西郷隆盛は薩摩の隠密だった!顔写真を嫌った理由と生存説の真相

西郷隆盛のイラスト 幕末・明治時代のわやなストーリー
西郷イト
西郷イト

うちの人は、こげん人ではなか。

(うちの人は、こんな人ではありません。)

上野の西郷隆盛像を見た妻・イトは何度もつぶやいたといわれます。

歴史大好きくろーるです。

歴史上の偉人でありながら、裏の顔を持つといわれた人物は一人や二人ではありません。

江戸の俳諧人・松尾芭蕉探検家・間宮林蔵など、その本来の姿は隠密=忍者ではないかと噂されるのです。

幕末・明治維新の立役者・西郷隆盛(さいごうたかもり)もその一人。

多くの幕末偉人の写真が残る中、西郷隆盛には顔写真が残っていません

それは、西郷隆盛が写真嫌いだったからといわれます。

写真映りが悪いとか、恥ずかしがり屋だとか、西郷隆盛の写真嫌いはそんな理由ではありません。

自分の素性も姿も残してはいけない薩摩の隠密だったというのです。

噂の真相を探ってみます!!

お由良騒動でわかった西郷家は武士ではなく隠密だった

幕末の動乱が本格化するする少し前、薩摩藩(現在の鹿児島県)・藩主の後継者問題がお由良騒動です。

当時の薩摩藩27代藩主・島津斉興(しまづなりおき)の江戸での愛人・お由良の子供を薩摩藩主にしようという動きがありました。

この動きに対し、正室との間の子供で長男・島津斉彬(しまづなりあきら)を藩主にしようとする勢力とが対立したのです。

しかし、お由良を溺愛(できあい)する薩摩藩主・島津斉興は、長男・島津斉彬を支持した勢力を排除しようとします。

薩摩藩江戸家老をはじめ、切腹14名・遠島14名・退役謹慎14名という厳しい処分でした。

長男・島津斉彬の支持勢力の一人で切腹処分となった、赤山靱負(あかやまゆきえ)という人物がいました。

赤山靱負は物頭(ものがしら)といわれる下級武士を束ねるリーダー役であり、その赤山家に御用達(ごようたつ)として出入りしていたのが西郷隆盛とその父・吉兵衛だったのです。

御用達とは注文をとってまわる商人のようなものですが、その裏では軍事物資の売買や敵方の情報を探ることも仕事のひとつとされていました。

赤山靱負は西郷親子をとても信頼しており、切腹のときに血染めの肌着を託したという話が残っています。

西郷隆盛
西郷隆盛

赤山殿の無念、忘れませぬ。

長男・島津斉彬を藩主にしようという遺志を、西郷父子が引き継いだのです。

その後、薩摩藩第28代藩主となった島津斉彬は、西郷隆盛をご御用達からお庭方(おにわがた)に抜擢し、幕末の動乱の渦中にある江戸へと連れて行きます。

お庭方という役職は隠密、元の忍者のことです。

それも、島津斉彬は″幕末四賢公”といわれた切れ者の名君でしたので、収集する情報には高い精度が求められたはずです。

島津斉彬は、自分を支持していた赤山靱負から西郷隆盛の優秀さを聞いていたのではないでしょうか。

赤山靱負という自分の腹心を失ったものの、島津斉彬はそれ以上に優秀な西郷隆盛という情報員を手に入れたのです。

西郷隆盛が隠密でもおかしくないこれだけの証拠

先程も話した通り、御用達という仕事は情報収集も兼ねた商人のようなものでした。

ところが、西郷隆盛の父・吉兵衛は下級武士であり城の警備を担当していました。

城の警備というものは、もともとは隠密の仕事のひとつでありました。

徳川家康に仕えた伊賀・甲賀の忍者たちも御庭番と呼ばれ、城の警備が表向きの役職でした。

つまり、西郷隆盛は隠密としての教育を受ける環境があったと考えられるのです。

また、西郷隆盛の顔社員が残っていない謎にも、この西郷隆盛隠密説が関係しているのではないかと考えられるのです。

西郷隆盛を抜擢した薩摩藩主・島津斉彬は、大の写真好きで知られています。

西郷隆盛に対しても被写体になるように命じてもおかしくありません。

例え西郷隆盛が写真嫌いであっても、藩主の希望とあっては簡単に断ることはできなかったはずです。

ところが、西郷隆盛の写真がないということは、島津斉彬もなぜ西郷だけは姿を知られる証拠を残してはいけないとわかっていたのではないでしょうか。

西郷隆盛
西郷隆盛

天皇陛下のお願いといえども、お断りしもす。

ちなみに、西郷隆盛は明治天皇からも写真をくれるよういわれたことがあります。

しかも、明治天皇自身の写真と交換という、当時であれば誰もがうらやむような好条件でのことです。

それでも、写真をとることをしなかった西郷隆盛の写真嫌いは、隠密としての仕事をするには不都合だと考えていたからではないでしょうか。

ニセ西郷の写真は部下の顔!素性を隠し続けた西郷隆盛

西郷隆盛の写真の話には、″ニセ西郷″の話まであります。

1877年(明治10年)に起きた西南戦争のときのこと。

永山弥一郎(ながやまやいちろう)という西郷隆盛軍の幹部の写真が、西郷隆盛の顔だとして広まったという出来事がありました。

永山弥一郎は痩せて尖った顔の持ち主で、鼻下からアゴにかけてはヒゲを生やした人物で、西郷隆盛とはかなり異なる顔をしていました。

西郷隆盛のニセ写真は、たまたま何かの間違いで広まったともいえますが、西郷隆盛がワザと違う人物の写真を広めたとも考えらます。

西郷隆盛には、人目を避けるような行動が多いことも事実です。

明治維新前の西郷隆盛33歳のときには、奄美大島に渡っています。

これは罪人としての刑罰だったとされていますが、現地では妻を得て子供もつくっていますので、必ずしも悪い生活をしていたとはいえません。

征韓論に敗れて下野したときも鹿児島の温泉地で過ごしたり、鹿児島の海上50キロ以上も離れた島で暮らしたりしています。

若いころから自分の顔や身体的な特徴を知られることを避けてきたとしたら、西郷隆盛の行動はクセや好みなのではなく、隠密としての使命感からだったのではないでしょうか。

西郷隆盛が写真や肖像画になることを拒否してきたことにも納得できるといえるのです。

ぜひ、MI6に欲しい男だ!!

西郷隆盛は秘密情報部員だった!?顔写真を嫌った本当の理由とは??まとめ

西郷隆盛が隠密=忍者だったのではないかと思われる理由にはもうひとつ、出生地にも由来します。

西郷隆盛が生まれたところは下加治屋郷(しもかじやごう)といわれています。

″加冶屋=鍛冶屋″のことであったそうで、鉱物資源の採掘や鉱物から鉄などを作り出す職業集団の集落だったと考えられています。

鍛冶屋は鉱物の採掘という仕事柄、古くから山の民との関連も深く、忍者もまた山の民の出身でもあることから関係があるともいわれます。

ここにも、また、西郷隆盛と隠密との共通点があったのです。

そして、西郷隆盛には生存説があります。

西南戦争では死なずに行方をくらまし、ロシアへ渡って生きていたというものです。

もし、西郷隆盛が隠密であるならば、西南戦争での敗北は想定内だったかもしれません。

そして、日清戦争・日露戦争へと続くロシアとの対立で重要な情報を日本へ伝え続けていたのかもしれませんね。

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