硝酸で顔を焼いて潜伏!『蛮社の獄』で処罰された高野長英の逃亡劇

江戸時代のわやなストーリー

アメリカに実在した銀行強盗カップル・ボニー&クラウドを描いた映画『俺たちに明日はない』。

犯罪を犯した逃亡の末の結末は、映画史上もっとも血生臭いともいわれます。

当然、ハッピーエンドではありません。

歴史大好き、くろーるです。

1839年(天保10年)におきた洋学者への言論弾圧事件とされる『蛮社の獄(ばんしゃのごく)』

モリソン号事件をきっかけにおきた幕府批判の中心人物とされ処罰されたのが渡辺崋山(わたなべかざん)と高野長英(たかのちょうえい)でした。

終身刑となっていた高野長英でしたが、牢獄の火災に乗じて脱獄し全国各地を逃亡して歩きます。

最期には、硝酸で顔を焼いて変装し、偽名を使って江戸で潜伏生活を送ったとされています。

聞くだけでも痛々しい薬傷をしてまで逃亡した高野長英。

その目的は何だったのでしょうか?

高野長英が捕まり処罰された『蛮社の獄』を簡単に解説

『蛮社の獄』は江戸後期におきた言論弾圧事件とされるのが一般的です。

事件の経過を簡単に説明します。

1837年(天保8年)におきたモリソン号事件について、幕府批判をした渡辺崋山・高野長英を目付として江戸取り締まりにあたっていた鳥居耀蔵(とりいようぞう)の告発により捕らえられました。

モリソン号事件

日本人漂流民返還に来たアメリカ商船モリソン号が、日本側から砲撃を受けた事件。鎖国の状況であった日本では、近海に出現する外国船を追い返す「異国船打払い令」が出されており、これによりモリソン号も追い返された。しかし、1年後に日本の漂流民返還が目的であったことが広く知れたことで、幕府の鎖国方針の批判につながった。

渡辺崋山・高野長英は、洋学を研究する団体「尚歯会(しょうしかい)」の主要メンバーでした。

「尚歯会」の会合で配られたモリソン号事件に関する意見書が高野長英の書いた『戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)』だったのです。

漂流民返還という人道的な目的による来訪まで受け入れない幕府の鎖国方針を批判しています。

実際のモリソン号事件は少し事情が異なり、鎖国下でも通商していたオランダ船で返還するように幕府は交渉しているため、高野長英たちが勘違いしている部分もあります。

また、『戊戌夢物語』自体も「尚歯会」内で読まれることを目的としていたため、おそらく高野長英自身も世間一般に広まることは想定していなかったかもしれません。

ところが、多くの写し本が出回り、幕府の目にも止まることになったのです。

一方で、鳥居耀蔵も蘭学嫌いのために蘭学者への弾圧を行ったように思われがちですが、そこも少し事情は違うようです。

むしろ、幕府内の権力争いにも利用するために実行したというのが真相のようです。

いずれにしても、蛮社の獄により渡辺崋山は自宅謹慎処分ののち2年後に自害、高野長英は終身刑となりました。

また、同じく捕らえられたもののうち4人が取り調べ中の拷問により死亡するという悲惨な事件の結末をたどったのです。

オランダ語に精通しシーボルトも認めた高野長英の才能

仙台藩前沢出身の高野長英は、医者の家へ養子になったあと、17歳で江戸へ遊学に出ます。

その後、長崎でドイツ人・シーボルトが開いた鳴滝塾へ入ることになりました。

鳴滝塾でオランダ語や西洋医学を身に着け、また優秀でもあった高野長英は塾頭にまでなるほどでした。

高野長英がオランダ語に長けていたことを示すエピソードがあります。

塾生たちの間で″日本語を話したら罰金″というゲームをすることになりました。

仲間たちが次々と罰金を払う中、最後まで日本語を話さない高野長英。

それを面白くないと思った仲間が高野長英を階段から突き落とそうとしたところ、

高野長英
高野長英

ヘファーレク!

″危ない″という意味のオランダ語を叫んだと伝わります。

また、シーボルトのことを早くからスパイではないかと疑っていたのも高野長英でした。

とはいえ、鳴滝塾ではもっとも多くのオランダ語に訳した論文を書き残しており、シーボルトとの関係も深いものだったと思われます。

シーボルトが日本を追放されたことをまじかで見たことからも、高野長英が鎖国体制への不満を持つのも当然だったでしょう。

各地を転々とし6年も続いた逃亡生活

高野長英逃亡ルート

蛮社の獄によって捕らえられた高野長英は永牢(えいろう)といわれる終身禁固刑でした。

一生牢屋住まいというのですから、どれほど厳しい刑であったかわかりますね。

伝馬町牢屋敷に収監された高野長英でしたが、医者の知識を生かし囚人たちの医療に従事したり、牢屋敷環境の改善を求めたりしていたそうです。

そのおかげか、囚人たちからの人望も厚く、牢名主となっていたと伝わります。

収監から5年後の1844年(弘化元年)に伝馬町牢屋敷で火災が発生します。

江戸は火災が多い町でもありましたので、火災発生時には囚人たちを逃がすきまりがありました。

高野長英も火災に乗じて牢屋敷から逃げることとなります。

一説には、この火災騒ぎも高野長英が囚人たちを使ってのしわざによるものともいわれます。

囚人たちの人望を集めた上で、手足のように囚人たちを利用する脱獄計画を立てていたのかもしれません。

ここから脱獄に成功した高野長英の6年にも渡る逃亡劇が始まります。

高野長英の詳しい逃亡ルートは、はっきりとはわかっていません。

各地で尚歯会や鳴滝塾のメンバーたちにかくまわれていたようです。

というのも、高野長英の足取りを探るものは江戸町奉行所による関係者への聴取記録などのため、高野長英を逃がすために関係者が嘘の証言をしているとも考えられるためです。

作家の吉村昭さんが書いた小説「長英逃亡」を参考に逃亡ルートをたどると、江戸で知人の蘭方医などを頼って潜伏したものの、江戸にいることは危ないと考え脱出します。

その後、大間木(浦和)―大宮―熊谷―高崎―中之条(群馬県)へと逃亡しています。

中之条においては、関係者が事情聴取を受けた記録が残っています。

このあと新潟に抜けて故郷である岩手県前沢で母親に会ったといわれますが、この行程は偽装とも考えられます。

仙台から福嶋-米沢-宇都宮-江戸へと再潜伏しているようです。

また、知人の紹介で宇和島藩主・伊達宗城(だてむねなり)から招かれて、愛媛の宇和島藩にも潜伏していました。

伊達宗城は幕末四賢候ともいわれた人物で、高野長英によって蘭学書の翻訳を依頼し、西洋知識の習得や軍隊の洋式化に貢献したとされます。

全国に手配書が出回っていることもあり、宇和島藩にも長居もできず、再び江戸へと戻ってくることになりました。

なお、薩摩藩も高野長英を招くために探していたとされ、どれほど優秀な人材であったかがわかりますね。

硝酸で顔を焼き町医者として最後の江戸潜伏生活へ

このころの江戸の町は、世界でもっとも人口の多い都市でもありました。

そういう意味では、江戸で潜伏生活を送ることがもっとも安全と考えてもおかしくありません。

ここまでは知人の世話により何とか生活をしてきたものの、これから何年かかるかわからない潜伏生活です。

収入を確保するためにも「町医者・沢三泊」と偽名を名乗り、生活を始めることとなりました。

医者となれば多くの人と接することになり、正体がバレる可能性が高まります。

そのためにも人相を変える必要があったのです。

日本の犯罪史上においても、顔を変えて長く逃亡を成功させた犯罪者はいました。

松山ホステス殺害事件の福田和子やリンゼイホーカーさん殺害事件の市橋達也はよく知られていますが、顔の整形・逃亡の元祖成功者といえば高野長英だったのです。

高野長英が自分の顔を整形するために使った薬剤は硝酸(しょうさん)。

硝酸は強い酸性で劇薬指定されています。

金属を溶かすほどの強い酸性があり、水に溶けやすいという性質もあります。

一方で「土におしっこをかけると硝酸になる」といわれるほど、入手はしやすい点もありました。

医者でもあった高野長英にとっては、手軽に手に入れられる環境にあったのです。

江戸での潜伏生活を続け、家族を養うためにも、自分の姿を変える必要に迫られた高野長英。

高野長英が硝酸をつかって顔を焼く描写は、『長英逃亡』が生々しく感じます。

眼の前に炎が広がった。かれの口から野獣の声に似た叫び声がふき出し、体が後に倒れた。頬をおさえた手に痛みが走った。かれは、肉の焼ける匂いと赤い煙につつまれながらころげまわった。

「長英逃亡」吉村昭
高野長英
高野長英

火傷は自然治癒がもっとも効果がある。

医者であった高野長英らしく、手当をせずにその苦しみに耐えます。

熱をもち、水ぶくれが破れ膿が流れ出ても、ただただ痛みが引くことに耐え続けるのです。

壮絶な精神を支えに、高野長英は変貌を遂げていきました。

高野長英はロシアに逃亡したらしい・・・

この頃にはあまりにも見つからないために噂になっていたようです。

この噂が高野長英の変装に自信をもたせたとともに油断にもなったのかもしれません。

町医者になって潜伏してますぜ。

という情報を得た江戸町奉行所は、患者を装って高野長英宅へ運び込ませたところを再逮捕します。

こうして高野長英は長い逃亡劇を終えるとともに、捕らえるさなかの暴行によりその命も尽きることになりました。

硝酸で顔を焼いて潜伏!『蛮社の獄』で処罰された高野長英の逃亡劇 まとめ

硝酸で顔を焼くという様子は、聞くだけでも痛々しく、狂気の沙汰とさえ感じます。

自分の姿を変えてまで逃亡し、生き長らえようとした目的が何であったかに思いを馳せずにはいられません。

幕末の賢人からも求められた才能は、高野長英だけに与えられたものです。

その才能を生かし得た知識を最大限生かすことのできる場を求めていたのではないでしょうか。

知識は得るだけでは足りないのです。

得た知識で何をするか?

どう生かすか?

学問によって生きてきた高野長英だからこそ、学問の真の必要性を知っていたのでしょうね。

参考資料:『蛮社の獄のすべて』田中弘之著/『長英逃亡』吉村昭著

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