薩長の蛮行許すまじ!会津戦争で立ち上がった4人の会津の女たち

幕末・明治時代のわやなストーリー

″鉄の女″マーガレット・サッチャーは、映画の中でこういいます。

「これまでの私も戦いの日々でした。男にみくびられながらね。」

そう、女性たちは今も、そして、幕末の昔もずっと戦い続けているのです。

歴史大好き、くろーるです。

戊辰戦争最大の激戦地となった会津戦争。

会津戦争では多くの女性たちも犠牲になりました。

しかし、その犠牲は会津女子が新政府軍にひるむことなく戦った証拠でもあるのです。

会津女子、カク戦ヘリ!

籠城戦の裏リーダー・照姫は藩主・松平容保の想い人

会津藩主・松平容保の義姉であった照姫(てるひめ)。

真面目でおとなしく、堅物ともいわれた松平容保(まつだいらかたもり)に比べ、二歳年上の照姫は、明るく聡明でめりはりのはっきりとした性格だったそうです。

会津藩・江戸屋敷で育った二人は、藩どうしの政略により義理の兄弟となったものの、相性は良かったといわれています。

また、同じく江戸住まいだった会津藩の子女たちからも慕われていたといいます。

戊辰戦争の始まりにより、照姫をはじめ士族の娘たちも会津へと戻ってきていました。

江戸を無血開城させた新政府軍は、幕府軍最強といわれた会津藩へと進撃を開始します。

会津藩の予想に反して、新政府軍は最新式兵器とともに一気呵成に会津領内に攻め込みました。

会津城下はあっという間に戦闘状態となったものの、城へと籠った会津女子は600人にもなったのです。

その城内の会津女子の指揮を執ったのが、照姫でした。

会津女子の城内での主な仕事は、戦闘中の兵士の食事の支度・運び込まれる負傷者たちの看護、そして、不足する弾薬の製造でした。

照姫は、その作業にあたる会津女子たちの先頭にたち、指示し、自らも看護にあたりました。

特に気を配ったのは、会津藩以外から参戦していた兵士たちだったといいます。

新撰組などの旧徳川幕府軍のものや会津藩に同情的な東北諸藩から駆け付け戦い、傷を負ったものたちが多数、会津城内に運び込まれていました。

照姫
照姫

会津のものは看病する親類縁者がいるが、彼らには医者以外に看病するものがいないのです。

照姫は、こういって懸命に看護にあたるよういいました。

増える一方の負傷者に対して、薬などの医薬品などは不足していきました。

不足した包帯の代わりに自分の着物を裂いて使うよう、照姫は指示したといいます。

さらに、高級な着物であっても負傷者の掛物とすることを惜しみませんでした。

そんな照姫の行動を見て、他の士族の会津女子たちも着物を提供していきました。

照姫を筆頭とした会津女子の活躍もあり、会津城籠城戦は1ヶ月にわたり続きました。

一気に会津城を落城させるつもりだった新政府軍としては、思いもよらぬ苦戦を強いられたことになったのです。

周辺東北藩が新政府軍に降伏したことにより、会津藩主・松平容保も開城を決意します。

松平容保の助命と引き換えに、一人の家老が全責任を負って切腹しました。

萱野権兵衛(かやのごんべえい)です。

会津戦争の戦争責任は、三人の家老によって引き起こされたことになりました。

しかし、他の二人はすでに切腹・戦死をしていたため、実質は萱野権兵衛一人が責任を負ったことになります。

夢うつつ 思ひも分す惜みそよ まことある名は 世に残るとも

照姫が送った歌には、徳川幕府に忠実な職務を果たしておきながら、最後には朝敵として敗れた無念を背負って死んでいく萱野権兵衛の想いを込めたものだったのです。

その照姫の思いやりに涙を流し、萱野権兵衛はこの世を去りました。

「照姫様のために」会津女子一致団結の籠城戦

会津戦争での最後の1ヶ月、会津城に多くの会津女子が籠城したことは書きました。

「照姫をお守りしよう!」

そういう掛け声のもとに会津城へ入った女性たちも多かったといいます。

城内での会津女子たちの活躍は、他藩の負傷者たちが″会津の女兵はあっぱれ”と驚くほどでした。

城内にいたものたちは、砲弾の音がするたびに怖れ、伏せるものがあったが、その中を女子たちは平気な顔をして井戸で血糊のついた軍服を洗濯していた

女子たちがいうには″藩の危機にあって、連れ合いとも死に別れ、離れ離れになった以上、むしろ弾に当たって死ぬ方がよい″

会津女子の覚悟は、前線で戦う兵たちと劣ることはなかったのです。

このあと書きますが、のちに「会津婦子隊」といわれた女性だけの隊を率いた中野竹子の母、中野こう子にはこのようなエピソードが残っています。

城内に撃ちこまれた砲弾を破裂させまいと、濡れた軍服で飛びついた中野こう子。

見事破裂を防ぎ、被害を防いだ現場を見ていた藩主・松平容保は、

「何か褒美をしたいが、このような時で何もない。」

そういって、大きな杯に並々と酒を注いで差し出した。

「ありがたき幸せ。」

そういって、中野こう子は酒を一気に飲み干した。

酒豪であったかはわかりませんが、肝の据わった会津女子らしい話です。

新政府軍が撃ちこんだ不発弾からは、城内で不足した銃の弾薬製造が行われました。

弾薬の製造を担当したのも会津女子です。

その製造数は1日に1万2000発、籠城戦の間に19万発も製造されたといいます。

会津城籠城戦で犠牲となった会津女子は、260人とも記録されています。

夫を、父を、息子を亡くしたものも多かったはずです。

それでも、一命をかけて戦ったことは、本望だったのかもしれませんね。

髪を切り薙刀をもった男顔負けの「会津婦子隊」

「照姫様をお守りせよ!」

使命の元に集い戦った女性だけの部隊がありました。

のちに「婦子隊(じょうしたい)」と呼ばれる会津の女性部隊です。

メンバーは総勢6名。

中野こう子44歳江戸詰めだった中野平内の妻
中野竹子20歳中野平内の長女
中野優子16歳中野平内の次女
依田まき子35歳京都詰め依田駒之進の娘、依田源治の未亡人
依田菊子18歳依田まき子の妹
岡田ます子30歳

彼女たちは、本来は照姫の護衛をしようと集まったものの城内に入れずにいたところ、照姫が坂下にいるとの情報を受けて駆け付けたのです。

ところが、照姫の情報は誤報だったことがわかります。

そこで、近くに配置されていた家老・萱野権兵衛の陣へ行き、戦いに参加できるよう直談判へ行ったのです。

中野竹子を筆頭に髪を切り男装をして、薙刀をもち、刀を指した姿に驚いた萱野権兵衛は、

「一同の忠義の心はわかれども、会津のものは力尽きて、ついには婦女子まで戦わせるのかと笑われてしまう。控えられよ。」

しかし、納得することなどなく、

「お許しがいただけないとなれば、この場で自刃して果てるまで!」

そう言った依田まき子の言葉を合図に、全員が刀を抜いたため、

「待たれよ!わかった!明日来る部隊とともに存分に働かれよ。」

家老の許可が出たことに、一同は喜び退出したという。

依田まき子の夫・依田源治は、鳥羽・伏見の戦いで戦死しており、夫の弔い合戦との思いもあったのでしょう。

また、新政府軍とは名ばかりで、各地で放火・略奪をしたあげく、女性を凌辱するという賊の振る舞いを制裁したいという思いをありました。

薩長藩を中心とした新政府軍の蛮行は、すでに知られたことではあったのです。

中野姉妹が美人であったことは、会津藩では有名だったようで、江戸から会津へ戻った頃には、藩内の士族男子がこぞって見に来たというほど。

姉・中野竹子は、戦いに臨むにあたって、母とこんな話をしています。

中野竹子
中野竹子

もし敵に捕まり、優子が辱めを受けるくらいなら、自分たちの手で死なせた方が良いのではありませんか?

母・中野こう子の悩む姿を見た依田まき子は、

依田まき子
依田まき子

何もせずに殺すくらいなら、戦って、やむを得ないときは自害しても遅くはありません!

こう説得したといいます。

「会津婦子隊」リーダーで美人姉妹の姉・中野竹子の最期

妹を想い、一度は死なせてやろうとしたことを思いとどまった姉・中野竹子でしたが、皮肉にも当人が命を落とすことになります。

涙橋の戦いといわれる婦子隊が参加した戦闘では、白たすきに袴に草履、刀を差した薙刀姿で出陣します。

途中立ち寄った農家で握り飯と交換に、金目のものはすべて渡し、後の無い覚悟を決めていたといいます。

中野竹子は、薙刀の柄に辞世の句をくくりつけての参戦でした。

もののふの 猛き心にくらぶれば 数にも入らぬ わが身ながらも

女性という立場を自覚しながらも、ただ必死に戦う覚悟が伝わってきます。

男装はしていても、どこから見ても女性であることがわかる「婦子隊」は、敵からは格好のターゲットとなりました。

「生け捕れ!」

と殺到する敵に対し、捕まれば凌辱されると命がけの戦いぶりだったのです。

そこへ一発の銃弾が中野竹子の額を撃ち抜きます。

姉の死を見た妹・優子は、ショックよりも姉の名誉を守ろうと必死でした。

中野優子
中野優子

お姉さまの首を敵に渡してはなりませぬ!!

銃弾が飛び交い、敵が殺到する中、優子は姉・竹子の死体へ飛びつき、首を掻き切って持ち帰ったのでした。

壮絶な戦いの中、会津婦子隊はよく戦ったものの、中野竹子の死後撤退し、籠城戦へ参加することとなります。

会津城へ入ってからの母・中野こう子のことは、照姫のところで書いたとおりです。

ちなみに、会津婦子隊は20数名いたとの話もあります。

いずれにしても、会津女子が最前線で男どもとともに勇敢に戦ったことには変わりありません。

夫の無念を晴らす会津女子の覚悟!神保雪子の最期

会津藩軍事奉行であった神保修理(じんぼしゅり)は、藩主・松平容保からもその才能を見込まれていた優秀な人材でした。

外国事情にも明るかったため、長州藩の志士たちも交友があったといわれます。

しかし、この交友関係が災いとなります。

鳥羽・伏見の戦いが15代将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の突然の逃走により敗北すると、その責任が神保修理のものであるとされました。

長州志士と通じていたと濡れ衣を着せられ、神保修理は処罰されてしまいます。

夫を失った神保修理の妻・雪子は、実家へ戻されましたが、夫の死にかなりのショックを受けていたとされます。

化粧をすることもなく引きこもり、再婚の話にもまったく見向きもしなかったそうです。

まだ、23歳の若さです。

会津戦争が始まり、新政府軍の進撃が早いことを知ると実父は一家自害の道を選択します。

雪子の父
雪子の父

お前の家は神保家である。すぐに戻り神保家のものと運命をともにせよ。ここで死ぬことならず。

藩主・松平容保は、神保修理を無実ながら死なせてしまったという思いがあり、神保家には特別の配慮があったとされます。

父としては雪子が神保家へ戻れば、生きる可能性もあると考えたのでしょう。

実家を追い出され、神保家へと向かった雪子ですが、このあとの行方はわからなくなります。

「婦子隊」と合流し、戦いの最中に戦死したという記述もあります。

しかし、婦子隊のメンバーであった依田菊子によると神保雪子とは一緒では無かったと言っています。

神保雪子が部隊とともに戦っていることを記述するものもあるため、″夫の敵討ち”と戦ったことは可能性が高そうです。

そして、神保雪子ではないかとされる、ある土佐藩士の記録があります。

二十四歳で戊辰戦争に参加していた土佐藩士・吉松速之助。

若松郊外に置かれていた大垣藩の陣へ行ったときのこと。

女性が一人捕らえられ閉じ込められていた。

衣服は乱れ、大垣藩の藩兵に乱暴をされてことは明らかだった。

しかし、その気品のある仕草に士族のものであることが感じられた。

「なぜ、このようなところで女子を捕らえているのだ。」

「い、いや。川べりをさまよっているところを捕らえたが、名を名乗らぬため斬首するつもりである。」

後ろめたいところがあると見えて、大垣藩兵はしどろもどろに答えたという。

「すでに鶴ヶ城は囲まれ、落城も時間の問題じゃ。か弱き婦女を殺すのはやめておきやんせ。」

他の藩のものに痛いところを突かれた大垣藩兵は、腹がたったと見えて言い返した。

「賊の捕虜は殺すのがわが藩の決まりでござる。口出しは受けん。」

これを聞いていたその女性は、

「どうかその脇差を」

吉松速之助に聞こえるかどうかのか細い声で訴えた。

いずれにしても乱暴され、殺されてしまうことを不憫に思い、大垣藩兵に気付かれぬよう脇差を置いた。

その女性は嬉しそうに涙を浮かべ、

「さあ、とくとご覧ください。」

持った脇差に覆いかぶさるように突き刺すと、その下にはあっというまに血のかたまりが広がったという。

この女性が神保雪子であったかは定かではありません。

実家を出て神保家へ向かったものの身動きがとれなくなったと考え、また、大垣藩が攻め込んだ場所との推測と照らしわせると、この捕らわれた女性が神保雪子の可能性が高いとされています。

この証言をした吉松速之介は、このあとの西南戦争で戦死したといわれます。

会津のヤマネコは眠らない!スナイパー・山本八重子

最近では″会津のジャンヌダルク″といわれる山本八重子(やまもとやえこ)。

最新式のスペンサー銃をもって、男装をし、正確な射撃で敵を最期まで防いだ女性です。

会津藩で砲術を教える山本家に生まれた八重子は、幼いころから銃を教えられてきました。

最初の夫である川崎尚之助(かわさきしょうのすけ)も蘭学者で、西洋のことに明るいことも、女性でありながら八重子の活躍の理解者であったのです。

会津戦争のときには、京都へ行っていた長男は鳥羽・伏見の戦いで行方不明になっており、夫も藩内で行方がわからなくなっていました。

山本家には母と夫の妻子しかいない中、山本八重子は兵士となって戦うことを決意します。

八重子は体格がよく、顔も大きく首が太い、ずんぐりした姿でした。

子供のころから活発で、13歳のときには米俵を肩まで上げたり下げたりできる怪力の持ち主でもあります。

会津少年兵で組織され、飯森山で悲劇の自害をする白虎隊に属していた伊東悌二郎(いとうていじろう)は隣に住んでおり銃を教えていました。

また、会津戦争中も銃の持ち方・構え方・撃ち方を兵士に教えていたといいます。

山本八重子が守っていた場所は、薩摩藩が攻めてきました。

しかし、八重子の射撃が正確であったため、なかなか攻略ができなかったそうです。

のちに陸軍大将となる大山巌(おおやまいわお)は、ここで足を撃たれています。

大山巌の足を貫通した弾はスペンサー銃のものだったといわれ、山本八重子に撃たれた可能性が高いのです。

また、八重子の指示で大砲が石垣に設置され、薩摩軍を撃ちおろすように攻撃を行っています。

最新式の薩摩藩の大砲に対して、旧式であった会津藩の大砲にも関わらず、最後まで持ちこたえることになります。

山本八重子たちの活躍にも関わらず、会津藩は新政府軍に降伏します。

時代は明治となり、生き残った山本八重子は、その後日本赤十字社に入り看護の世界で活躍することになるのです。

薩長の蛮行許すまじ!会津戦争で立ち上がった4人の会津の女たち まとめ

会津藩は、決して戦いを望んだわけではありません。

東北の他の藩たちが会津藩の立場を理解して、新政府軍に抵抗しないように橋渡しもしています。

しかし、ただひとつ許せなかったのは、朝敵=天皇に対して反抗したとされたことです。

徳川幕府にどこまでも忠実に励み、混乱した幕末において、無理な仕事も引き受けてきた会津藩。

ここまで死んでいったもののために、会津藩は忠義の藩であることを証明するために戦ったのです。

会津女子が見せた「会津魂」は、今も尚、語り継がれています。

(参考文献)

女たちの会津戦争/著者:星亮一/平凡社新書

幕末会津の女たち男たち/著者:中村彰彦/文藝春秋

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