ、ますます三木城は孤立していきました。

やがて城内の食料は尽き、木の葉や根を食べ尽くし、牛や馬・犬までも食べ尽くし、最後には死んだ人の肉さえ食べたと伝えられます。

秀吉は“血を嫌った”といわれ、孫子の兵法”戦わずして勝つ”を実践したといいます。

聞こえはいいですが、一般人が飢えて死んでいく様子を数ヶ月に渡って見過ごしているわけですから、残酷極まりない光景が続いたことになります。

血を見るのは嫌いでも、人が苦しみ死んでいく様は気にしないということでしょう。

三木城内の悲惨な状況を見かねた城主・別所長治は、自分を含めた一族の命と引き換えに城内のものを助ける条件で降伏をしたのです。

飢えの苦しさから人の頭を争って食べた「鳥取の飢え殺し」

鳥取城と吉川経家像

羽柴秀吉の中国地方攻略は、その後も続けられ、1581年(天正9年)には鳥取城攻めが行われました。

鳥取城攻めは二度目で、今は毛利方の重臣・吉川経家(きっかわつねいえ)が守っていました。

鳥取城は西側には海があり、前面に川が流れる天然の要害。

そのため、羽柴秀吉は三木城と同じく兵糧攻めを行うことにしたのです。

あらかじめ周辺の米を買い占めた上で、鳥取城内に農民たちを追い込み、その上で何重にも柵をまわして陣を張り、逃げることも補給することもできないようにしたのです。

鳥取城内の食料の蓄えは3ヶ月分しかなく、しかも農民たちが籠城させられたために、早くに食料不足となります。

4ヶ目頃からは、数日に一度、城から決死隊が抜け出て、周囲の草や木の葉・根を取って食料にしなければならないほど、城内の食料不足は深刻だったのです。

戦場での荷物の運搬用の牛や戦闘用の馬も食べ尽くされ、それでも餓死者は増え続けました。

飢餓による鳥取城内の悲惨な状況は、「信長公記」にこのように記録されています。

餓鬼のごとくやせ細った男女が柵に取りつき「ここから出してくれ、助けてくれ」と泣き叫んでいる。そのものを鉄砲で打ち倒れると、刃物をもった人々が集まり、まだ息をする者の節々を切り離し、肉を切り取ってゆくという惨状が繰り広げられた。とりわけ身体の中でも頭は栄養があるらしく、死者の首をあちこちで奪い合い、逃げまどう姿も見られた。

鳥取城では飢えの苦しさから逃れるためとはいえ、人の肉まで食べるという非道な行為もあったとされます。

おそらく、見るも絶えない光景が広がっていたことでしょう。

人々が飢える様を黙って眺めていた秀吉には、狂気さえ感じずにはいられません。

さらに4ヶ月ののち、持ちこたえることができなくなった吉川経家は、自ら切腹することを条件に鳥取城は解放されました。

飢え死に寸前ながら生き残った人々も、お粥を食べたとたんに死んだものが続出したといいます。

極度に続いた飢餓状態の身体に、栄養が急激に吸収されたためにおこったショック死だったそうです。

のちに「鳥取の飢え殺し(とっとりのうえごろし)」と呼ばれた悲惨な城攻め。

三木城に続き、二度目の兵糧攻めをためらわずに実行した羽柴秀吉という男の残酷さは、その戦い方にも表れているのです。

甥・豊臣秀次を自害させ一族の血縁をすべて絶えさせる

晩年の秀吉は認知症を発症していたともいわれ、正常な判断ができなかったのではないかともいいます。

しかし、甥であった豊臣秀次(とよとみひでつぐ)の自害と一族の処刑には、本来の秀吉のもつ残忍さがもたらしたものではないでしょうか。

秀吉の姉の子で甥にあたる秀次は、次の豊臣家を引き継ぐ後継者とされていました。

子供に恵まれなかった秀吉は、秀次を養子としていたのです。

豊臣家の後継ぎとして心構えをあらたに、叔父の名を汚さぬよう努める覚悟をしていた秀次。

すでにかなりのプレッシャーもあったようです。

ところが、側室・淀殿(よどどの)との間に男子ができたことから、風向きが変わってしまいました。

秀吉は異常なほどの親族思いというイメージがあります。

弟を軍師としていたことに加え、この淀殿との子、のちの秀頼(ひでより)の可愛がりようが、そう思わせるのかもしれません。

秀頼を世継ぎにするために、自分を処罰するのではないかと秀次は考えていたといわれます。

それは現実のものとなり、出家させられて世継ぎの座から追い落されたのです。

その後、秀次は自害することになります。

ルイス・フロイスの書き残したエピソードのように、一度汚れた血縁はとことん消し去る性格の秀吉。

秀次の血を引くものを徹底的に処刑することを命じます。

京都の三条河原は当時の処刑場として有名です。

そこに40メートル四方に穴を掘り、秀次の正室・側室・子供・侍女・乳母を含め39名を処刑していきました。

そこには秀次の首を置き、見下ろすような演出付きという悪趣味なものでした。

子供や女性の遺体が折り重なるように積み上がり、そこへ秀次の首が入れられて埋められたのです。

見物にきたものが後悔したほどの残酷な光景だったといわれます。

知らせが間に合わず処刑された最上義光の娘・駒姫

ここにはひとつ、悲しいエピソードがあります。

出羽国(現在の秋田県)の大名・最上義光(もがみよしあき)の娘・駒姫は、東北でも絶世の美少女として有名でした。

最上義光も駒姫を大変可愛がったといいます。

そのことを知った豊臣秀次は、駒姫を自分の側室としたのです。

ところが、秀次自害があったとき、駒姫はまだ秀次に会ったこともありませんでした。

にもかかわらず、秀吉の命令により処刑場へ連れていかれたのです。

最上義光は、秀吉に事情を説明して処刑のメンバーから外すように願い出ます。

まわりからも意見をされた秀吉は、駒姫を処刑しないよう命じて、処刑場へ知らせるよう伝えました。

ところが、その知らせが届いたのは駒姫が処刑され、埋められたあとでした。

悲しみのあまり最上義光の妻は亡くなり、恨みをもった最上義光は関ヶ原の戦いで徳川家康に味方したといわれます。

女好きの秀吉でしたから、本来であれば自分の側室にしても良さそうなものです。

異常なほどの血へのこだわりは、そんな判断もできないほどだったのでしょう。

認知症を患い、その残酷な性格を隠すこともできなくなっていたのかもしれませんね。

残忍な陽キャラ・豊臣秀吉のウラの性格がわかる5つのエピソード まとめ

大河ドラマや映画では、陽気なキャラクターで憎めないヤツとして演じられることの多い豊臣秀吉。

羽柴秀吉時代は織田信長の期待応えるプレッシャーがあり、関白となり天下人となってからは後継ぎ問題に悩まされ、それを隠すために陽キャラを演じていたのかもしれません。

無理な陽キャラを演じる反動が、ときおり現れる残酷な秀吉となっていたとしたら・・・

人の苦しみを見ることで、ひとときの開放感に浸っていたのかもしれません。

豊臣秀吉って、サイコパスですね。

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【あらすじ】

日本戦国史上もっとも失敗し挽回した男・仙谷久秀(せんごくひさひで)の一代記。織田家は西国へと戦線を拡大、羽柴秀吉による播磨平定は容易に終わると考えていた。しかし、突如、三木城主・別所長治が織田家に反旗を翻し戦況は一変。決死の籠城を選んだ鉄血の播州人に秀吉は完全包囲による補給断絶、容赦なき“干殺し”を決行する!!

戦国時代をテーマにした『センゴク天正記』。

10巻から13巻にかけて残忍な豊臣秀吉による“三木の干し殺し”“鳥取の飢え殺し”が描かれます。

一次資料を元に描かれ、実際に戦国時代に行われたことに近づけて描いていることが評価されている宮下英樹先生の『センゴク』シリーズです。

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