シーボルト事件は幕末のスパイ戦!間宮林蔵が暴いたニッポンの危機

間宮林蔵の写真 幕末・明治時代のわやなストーリー

歴史上の人物には、裏の顔をもつものも少なくありません。

松尾芭蕉の忍者説に、西郷隆盛の隠密説、どれも歴史の教科書に登場する偉人たちです。

幕末の探検家と知られる間宮林蔵(まみやりんぞう)は、公式にも隠密=スパイであったとされる人物であることを知っていますか?

歴史大好き、くろーるです。

樺太が島であることを発見し、ロシアと日本の国境を定めることに功績を残し、「間宮海峡」というその名を地図にも残した探検家です。

日本の地図を国外へ持ち出そうとしたシーボルト事件の密告者といわれますが、このシーボルト事件の真相そのものがスパイ事件であったといわれます。

日本地図を巡って多くの犠牲者も出したシーボルト事件と間宮林蔵のかかわりを通して、日本の安全保障を考えます!!

樺太探検も隠密としての職務だった間宮林蔵の北方探検

1780年(安永9年)下総国(現在の千葉県北部)の農民の子として産まれた間宮林蔵。

子供ころから秀才だったといわれ、先生の教える算術(現在の算数にあたる)の解き方をさっさと答えて帰宅したとか、間宮林蔵のいったとおりに治水工事を行ったらうまくいったなどというエピソードが残っています。

しかし、これらの間宮林蔵のエピソードは、確たる資料がないため真実かどうかはわかりません。

間宮林蔵の若いころは、謎に包まれた部分が多いようです。

おそらく10代後半に幕府の役人であった村上島之丞という人物に、その能力を買われて役人になったとされています。

この村上島之丞という人物は、健脚であったとされ、測量や地域の調査という仕事に生かされたといわれます。

隠密=忍者ではないかといわれる人物には、この健脚であることが重要な要素になると思われます。

江戸時代の俳諧人で忍者だったという噂のある松尾芭蕉も、当時の人物としては驚異的なスピードで「奥の細道」の行程を歩いています。

つまり、間宮林蔵を見込んだ村上島之丞も隠密であった可能性があるのではないでしょうか。

その後の間宮林蔵は、択捉(えとろふ)島での勤務中にロシア人の上陸・襲撃に遭遇したり、1811年(文化8年)ゴロウニン事件でもロシア海将・ゴロウニンの聴取にあたるなどしています。

そして、間宮林蔵を一躍有名にした樺太探検は、二度行われています。

一度目は1808年(文化5年)間宮林蔵38歳のときに、松田伝十郎という幕府の役人とともに樺太の約南半分を調査しています。

それから半年後に二度目の樺太探検を単身で行っています。

この二度目の樺太探検のときには、さらにシベリア大陸にまで渡り、樺太がシベリア大陸から切り離された島であることを確認しています。

鎖国をしていた日本では、国外に出ることは禁止されており、間宮林蔵のシベリア大陸行は死罪になる可能性もある危険な行為でした。

しかも、シベリア大陸側にいる民族は戦闘的であることもいわれており、北海道アイヌを奴隷として連れて行くとの話も聞いていたのです。

実際に、間宮林蔵は殺されかけてもいますので、命の危険も覚悟しての探検だったでしょう。

間宮林蔵の必死の調査のおかげで、樺太を日本の領土とすることができたのです。

ロシアの南下政策により日本の領土防衛が急務となりつつある中、間宮林蔵の樺太調査には大きな意義がありました。

間宮林蔵は帰国後、幕府に対して樺太調査の報告書を提出しています。

この報告書の中には、シベリア大陸に渡ったことも書かれていましたが、間宮林蔵には処罰はありませんでした。

現在、確認できる資料をとおして幕府公認の隠密といわれるのは、このあとのことなのですが、本当はこの樺太調査も隠密としての職務のひとつだったのではないでしょうか。

医者でも科学者でもない!シーボルトはオランダに依頼されたスパイ

シーボルト像

1828年(文政11年)ドイツ人の医者であり科学者であったフィリップ=フランツ=フォン=シーボルトが、国外への持ち出しが禁止されていた日本地図を隠し持っていたことが発覚します。

これによりシーボルトは日本国外追放となり、また、日本地図を渡した幕府天文方・高橋景保(たかはしかげやす)など数十人が処刑されることになった事件が起こります。

江戸時代後期、幕末のことですので、日本はもちろん鎖国をしていました。

日本近海にはたびたび外国船が現れており、1825年には異国船打払い令が出されている状況でのことです。

鎖国下での日本において、長崎の出島で交易が許されていた国は、清とオランダでした。

ドイツ人であるシーボルトが日本へ入国できたのは、オランダ人のふりをしていたからです。

オランダ人のふりをしてオランダ船に乗って日本へやってきたシーボルトの目的とは何であったのでしょうか。

シーボルトは、オランダ政府からの依頼を受けたスパイだったのです。

オランダが今後、日本との交易を活発に行うためと、来るべき日本の開国へ向けて、広く情報収集をすることがシーボルトに任された職務だったのでしょう。

しかし、外国人が長崎の出島を出ることができるのは限られていました。

シーボルトは医師という肩書を使い、人々の診療を行うという名目で長崎市内の巡回を認められるようになります。

人々への献身的な診療する姿に外国人への警戒を緩めたのか、シーボルトは長崎郊外に診療所と学習塾を兼ねた『鳴滝塾』をつくることも許されます。

この鳴滝塾には日本中の西洋の学問や医学を学びたいと思う若者が集まってきたのです。

日本の医療や学問発展のためという表向きの看板に反して、シーボルトとしては、自分から出向くことなく、あらゆる情報が集まる場所を確保することに成功しました。

というのも、シーボルトが優秀な医者としての技術と経験があったかは疑わしいのです。

日本には西洋医術を知るものはほとんどいませんし、外国人から西洋学問を教わる機会もありません。

比べるもののない、シーボルトの独壇場だったのです。

オランダ語を習得するためとして、シーボルトは学生たちに日本の風俗習慣をオランダ語で作文させました。

これによりシーボルトは劇的に日本についての知識を手にいれることができたのです。

シーボルトには、さらに大きなチャンスが巡ってきます。

長崎のオランダ商館長は、定期的に江戸へ行って挨拶をすることになっていました。

この江戸行にシーボルトの同行が許されたのです。

シーボルト事件のキーパーソンである幕府天文方・高橋景保との関係は、この江戸行のときにできたものです。

ここでもうひとつ、シーボルトがオランダに依頼されたスパイであったことのエピソードをご紹介します。

鳴滝塾の塾生で、のちに開国思想を広めたことにより蛮社の獄で捕らえられ処刑された高野長英渡辺崋山は、師匠でありながらもシーボルトの行動を不審に思っていたようです。

「あなたの職業は何か?」

シーボルト
シーボルト

コンデンスポンデーヴォルデ

高野長英に聞かれシーボルトが答えたラテン語を「内偵」と訳していたということを、渡辺崋山は書き残しています。

シーボルトをスパイと見破った高野長英の衝撃の生涯→『硝酸で顔を焼いて潜伏!蛮社の獄で処罰された高野長英の逃亡劇』

その他にも江戸行の途中では、下関で水深の調査をしたり、絵師を同行させて詳細な地図を描かせたりと、シーボルトがスパイ活動をしていた証拠はいくつもありました。

ただの医者・科学者を超えた不審な行動は目立っていたようです。

スパイを依頼されたとはいえ、本職としてのスパイではなかったのでしょう。

重大な仕事を請負って、浮かれていたのかもしれません。

幕府公認の隠密として活動してきた間宮林蔵とは、キャリアも経験も違っていたということです。

「スパイ・シーボルトVS隠密・間宮林蔵」本当の勝者はどっち?

シーボルトは江戸の幕府天文方・高橋景保を通して、伊能忠敬(いのうただたか)の測量した日本地図「大日本沿海與地全図」を手にいれます。

そして、手に入れた地図にシーボルトは、都市の名前などを鳴滝塾の学生に書かせています。

その国の詳細な地図を入手することは、戦略上、とても重要なことです。

現在のようなGPSなどもない時代のことです。

どこから上陸することが被害も少なくスムーズに進行ができるか、その後展開を有利する場所はどこか、などが詳細な地図で詳しく知ることができるからです。

シーボルトとしては、

シーボルト
シーボルト

コレハ総督ニ褒メラレマス!

と調子に乗っていたかもしれません。

スパイとして未熟な腕前と思わせるのは、シーボルトが自分の学生に手伝わせることで情報が洩れ放題だったということです。

それだけ、シーボルトも日本の安全保障に対する姿勢をなめていたともいえます。

おそらく、シーボルトがスパイではないか?ということは長崎奉行所でも疑っていたのではないでしょうか。

間宮林蔵には、シーボルト周囲の動きを探る指令が出ていた可能性があります。

というのも、当時の長崎奉行は、一度目の樺太探検に間宮林蔵を推薦した人物だったからです。

腕も実力も違う間宮林蔵は、まずは、シーボルト周囲の関係者を調査したのでしょう。

そこで浮かび上がてきたのが、幕府天文方・高橋景保

高橋景保と間宮林蔵にも、深い縁がありました。

シーボルトが手に入れた「全日本沿海與地全図」。

この作成者は伊能忠敬です。

伊能忠敬の測量の師匠を高橋至時(たかはしよしとき)といい、その子供が高橋景保なのです。

さらに、途中で亡くなった伊能忠敬のあとを引き継いで地図を完成させた人物が高橋景保であり、また、蝦夷地の北方から樺太を測量した人物が間宮林蔵だったのです。

ここにシーボルトー高橋景保―間宮林蔵というキーパーソンが揃います。

あくまで想像ですが、間宮林蔵は高橋景保を通して、

間宮林蔵
間宮林蔵

私は樺太を調査した大探検家である

と大宣伝したのではないでしょうか。

スパイとして未熟でありながら調子に乗っていたシーボルトは、

シーボルト
シーボルト

蝦夷地ト樺太ノ情報モイタダキデス!

と安易に間宮林蔵とコンタクトをとろうとしたのです。

お近づきのしるしとして、プレゼントを送ります。

それも高橋景保宛の荷物と一緒に。

外国人とのもののやり取りは禁じられていたときです。

シーボルトから送られてきたプレゼントを、間宮林蔵は開封せずにそのまま幕府へ届けます。

中身は手紙と海外製の布だったようですが、これによって高橋景保は幕府からマークされることとなります。

そして、国外持ち出し禁止の地図や日本製品をシーボルトから摘発することになるのです。

シーボルトと間宮林蔵のスパイ対決は、間宮林蔵の大勝利だったでしょう。

このあとシーボルトは日本国外追放となり、二度と入国を許されることはありませんでした。

しかし、この展開を読んでいたであろうことは、さすがにシーボルトもスパイの端くれ。

地図の写しは作成されていて、すでに国外に持ち出されていました。

さらに、オランダへ帰国したあと「ニッポン」という本を作成したことで、日本のことが詳しくヨーロッパやアメリカに知られることになりました。

結局は、日本の開国を早めることに一役買ったことには変わりはありません。

長い目で見れば、シーボルトの勝ちだったのかもしれませんね。

密貿易を見抜き変装して潜伏する間宮林蔵のスパイとしての実力

オランダスパイ・シーボルトと幕府隠密・間宮林蔵との対決は、間宮林蔵の勝利で幕を降ろしました。

では、間宮林蔵が幕府公認の隠密=スパイとして、優秀な人物であったことを知るエピソードのご紹介をしておきます。

シーボルト事件のあとのこと。

あるとき、山陰道を見回っていたとき石見国浜田藩(現在の島根県)あたりの宿屋で休憩したときのことです。

日本にはない珍しい木があることに間宮林蔵は気づきます。

宿屋の主人に聞いたところ、廻船問屋のものがたまに持ってくるのだと答えました。

間宮林蔵は、密貿易であることを直感的に見抜きます。

九州への密偵途中だった間宮林蔵は、その場をあとにすると、九州での密偵のあとに大坂奉行所へ立ち寄り、石見国浜田藩でのことを報告します。

その後の調査で、石見国の廻船問屋が島根沖の竹島で密貿易をしていることが判明したのです。

さらにこの密貿易には、浜田藩も関わっていることがわかり、重臣が責任をとって切腹する事件となりました。

間宮林蔵が幕府公認の優秀な隠密であることを物語る話です。

ちなみに、このときの九州での密偵というのも、間宮林蔵が隠密であった証拠として語られる話で、変装して薩摩藩(現在の鹿児島県)に潜伏したとされています。

間宮林蔵は変装も得意だったとされていますが、これは公式な資料がありません。

少なくとも、かなり熟練された隠密=スパイとしての腕前をもっていた間宮林蔵だったのではないでしょうか。

シーボルト事件は幕末のスパイ戦!間宮林蔵が暴いたニッポンの危機 まとめ

シーボルト事件が鎖国下での日本におけるスパイ事件であったことは、昔はよく知られたことだったそうです。

いつの間にか、純粋な医者であり科学者であったシーボルトを、幕府が鎖国の名の下で弾圧した事件となっていました。

本来であれば、間宮林蔵も探検家としての功績だけではなく、シーボルトによる情報漏洩を防いだ人物としてスポットがあてられてもいいはずです。

それほど、日本における情報収集の重要性が軽く見られている証のように思えます。

間宮林蔵にしてもシーボルトにしても、相手に勝利するためには、どれほど情報を事前に取得するかを重視していたのです。

これには、時代は関係ありません。

″日本はスパイ天国″といわれて久しくなります。

情報収集を不得手としているのは、古くから続く日本の負のお家芸なのかもしれませんね。

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