1582年(天正10年)、天下統一を目前にした織田信長(おだのぶなが)は、明智光秀(あけちみつひで)の裏切りにあい自害します。
戦国時代最大の事件ともいえる「本能寺の変(ほんのうじのへん)」のことです。
織田信長に代わり天下人を目指した明智光秀でしたが、主君の仇を討とうとした豊臣秀吉(とよとみひでよし)の反撃により敗れ、落ち延びるときに落ち武者狩りによって命を落としました。
歴史大好き、くろーるです。
ここまでは、定説のお話。
ところが、明智光秀は生き延び、徳川家康(とくがわいえやす)の側近となっていたというのです!!

光秀殿は
わしのブレインじゃ。
徳川家康の側近として大きな影響力をもった僧・南光坊天海(なんこうぼうてんかい)がその人です。
もちろん、南光坊天海が名乗ったわけではありません。
しかし、不思議と明智光秀と南光坊天海の間には、共通点が存在します。
さらに、南光坊天海の正体は童謡「かごめかごめ」に隠されているというのです。
明智光秀=南光坊天海説の真相に迫ります!!
南光坊天海こそ「豊臣家滅亡」「江戸と日光東照宮」の発案者
天台宗の僧であった南光坊天海ですが、その生まれや経歴の正式な記録はありません。
陸奥国会津の生まれといわれますが、それは『東叡山開山慈眼大師縁起』に記述があるだけです。
正式な記録としては、1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐のときには、徳川家康の側近としていたことがわかっています。
ほとんど突如として現れたような状態なのです。
そして、南光坊天海は徳川家康の側近として見事な能力を発揮します。
豊臣家にイチャモンをつけた「方広寺事件」の黒幕

天海のおかげで、
豊臣家を無くすことが
できたわい。
大阪夏の陣で滅亡した豊臣家が徳川家康と争うきっかけとなったのが「方広寺鐘銘(ほうこうじしょうめい)事件」。
豊臣家二代目・豊臣秀頼(とよとみひでより)が方広寺の再建の祝いに送られた鐘に刻まれた銘文にイチャモンをつけたのです。

「国家安康」とは、国と安という文字で
“家康”を分断している!

「君臣豊楽」とは、
豊臣家の復活を願ったものだ!

徳川家を滅ぼそうとしているに違いない!
ここに目をつけたのは、南光坊天海だったといわれています。
江戸の町を風水によって守るアイデアの提案者
これも有名な話ですが、江戸の町づくりには風水の考えを採用しています。
江戸城を中心として鬼門にあたる北東には寛永寺を配置し、裏鬼門にあたる南西には増上寺を配置したのも悪い気を断ち切るためです。
僧らしいアイデアで江戸の町を、そして、徳川家を安泰とすることに成功しました。
江戸の守りに平将門の呪術力を利用!?→『呪霊が守る東京!北斗七星が意味する日本三大怨霊・平将門の結界』
徳川家康を守り神に!日光東照宮建築のキーマン
徳川家康が死後、神となって名乗る名前「東照大権現」を考えたのは南光坊天海でした。
そして、江戸から見て鬼門の北東の位置にあたる日光に徳川家康を安置するアイデアも南光坊天海だったといわれます。
そのために、日光東照宮を建てる指揮をとることになったのです。
さて、日光には「明智平(あけちだいら)」と呼ばれる紅葉スポットがあることをご存知でしょうか?
南光坊天海が、自分の故郷に似ていることから名付けたといわれます。
本題の最初のキーワードが出てきたような気がしませんか?
謎の前半生という共通点をもつ明智光秀と南光坊天海
明智光秀と南光坊天海の生まれについては、諸説ありハッキリしていません。
明智光秀は、1513年~1526年頃の生まれというのが一般的ですが、かなり幅があります。
ただ、この生まれだとすると明智光秀が本能寺で織田信長を攻めたのは、60~70歳の頃になります。
当時としては、かなりのおじいちゃんになってから主君を裏切ろうとしたのです。
しかも、あの気性の激しい織田信長に対してというのは、違和感を感じます。
一方、江戸時代になってからですが、明智光秀は1540年頃の生まれだという記録も残されています。
この説であれば、本能寺の変は40代そこそこですから、まだまだ働き盛りで野心をもっても良さそうです。
さて、南光坊天海は1536年頃の生まれとされ、108歳まで生きていたといわれます。
明智光秀1540年生まれ説をとった場合は、かなり近い生まれであることがわかりますね。
また、明智光秀・南光坊天海の二人とも、前半生はあまり記録がないのです!
経歴がわからないことになっている二人が、同一人物であってもおかしくないですよね。
“親族見殺し”という過去をもっていた明智光秀と徳川家康
では、徳川家康がなぜ、本能寺の変で裏切り者になった明智光秀を側近にしたのでしょうか?
本能寺の変の黒幕は、徳川家康であるという説もあります。
しかし、徳川家康黒幕説には疑問が残ります。
本能寺の変の当時は、徳川家康一行は大阪・堺で観光中でした。
そのため、命からがら地元・三河へ帰ることになったのです。
黒幕であれば、もっと準備万端していてもよさそうなものです。
でも、徳川家康が明智光秀に同情すべき点もあります。
それは、ともに織田信長に親族を殺されているという点です。
徳川家康は、武田氏との内通疑惑により最初の妻と長男を自害させられています。
一方の明智光秀は、人質となっていた母親を救うことを織田信長に許可されず、殺されてしまったのです。
また、徳川家康は元から敵方の家臣を取り込むことで、自身の家臣団を強くしていきました。
武田氏や北条氏といった、その後滅んでしまった戦国時代の大大名の家臣団です。
明智光秀は、織田信長がもっとも信頼していた家臣ともいわれるほど、高い能力の持ち主でした。
能力の高さと織田信長の信頼度は、豊臣秀吉より上であったといわれます。
徳川家康にとって、明智光秀を家臣に加えることは何にも代えがたい価値があったはずです。
もちろん、豊臣秀吉との関係悪化を考えれば、明智光秀をかくまったことはいえません。
南光坊天海という偽名を使って、側近に置くことを考えたともいえますよね。
明智光秀=南光坊天海を暗号化した童謡「かごめかごめ」
かごめかごめ かごの中の鳥は いついつでやる 夜明けの晩に 鶴と亀がすべった うしろの正面だぁれ
昔から子供の遊び歌として知られる「かごめかごめ」。
でも、その歌詞を見ると、意味のわからない情景が浮かんできます。
まるで暗号のようにも思えませんか?
実はこの作詞者は、南光坊天海だといわれているのを知っているでしょうか?
そして、この「かごめかごめ」の中に南光坊天海の正体が隠されているのです。


かごめ=籠(かご)の目
かごめというのは、日本に古くから伝わる籠目(かごめ)柄を表わします。
籠目は二つの三角形を組み合わせた形状をしています。
この籠目は、徳川家と明智家のゆかりの場所を結ぶキーワードなのです。

鳥=土岐(とき)
鳥は“とき”の読み直しとされ、明智氏の祖先となる土岐(とき)氏のことだというのです。
少し強引な感じもしますが、“とき”については本能寺の変の直前に明智光秀が残した歌にも表れています。
「時は今 雨が下しる 五月かな」
この“時”も“土岐”の読み直しとされますので、共通の使い方をしていますよね。

“いついつでやる”は土岐氏=明智氏が現れるの意味
明智氏を表わす土岐氏が出てくることを表わし、このあとの詞の意味へつながっていきます。

夜明けの晩=日光
夜明けの晩を読んだだけでは、違和感を感じませんが、言葉の意味を考えるとわからなくなります。
晩(夜)が明けるという意味だとすると、それは「日光」。
日光東照宮のある日光を指すと考えられるのです。

鶴と亀は日光東照宮にある
徳川家康の埋葬された宝塔には、鶴と亀があります。
鶴=天と表わし、亀=海と表わし、“天海”となるといわれます。
また、鶴と亀のある場所からは明智氏の家紋である桔梗紋が見えるという説もあります。


すべる=統べる=統治するという意味
統治するという意味の統べる(すべる)と読み、鶴と亀から続けて考えると「天海が統治する」と読めます。

“うしろの正面だれ”こそ天海の正体
日光東照宮に向かって立ち、うしろを振り返った先にある場所、それが明智光秀の肖像画がある本徳寺なのです。
徳川家とともに、その陰で統治をしているのは南光坊天海=明智光秀であることが暗号化された童謡。
これこそ、「かごめかごめ」の真実なのです。
大奥の権力者・春日局は明智光秀の関係者
「かごめかごめ」によって、徳川家を陰から支えるとも支配するともいえる明智光秀と南光坊天海。
その陰の支配を意味するところが「大奥」であるといわれるのです。
徳川三代将軍・家光(いえみつ)の時代に確立されたという女性のみで構成された大奥は、影の幕府ともいわれ、将軍でさえ勝手には立ち入ることを許されていませんでした。
その大奥で絶大な権力を振るっていたのが、徳川家光の乳母(養母)であった春日局(かすがのつぼね)です。
春日局は齋藤利光(さいとうとしみつ)の娘なのですが、齋藤利光は明智光秀の重臣で、信頼の厚い右腕だったのです。
そして、春日局は京都の粟田口(あわたぐち)に掲げられた高札を見てために、徳川家光の乳母となったとされます。
要は募集広告を見て、採用されたというのです。
これだけでも違和感を感じるにも関わらず、その粟田口とは明智光秀が磔にされた場所なのです。
どこか因縁めいたものを感じませんか?
明智光秀が南光坊天海の正体だとするなら、自分の重臣の娘を将軍の乳母として大奥に住まわせ、陰の支配者となったとしても納得できます。
まさに、「かごめかごめ」の歌のとおりというわけです。
明智光秀は生きていた!?「かごめかごめ」に隠された南光坊天海の正体 まとめ
明智光秀生存説は、単なる推測だけではなく、書物としても残されています。
江戸時代後期の随筆『翁草』にも、明智光秀が生きていたことが書かれています。
殺された明智光秀は影武者で、その後77歳まで生きていたという伝説があったそうです。
また、ある言い伝えでは自決しようとした明智光秀を、妙心寺の和尚が思いとどまらせたといわれています。
“三日天下”と笑われた明智光秀の下克上も、その後姿を変えて徳川250年を支配し続けたのかもしれません。
関ヶ原の戦いの裏切りは明智光秀が生きていた証拠→『関ヶ原の戦い・西軍裏切り真の黒幕!もうひとつの明智光秀生存説』
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