死者を蘇らせる反魂の術!人造人間をつくろうとした歌人・西行法師

日本史(平安・鎌倉時代)

人造人間というと古くはフランケンシュタイン、もしくは仮面ライダーやサイボーグ009が思い出されます。

不老不死は人間の永遠のテーマではありますが、死んでも生き返ることにはどれほどの関心があるのでしょうか?

歴史大好き、くろーるです。

平安時代末期から鎌倉時代初期に歌人として活躍した西行(さいぎょう)法師。

元は武士でありながら、突然出家して僧となった理由は未だにわかっていません。

諸国をまわって歌を残した西行法師ではありますが、出家の理由も含めて謎の行動が多い人物でもあります。

そして、西行にはおどろおどろしい噂が・・・

『撰集抄』には、西行法師が人骨を集めて呪術を使い、人造人間として蘇らせたと書かれています。

西行法師が死者を蘇らせた呪術とは、どのようなものだったのでしょうか?

百人一首にも名をとどめる歌人・西行法師とは

吉野山の桜

西行法師が歌人として活躍した時代には、白河(しらかわ)法王や平清盛(たいらのきよもり)、源頼朝(みなもとよりとも)・義経(よしつね)兄弟がいたといえばイメージがつくでしょうか。

1118年(元永元年)武家の家に生まれ、出家するまでは北面武士(ほくめんのぶし)として京都で御所の警護をしていました。

平清盛も北面武士を務めており、大河ドラマ「平清盛」では、清盛と西行法師は親友であった設定となっています。

北面武士の頃は、佐藤義清(さとうのりきよ)と名乗っていました。

1140年(保延6年)に出家して「西行」と名乗るようになります。

出家の理由はよくわかっていませんが、知られている説としては二つあります。

ひとつは、親密な友人との別れ。

ボーイズラブの関係であったともいわれます。

もうひとつは、高貴な女性との禁断の恋。

その相手は、鳥羽(とば)天皇の妻・待賢門院(たいけんもんいん)もしくは、同じく側室の美福門院(びふくもんいん)といわれています。

どちらも西行法師が残した歌や各地の西行法師にまつわる話からの推測に過ぎません。

恋の歌をよく詠み残していることも「失恋が出家の理由」とされるものなのでしょう。

西行法師は各地を旅して歩き、ときの偉人たちとの交流があったことも知られています。

崇徳院(すとくいん)や源頼朝・奥州藤原秀衡(ふじわらひでひら)などの記録が残っており、西行法師が一介の僧ではなかったことがわかりますね。

歌人として同時代で名の知れた西行法師ですが、ミステリアスな一面をのぞかせるところもあります。

西行法師の詠んだ歌の中でも、お題として多く選ばれたもののひとつに″月″があります。

その中でも異色なのは、月食を詠んだ歌があることです。

・いむといひて 影にあたらぬ 今宵しも われて月みる 名や立ちぬらむ

歌の中にもあるとおり、月食は不吉なものとして、その光にあたることさえ避ける習慣がありました。

その月食に強い関心をもっていた西行法師に、心の闇を感じずにはいられません。

さらに、西行法師が自分の最後を歌ったものが存在します。

・願わくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ

「釈迦が入滅(死去)したときと同じときに桜の下で死にたい」と歌ったとされます。

この歌のとおりの時期に、西行法師は73歳でこの世を去ります。

自分の望んだ歌のとおりに亡くなったことに、生き様の美しさが多くの人々を感動させたようです。

ただ、この歌がいつ、どのようなところで詠まれた歌かは伝わっていません。

西行法師には自分の行く末を見通す神通力のようなものを習得していたのかもしれません。

高野山にこもっていた時期のある西行法師ですが、高野山は密教の総本山。

神通力も、これから話す反魂の術(はんこんのじゅつ)も身に着けていてもおかしくはないのです。

亡き愛しい友・死者を蘇らせるために「反魂の術」を試す

西行庵

西行法師が北面武士をやめ出家することとなった理由とされる親友との別れ。

この別れとは、親友の急死だったと考えられています。

西行法師にとっては、ただの親友ではありません。

肉体関係のあるボーイズラブ、同性の恋人の死だったのです。

二度と会うことのできない恋人を想い、その未練を断ち切るように仏道を選んだというのです。

しかし、僧となっても恋人を忘れることができなかったのでしょう。

高野山での修行の中で知りえることとなった死者を蘇らせる「反魂の術」。

西行
西行

もう一度彼に会いたい・・・

その一心で西行法師は、この禁断の「反魂の術」を試してみようと考えたのでしょう。

人骨を集めつなぎ西行法師が挑んだ「反魂の術」のやり方

高野山奥の院への道

高野山での修業の中で、死者を蘇らせる方法・反魂の術のやり方を西行法師は知ります。

西行法師は高野山の奥深い、誰も近寄らない場所を見つけ、人造人間を造り出したのです。

反魂の術のやり方というものが、「撰集抄」にはこう書かれています。

1.死人の人骨を集める

2.集めた人骨を頭から足の先まで順序どおりに並べる

3.並べた骨にヒ素を塗る

4.イチゴとハコベの葉を揉み合わせる

5.藤のツタで骨をつなぎ合わせ水洗いする

6.髪が生える頭には西海子とむくげの葉を灰で焼いたものをつける

7.土の上に畳を敷き、その上に骨一式を伏せて置く

8.風が通らないところにセッティングする

9.27日間経過したところで香木を焚く

これが、西行法師の行った反魂の術でした。

ところが、西行法師の反魂の術は失敗してしまいます。

ギーィエーーーー

そこに現れたものは、人の形はしていながらも肌の色は土気色をし、金切り声を発する化け物だったのです。

西行法師が望んだ親友とは似ても似つかぬ異形の怪物を見て、その場に残して逃げ出してしまいました。

人造人間に失敗!おぞましい姿となって蘇生した呪術人形

知ったとおりの反魂の術をやり方どおりに行ったのに、なぜ失敗したのか?

その原因を西行は、源師仲(みなもとのもろなか)に聞きにいきます。

というのも、源師仲の曽祖父が同じ方法で死者を蘇らせていたというからです。

しかも、その反魂の術で造られた人間は、指示通りに動く人造人間として今も働いているというのですから、その技術の確かさは実績十分でした。

源師仲が指摘した間違いは、

1.香木を焚いたことは間違いで、そのために心が生まれなかった

2.かわりに沈と乳を焚く

3.反魂術の実行者も7日間の絶食をしなくてはいけない

このように西行法師の反魂の術のやり方では足りなったものがあったというのです。

源師仲は詳しく、てほどきをしてくれましたが、西行法師はこれ以降に人を造ることをしませんでした。

よほど、現れた人造人間の姿がトラウマになったのではないでしょうか。

さまざまな形で描かれてきた死者を蘇らせる「反魂の術」

死者を蘇らせたいという願望は、今も昔も人々の欲求として存在します。

“反魂の術”というのは、死者の魂をこの世に呼び戻すものとして古くから伝えられてきたとされます。

落語「反魂香」では煙の中に使者の姿を蘇らせ、会話をすることができる術が登場します。

また、漫画「呪術廻戦」では反転術式という呪術が登場します。

これは負のものに正の呪力を注ぐ術のため、必ずしも死者を蘇らせるためだけのものではありません。

しかし、漫画の中ではあえて相手を殺した直後に、反転術式で蘇らせる様子が描かれていますので、反魂の術といえるでしょう。

西行法師が死者を蘇らせようとした反魂の術は、漫画「孔雀王・退魔聖伝」に描かれています。

この中では源義経の従者である弁慶が、実は西行法師の反魂の術によって生かされた異形のものとされています。

西行法師が行ったとされる反魂の術は、亡くなった本人とは関係のないものを使って一種の人形を作り、そこに死者の魂を呼び戻すという点が、他の反魂の術とは異色なのです。

その点では死者を生き永らえさせるゾンビというより、新たな体を作り出す人造人間に近い術式といえますね。

死者を蘇らせる反魂の術!人造人間をつくろうとした歌人・西行法師 まとめ

『撰集抄』巻の五の最終章「西行高野の奥において人を造るのこと」に書かれている西行法師の反魂の術。

もともとは西行法師の自伝であったとされてきた『撰集抄』ですが、最近ではあとからの創作といわれています。

ただ、怪しいものについては創作といわれ、実体に即したものは西行法師を知る手掛かりとする研究もあります。

その点では、『撰集抄』に書かれたことが、創作ばかりというわけでもなさそうです。

高野山密教は、今でもその実態に不明なことは多く、秘伝の法も多いと聞きます。

西行法師が死者を蘇らせようとした反魂の術は、禁断の呪法として存在しているかもしれません。

ちなみに、西行法師がつくった呪術人形の行方は、その後どうなったのでしょうか?

『撰集抄』の中では、呪術人形は放置されたままになっています。

山野に放置された呪術人形が、今もさまよっているかもしれないのです。

(参考資料)東郷隆時代奇譚小説集 撰集抄

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