死体からつくる薬と刀の鑑定で稼いだ“首切り”一族・山田浅右衛門

幕末・明治時代のわやなストーリー

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江戸時代中期から明治時代にかけて、「首切り一族」「死刑執行人」といわれた一族がいました。

代々の当主が山田浅右衛門(やまだあさえもん)を名乗ってきた一族のことです。

多くの罪人を一刀のもと首を斬ることを役目としてきた立派な職業一族でした。

そして、人一倍の財力も持っていたのですから“他人が嫌がる仕事は儲かる”の言葉通りでしょう。

「首切り」を商売としていた山田浅右衛門一族をご紹介します!

徳川幕府に正式に認められた首斬り職人・山田浅右衛門

山田浅右衛門が活躍した時代は、徳川綱吉の頃から幕末・明治にかけてと約200年にわたります。

これだけ聞くと、人間とは思えない長生きの人物と思うかもしれません。

山田浅右衛門とは一人の名前ではなく、代々受け継がれた名称に過ぎません。

しかも、山田浅右衛門とは、血筋で継ぐものではなく、技術を伝承する一族でした。

その技術とは「首切り」

初代・山田浅右衛門から9代目山田浅右衛門まで、斬首刑(首を斬る死刑)の技術を伝え続けたのです。

そのため、実の子に山田浅右衛門が継がれたのは2代目と8代目の二例だけしかありません。

その他は弟子たちの中から、首切り技術に秀でたものが継いでいきました。

 山田浅右衛門一族 】

生 年斬首した有名人
1657年~1716年初代山田浅右衛門貞武
?~1744年2代山田浅右衛門吉時
1705年~1770年3代山田浅右衛門吉継
1736年~1786年4代山田浅右衛門吉寛
1767年~1823年5代山田浅右衛門吉睦
1787年~1852年6代山田浅右衛門吉昌
1813年~1884年7代山田浅右衛門吉利
1839年~1882年8代山田浅右衛門吉豊吉田松陰・橋本左内・頼三樹三郎など
1854年~1911年9代山田浅右衛門吉亮大久保利通暗殺犯など

どうして山田浅右衛門が首切り一族となったのか?

山田浅右衛門の本業は徳川幕府に認められた刀の試し切りをする役職。

初代・山田浅右衛門の時点で関ヶ原の戦いから50年以上も経っており、実際に刀で人を斬る時代ではありません。

そのため、刀の切れ具合を試し、その刀の価値にお墨付きをつけることが山田浅右衛門の仕事だったのです。

当初は、刀の試し切りをする家系はいくつかありました。

しかし、伝承者がいないために次々と廃業し、残ったのは山田浅右衛門のみだったのです。

では、刀の切れ味をどのように試すのでしょうか?

それは罪人を処刑した後の死体を刀で斬ることで、その刀の価値を計りました。

死体を斬る仕事であったはずが、いつしか死刑の執行人も兼ねることになります。

当初は死刑を執行する役人もいたのですが、罪人といえども人を殺す仕事は精神的にも負担が大きかったのでしょう。

どうせ死体を斬るなら、死刑執行も浅右衛門にやらせよう。

こうして山田浅右衛門は、死刑執行人=首切り役人となったのです。

″首切り役人″と書きましたが、正式には山田浅右衛門は徳川幕府の家臣ではありません。

あくまで浪人という扱いでした。

山田浅右衛門が徳川幕府の下で死刑執行人をしていたにも関わらず、最期まで家臣とはならなかったのには諸説あります。

  1. 首斬りの技術は世襲ではなかったため、「山田浅右衛門」という一種の屋号にしか過ぎなかったため。
  2. 家臣にして欲しいといいそびれたため、身分の扱いが保留されたままになった。
  3. 後述する副収入を得るためには、民間人扱いの方が都合が良かった。

とはいっても、山田浅右衛門という一族の依頼元は徳川幕府であることに変わりありません。

ひたすら首を斬って死刑を執行し、その技術を伝承することが山田浅右衛門一族の仕事となったのです。

人を殺めて荒稼ぎ!?副業から得る多大な収入

斬首刑を一手に受けていながら、正式な幕府の役人にはなっていなかった山田浅右衛門。

他人が嫌う仕事しながらも浪人という身分から、さぞや貧しい生活を送っているのであろうと思いきや、

山田浅右衛門一族は、大変裕福な暮らしをしていました。

ひとつは、刀の目利き。

多くの刀の試し斬りをして刀に詳しいこともあり、各有力藩から持ち込まれる刀の鑑定料がありました。

また、「山田浅右衛門の折紙つき」ともなれば、名刀ともいわれますので、その礼金などもあったとされます。

もうひとつは、死体の売却。

試し斬りをした死体は、山田浅右衛門が自由に処分できることになっていたのです。

死体の中から取り出した肝臓や脳・胆のう・胆汁などを原料とした薬を、山田浅右衛門家では作っていました。

この薬は当時、不死の病といわれた労咳(現在の結核)に効くといわれ、高値で取引されたのです。

刀の鑑定と薬の販売という副業で、多大な収入を得ていたため、暮らしは良かったものの、多くの貯蓄があったわけではありません。

山田浅右衛門一族は、その得た収入を供養塔の建立に使っていました。

罪人とはいえ、多くの人の命を奪うことを商売とすることへの償いの気持ちがあったのでしょうね。

“浅右衛門も刀の誤り”首切り一族の最期

明治の毒婦といわれた「高橋お伝(たかはしおでん)」という女性がいます。

自分の愛人を殺した上で金を奪って逃走。

発覚したあとには、殺した愛人は姉の仇で、しかも自分で自殺したと嘘の証言をしました。

その残忍さと罪を罪とも思わない白々しい態度から、判決は「斬首刑」。

死刑執行となったのです。

高橋お伝の死刑執行人となったのが、九代目山田浅右衛門吉亮でした。

山田浅右衛門吉亮は、17歳と偽って12歳で斬首刑を執行したといわれます。

一族内でも認められた卓越した首切り技術をもっていたのです。

そして、九代目山田浅右衛門吉亮こそ、最後の首斬り一族となります。

明治12年1月。

髙橋お伝の死刑執行が行われます。

罪人が刀を見て恐怖を感じ暴れないように、頭には袋をかぶせられていました。

正座をして頭を突き出した先には、穴が掘られ、斬られた首がそのまま落ちるようにされています。

山田浅右衛門吉亮が高橋お伝の首を斬ろうとしたそのとき、

「市さぁん、市さんに会わせておくれ~」

高橋お伝には、小川市太郎という恋仲の相手がいたのです。

実は、愛人となったのも小川市太郎との生活での借金返済のためでした。

突然暴れ出した高橋お伝の様子に、山田浅右衛門は落ち着いていました。

「会わせてやろう。」

その言葉に動きを止めた高橋お伝。

この一瞬の間を逃すまいと刀を振り下ろす山田浅右衛門。

ところが、その言葉が嘘だと察した高橋お伝が再び暴れ出し、振り下ろした刀は首ではなく頭に当たってしまいました。

吹き出す血しぶき、その痛さでますます暴れだす高橋お伝。

慌てた控えの役人が二人がかりで高橋お伝を抑えますが、暴れて首の位置が定まりません。

しかも、いままで一度も失敗などしたことのない山田浅右衛門吉亮です。

この失態に動揺を隠すことができませんでした。

振り下ろした二刀目は、首には入ったものの斬り落とすことができません。

あたりが血の海になる中で、わめき叫ぶ高橋お伝という地獄絵図のようになったのです。

首に入った刀を押し切るように、山田浅右衛門吉亮はやっとの思いで高橋お伝の首を落としました。

「母親を斬ってしまった・・・」

山田浅右衛門吉亮は、そう言ったといわれます。

自分の身内を斬ったかのごとく、心を動揺させたのでしょう。

この失態以降、斬首刑はほとんど行われていません。

この後、斬首刑が残酷であるということもあり、死刑の方法としては廃止されます。

首斬り一族・山田浅右衛門家も時代の役目を終えることになります。

死体からつくる薬と刀の鑑定で稼いだ“首切り”一族・山田浅右衛門 まとめ

人間の体の中でももっとも重い頭を支える部位である首は、切断することが難しいといわれます。

その首をたった一刀で斬り落とことは高度な技術が必要でした。

その高等技術を九代にもわたって伝え続けた山田浅右衛門一族。

役人たちでさえ嫌がる仕事をし続け、その見返りとして多大な収入を得ることは当然のことだったでしょう。

時代の流れにより高等技術は途絶えましたが、人が嫌がることを進んで行うことは、現代でも通じることなのかもしれませんね。

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