日本史の故事に由来する歴史ことわざ【その2】戦国乱世編

国語の自由研究
川中島の戦い

国語の必須項目ともいえることざわ・慣用句・故事成語。

故事成語は、そのほとんどが中国の故事などに由来するものです。

しかし、調べて見ると日本発祥のものも意外にあります。

そんな日本由来・日本史の偉人にゆかりのあるものを集めてみました。

意味・由来・関係する偉人解説という構成になっており、日本史の時代順と出来事順に並べてみました。

社会の歴史と国語が同時に学べる、一挙両得な内容になっています!

今回は、その第二弾!戦国乱世編です!!

勝って兜の緒を締めよ/北条氏綱

小田原城と伊豆半島
  • 「勝って兜の緒を締めよ」の意味

うまくいっているときこそ、油断をせず、気を引き締めて物事に取り組むという意味。

  • 「勝って兜の緒を締めよ」の由来

小田原北条氏の2代目当主・北条氏綱(ほうじょううじつな)が亡くなる際に、3代目の北条氏康(ほうじょううじやす)に対して残した5つの戒めである『五ケ条御書置(ごかじょうのかきおき)』が元になっています。

5つ残された北条氏綱の遺言のうち、5つめに残された言葉の最後に「勝って兜の緒を締めよとの古語、忘れ給ふべからず」とあります。

この5つめの書置には、「勝利が続くときには気持ちが驕り、相手を侮ることもある」と注意し、その考えが滅びへとつながるとも書かれています。

3代目の北条氏康は、非常に優れた人物ではあったものの、死を前にして自分が支えられない親心として残したのかもしれませんね。

  • 「勝って兜の緒を締めよ」ゆかりの北条氏綱とはどんな人物?

戦国時代に関東一円を支配下に置いた北条早雲の嫡男であった北条氏綱。

「北条氏」と名乗ったのは、氏綱の時代からといわれています。

父のあとを受け継ぎ、さらなる領土の拡大をしつづけ、甲斐国の武田氏・駿河国の今川氏と国境争いも激く戦いました。

戦国武将間の争いも活発中で、関東一円に大きな領土も持ち続けて北条氏綱は、4代100年に渡る小田原北条氏を盤石にした人物です。

元の木阿弥(もくあみ)/筒井順慶

大和郡山城
  • 「元の木阿弥」の意味

一度良くなったものが、元の状態に戻ること。

努力が無駄になるという意味にも使われます。

  • 「元の木阿弥」の由来

戦国時代に大和地方(現在の奈良県周辺)の大名であった筒井順昭(つついじゅんしょう)が28歳の若さで亡くなります。

後継ぎであった筒井順慶(つついじゅんけい)が2歳のことです。

領地の奪い合いが激しかった大和地方では、当主の死が知られれば、敵が押し寄せることが予想されました。

そのため、筒井順昭に似た僧を連れてきて影武者としたのです。

影武者となったその僧の名が″木阿弥”といいました。

当主の死を隠すためだったので、何不自由のない暮らしをして過ごした木阿弥。

ところが、後継ぎである筒井順慶が成人し、新しい筒井家の当主となると、木阿弥は再び寺へと戻され僧となったという故事が「元の木阿弥」の由来になっています。

  • 「元の木阿弥」ゆかりの筒井順慶とはどんな人物?

戦国時代の大和地方の武将で、先述のとおり、2歳で父親を失ったにも関わらず、家臣の支えで筒井家を継ぎ大名となりました。

筒井家は、元は奈良・興福寺の僧がルーツという異色の戦国大名です。

早くに織田信長とも親交し、多くの戦いにも兵を出しています。

大和地方は京都にも近く、影響力の大きな地であったため領土争いが激しく、特に松永久秀(まつながひさひで)とは何度も争奪を繰り返しました。

織田信長が本能寺で明智光秀に討たれたあと、明智勢に味方するか豊臣勢に味方するかで迷ったことで、「優柔不断」「風見鶏」といった不名誉な印象をもたれました。

しかし、筒井順慶は家臣や領民に慕われていたことがわかっています。

関ケ原の戦いで西軍の指揮をとった石田三成(いしだみつなり)がもっとも信頼した家臣・島左近(しまさこん)は、元は筒井順慶の家臣でした。

また、徳川家の剣術指南役となった柳生(やぎゅう)一族も、元は筒井順慶の家臣だったのです。

筒井家の家臣が、いかに優秀であったかがわかりますね。

敵に塩を送る/上杉謙信・武田信玄

  • 「敵に塩を送る」の意味

ライバルの苦境につけ込まず、あえて苦境を救うこと。

苦しんでいる敵を、人道的な立場から助けること。

  • 「敵に塩を送る」の由来

甲斐国(現在の山梨県)に領土をもっていた戦国武将・武田信玄(たけだしんげん)。

海に面していない甲斐国では、塩を周辺国から輸入していました。

東海地方への領土拡大を意図した武田信玄に対し、駿河国(現在の静岡周辺)の今川氏、相模国(現在の神奈川周辺)の北条氏が共同で甲斐国への塩の輸出を停止します。

当時の塩は貴重な食材のひとつでもあり、たちまち領民が困ることになりました。

甲斐国と北側の国境を争い、五度にわたる川中島の合戦を続けたライバル・上杉謙信(うえすぎけんしん)は武田信玄の苦境を見て、

「われらの争いは武力の争いにあり、米・塩の争いにあらず。」

といって、塩を売ることを止めず、さらに商人には適正な価格で売ることを命じて、便乗値上げも禁じました。

上杉謙信は「義」の武将といわれ、自分の野心のために戦をしたことはないといわれます。

その上杉謙信の志を示す故事が「敵に塩を送る」ということわざに表れています。

真偽のほどは今なお研究中ですが、武田信玄から上杉謙信へ送られたという「塩止めの太刀」が現存し、重要文化財となっています。

  • 「敵に塩を送る」ゆかりの上杉謙信とはどんな人物?

戦国時代に越後国(現在の新潟周辺)を中心に領土も納めていた武将・上杉謙信

軍神・毘沙門天を崇拝したり、「越後の龍」と呼ばれたことで知られています。

「義の武将」としても有名で、私利私欲で領土拡大をすることはなく、他国からの救援要請を受けて兵を出し戦ったとされます。

甲斐国・武田信玄とは生涯のライバルとされ、川中島の合戦で何度も激突したことは日本史の中でも有名です。

第四次川中島合戦では、単騎で武田軍へ乗り込んだ上杉謙信に襲われた武田信玄が、軍扇で防いだエピソードが残っています。

しかし、最近の研究では、上杉謙信が綿密な国内経営を考えながら、領土拡大へ派兵をしていたともいわれています。

知らぬ顔の半兵衛/竹中半兵衛

  • 「知らぬ顔の半兵衛」の意味

自分が関わらないようにするため、まるで知らないかのような素振りをして振舞うこと。

  • 「知らぬ顔の半兵衛」の由来

「知らぬ顔の半兵衛」の半兵衛とは、豊臣秀吉の軍師として仕えたとされる竹中半兵衛(たけなかはんべえ)を指し、その由来には諸説あります。

戦略家として世に知られた竹中半兵衛を家臣にしようと企んだ織田信長(おだのぶなが)が前田利家(まえだとしいえ)に命じて、スパイとして潜りこませました。

竹中半兵衛は気づかないふりをしただけでなく、逆に前田利家から織田勢の情報を聞き出したといわれます。

豊臣秀吉の元に竹中半兵衛がいたころ。

織田軍VS武田軍の雌雄を決する戦いとなった長篠の戦いで、武田軍の誘いに乗って豊臣秀吉が兵を動かすよう命じました。

竹中半兵衛は、敵の罠であることを進言したものの聞き入れられませんでした。

そこで竹中半兵衛は豊臣秀吉の指示を聞かなかったことにして、その場に留まります。

武田軍が反転して攻め込まれた時、竹中半兵衛の兵が留まったことで、勝利することができたのです。

命令に背いたにも関わらず竹中半兵衛は処罰されることもなく、むしろ豊臣秀吉が褒めたといわれます。

  • 「知らぬ顔の半兵衛」ゆかりの竹中半兵衛とはどんな人物?

竹中半兵衛は、美濃国(現在の岐阜県)に領地をもった戦国武将です。

当初は、斎藤道三(さいとうどうさん)で知られる斎藤氏に仕えましたが、三代目の斎藤龍興(さいとうたつおき)に失望し、身を隠した生活を過ごします。

その際には、斎藤氏の稲場山城をあっさりと奪う戦略家としての才能を知られたことから、織田信長が家臣に誘います。

織田信長の遣いとして来た豊臣秀吉は、拒む竹中半兵衛の元に三度来ては懇願したことから、三国志の「三顧の礼」の故事になぞらえられます

竹中半兵衛は、豊臣秀吉の才を見込み「織田信長には仕えないが、あなたになら仕えましょう。」といったエピソードは有名です。

同じころに仕えた黒田官兵衛(くろだかんべえ)と並び「両兵衛」ともいわれ、豊臣秀吉の軍師として活躍しました。

病弱であったために36歳の若さで亡くなったとされます。

敵は本能寺にあり/本能寺の変(織田信長VS明智光秀)

明智光秀画
  • 「敵は本能寺にあり」の意味

本当の目的・狙いは別のところにあること。

  • 「敵は本能寺にあり」の由来

織田信長が天下統一へ兵を進めていた頃。

備中国(現在の岡山県)で西国の雄・毛利家と対峙していた豊臣秀吉は苦戦を強いられていました。

織田信長は明智光秀(あけちみつひで)に援軍として、豊臣秀吉の元へ向かうよう指示します。

明智光秀は2万の軍を率いて備中国へ向かいますが、その途中で織田信長が泊まっていた京都の本能寺を襲ったのです。

茶会に参加していた織田信長は、わずかな護衛しかなく、また、信頼してた家臣の裏切りでもあったため、焼け落ちた本能寺とともに自害します。

明智光秀が織田信長を襲撃することは、ほとんどの者が知らされておらず、本能寺に着くまで相手も知らなかったといわれます。

明智光秀がなぜ織田信長を裏切った理由は謎が多く、日本史の中でもミステリーのひとつとされています。

  • 「敵は本能寺にあり」ゆかりの明智光秀とはどんな人物?

戦国時代に美濃国(現在の岐阜県)にあった明智荘の生まれといわれますが、明智光秀の前半生はほとんどわかっていません。

諸国を周り攻城や戦術などを学び、織田信長に仕えたとされます。

武将でありながら、京の都との縁を深く、室町幕府将軍・足利義昭などとの連絡・調整役も任されていました。

そのため、織田信長からは信頼の厚い人物であったとされています。

しかし、前述のとおり本能寺の変を起こし、天下統一を目前にした織田信長を殺害します。

その後、「中国大返し」といわれる超速で引き返してきた豊臣軍に山崎の戦いで敗れ、逃亡途中に武者狩りに合い殺害されました。

明智光秀の縁者のほとんどは、山崎の戦いとともに自害したり、殺されたりしています。

唯一の生き残りが、美人で有名ながら関ヶ原の戦い直前に悲劇の死を迎えた細川ガラシャこそ、明智光秀の娘なのです。

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