″女といえども恥辱を受けることなかれ″
この一心で会津の女性たちは、迫りくる官軍と戦い続けました。
歴史大好き、くろーるです。
鳥羽伏見の戦いから始まった幕末の戊辰(ぼしん)戦争。
その中でも、もっとも激しい戦いとなったのが会津(あいづ)戦争です。
藩祖・保科正之(ほしなまさゆき)の残した「徳川家に忠誠を誓う」という藩訓を最後まで守ろうと、会津藩は奮闘しました。
その会津戦争では、多くの女性や老人・子供が犠牲になりました。
妻が、母が、自分たちは足手まといになると考え、我が子とともに自ら命を絶ちました。
数々の悲劇を生んだ会津戦争。
会津藩の女性たちが選んだ、自分なりの戦いがそこにはあったのです。
戊辰戦争最大の激戦地・会津戦争とは?
打倒!徳川幕府!
薩摩藩・長州藩などを中心に東へ進軍してきた“官軍”は、西郷隆盛と勝海舟の会談によって江戸城を無血開城することに成功しました。
旧徳川幕府の本拠地を陥落させ、次の攻略拠点を“会津”に定めます。
会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)は、旧徳川幕府の中心人物の一人でした。
さらに、京都では禁門の変を巡って、長州藩・薩摩藩ともに会津藩は因縁もありました。
槍をとっては日本一
会津藩士の強さは、こうも表現されるほどだったことも、会津の徹底攻略を必要としたわけでもあります。
江戸から撤退した新撰組などの旧徳川幕府軍は会津に終結。
“官軍”を迎え撃つべく、会津藩国境を守備します。
ところが、西洋式で整えた“官軍”と旧式銃しか装備をもたない旧徳川幕府軍では、戦闘力の差は歴然だったのです。
各国境を突破され、次々に“官軍”は会津藩になだれ込んできたのです。
正に怒濤の勢いでした。
しかし、実戦経験に勝る会津藩士の必死の抗戦で、籠城戦は約1ヶ月にもわたりました。
その会津藩士たちの奮闘も、弾も食料も尽きては戦えません。
会津藩は“官軍”に降伏したのです。
会津藩は、女性も子供も老人も一丸となり、総玉砕覚悟の戦いを挑みました。
そのため、少年兵たちの自決で知られる白虎隊や二本松隊をはじめ、多くの悲劇も生まれたのです。
その中でも、特に会津の女性たちの悲劇にスポットを当てます。
江戸無血開城の真相→『圧力に屈した西郷!してやったりの勝!謀略だらけの江戸無血開城』
一族総勢二十一人の集団自決!国家老・西郷頼母一家の惨劇
会津藩家老・西郷頼母(さいごうたのも)一族の自害は、会津戦争の悲劇のひとつとして知られています。
藩祖・保科正之につながる由緒正しい血筋でもあった西郷頼母。
西郷頼母一族には、会津藩のものとして無様な生き方はできないという想いがあったのかもしれません。
会津藩国境である母成(ぼなり)峠が“官軍”に突破されたとき、家主である西郷頼母は前線で指揮をとっていたため、もちろん不在でした。
会津藩内では城へ籠城するよう指示が出ます。
われらがいては足でまといになろう
西郷家一族に異論はありませんでした。
籠城となれば食料も必要になります。
子供や老人ばかりでは、ただ食料を浪費するばかりで戦いには役に立たない。
会津藩家老の一族として、君主や領民を守るためには、自分たちが犠牲になることを選んだのです。
西郷頼母の一族は、自邸で自害することで会津藩の役に立とうと決めました。
妻・千恵子は、義母と義祖母に最期の支度をさせると、二歳の娘を抱いて自室へ入ったといいます。
自室で、千恵子は義妹二人とこの世で最後の水を口に含み、辞世の句を詠みました。
その身を切られる想いだったでしょう。
まず、八歳の三女、四歳の四女と順に我が娘を刺し殺したのです。
さらに覚悟を決めた千恵子は、抱いていた二歳の五女を刺し殺すと、同じその刃で自分の喉を突いて自害しました。
せめて、自分の娘たちの血とともにあの世へ旅立とうとしたのでしょう。
一緒にいた義妹も同じく自害、義母と義祖母もそれぞれ自害しました。
西郷邸では親族の小森一貫斎の家族5人・西郷鉄之助夫妻・町田伝八の家族3人・浅田新次郎の妻子とその他家臣、合せて21名が会津藩のために自害したのです。
西郷頼母の妻・千恵子の辞世の句
「なよ竹の 風にまかする身ながらも たわまぬふしは ありとこそきけ」
“自分の身が風に任せる竹のように、時代の流れに任せるものであっても、会津の義に殉ずるという強い意志は竹の節のごとく固い“
家老の一族としての覚悟が感じられる句ですね。
西郷邸での一族自決については、敵方の“官軍”兵士との逸話が伝わっています。
会津城を攻めていた土佐藩士は、城の前に広がる邸宅に入ろうとしていました。
伏兵を警戒して発砲したものの反撃はありません。
土佐藩士がその邸宅へ入っていくと、そこには何人もの女性・子供が自ら命を絶ち血の海となっている現場に遭遇します。
まさしく西郷頼母一族が自害をしたところだったのです。
十七、八歳と見える娘にはまだ息があり、苦しそうに横たわっていました。
人の気配を感じてか、その娘は土佐藩士に向かって問いかけます。
「そなたは敵か味方か」
とっさに、その土佐藩士が、
「味方なり」
と答えると、娘は懐から刀を差しだしたのです。
服装を見れば官軍かどうかもわかるはず。
しかし、その娘はすでに目も見えない状態だったのでしょう。
死にきれなかった無念、それとも、その苦しみから逃れたいのはわかりません。
いずれにしても止めを刺すことを望んでのことと、哀れに思った土佐藩士は、その娘の首を斬ったのです。
この西郷家最後の娘が誰であったのか、そして、介錯をした土佐藩士が誰であったかは、今となってはわからずじまいです。
ただ、西郷一族の集団自決は“官軍”兵士にとっても、『会津の不屈の魂』を見せつけられたできごとだったのです。
会津藩の無念は家族・親族にも!多くの悲劇が会津藩各地で!
西郷頼母一族の集団自決は、会津戦争においての非戦闘員の惨劇として語られてきました。
しかし、会津藩内では、他にも多くの女性や子供・老人たちが自害を選んでいたのです。
家の存続のためにたった一人残された柴五郎
明治維新以後、会津藩出身で初めて陸軍大将となった柴五郎(しばごろう)。
会津戦争の当時五歳だった柴五郎は、柴家存続のためにたった一人で親戚の家に預けられました。
柴家の父はすでに会津城に出ており、長男も前線で戦っていました。
柴家に残されていたのは、老人と女性・子供ばかりだったのです。
他にも男子はいたものの、兵士として送り出したり、病弱であったりしたため、五男の五郎が選ばれたのです。
祖母や母・兄弟たちは、迫りくる“官軍”の早さに籠城する機会を逃し、一家全員自害しました。
会津戦争のあと、父・長男はかろうじて生き残り再会を果たします。
陸軍の上層部は薩摩・長州の派閥が占める中、初の陸軍大将への昇格は、生き残ることの使命を負わされた柴五郎のもうひとつの戦いだったのかもしれませんね。
家族を殺し井戸に身を投げた中野慎之丞の妻
会津藩にて百五十石もちであった中野慎之丞(なかのしんのじょう)の一家も悲惨な最期を遂げました。
中野慎之丞は会津軍として従軍中で、長男はすでに戦死しています。
家には、年老いて歩けない父と母、そして長女を筆頭に5人の子供たちだけでした。
妻・やす子は、男勝りの性格だったといわれ、会津城まで行くことができないと判断すると、父・母を刀で殺害します。
続けて5人の子供たちを次々に刺し殺すと、家には火を放ち、自分は井戸に身を投げ自殺したのです。
後日、中野慎之丞の屋敷跡の井戸からは、3人の遺体が見つかっています。
水脹れになった二人の幼児の遺体と一人の女性の遺体です。
幼児は、九歳の次女と三歳の三女と思われます。
女性の遺体は、妻・やす子ですが、喉には刀が突き刺さっていたといいます。
妻・やす子がどれほどの悲壮感を抱いて、愛する家族を手にかけたか伝わる姿ですね。
会津藩士として死んでいった武具職人・野中此右衛門
武器を作ったり修理を仕事としていた野中此右衛門(のなかこのうえもん)は、病気のため家で療養中だったため、戦場に出ることができませんでした。
“官軍”が会津藩内に迫り、籠城の指示が出ると、
わが藩の士風を表わすはこのときなり。わが身は不自由なれど、弾を撃ち尽くし死ぬ覚悟である。
こう家族に言い聞かせると、妻と八歳の長男・4人の幼い娘を刺し殺します。
そのあと野中此右衛門は家に火を放ち外へ出ると、宣言通りに″官軍”相手に銃を撃ち放ちます。
弾を撃ち尽くした野中此右衛門は、
われは会津藩士、野中此右衛門なり!
そう叫ぶと、腹を切って自害しました。
壮絶な野中此右衛門の最期は、官軍兵士も肝を冷やしたことでしょう。
その他にも多くの自害した老人・女性・子供がいました。
女性が自害した記録だけでも233人にもなります。
さらに、土佐藩の資料には別の証言も見られます。
明神森には女二十人ばかり倒れ、あるいは我が子を殺し、自害いたしたり
この土佐藩の記録は、名も無い会津藩の人々が自ら選んだ死だったのでしょう。
おそらく、会津藩の各地でこのような悲惨な光景が見られたはずです。
一族全員自刃!女性・子供も戦いの被害に巻き込まれた会津戦争の悲劇 まとめ
徳川幕府のために、身を粉にして働き続けたと自負のあった会津藩士。
それが時代の変わり目で一転、朝敵とされて追われる身となったことに無念の想いを抱いていました。
その想いは、会津藩士だけではなく、その家族や親族一同まで染みわたっていたのです。
会津藩の女性たちが自決の道を選んだのにはワケがあります。
①薩長軍に捕まれば強姦された上で殺さるといわれていた。
②会津藩にひとつも非難される行いはないことへの抗議の想い。
この二つの考えから、祖父母が、妻が、母が、子供や孫の行く末を悲観して死んでいったのです。
戦争でもっとも被害を受けるのは、戦うすべも持たない人たちであることは、昔から変わらないのです。
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会津戦争までの過程と数々の悲劇、会津女子の活躍と見せ場は盛り沢山です。
戊辰戦争全体を描く漫画はとても貴重ですので、幕末から明治の歴史学習に、ぜひどうぞ!
(参考文献)
女たちの会津戦争/著者:星亮一/平凡社新書
会津戊辰戦争/著者:平石弁蔵/丸八商店出版部
カメラが撮らえた会津戊辰戦争/歴史読本編集部