3代将軍・徳川家光は男好き!将軍に愛された3人の男と大奥誕生秘話

江戸時代のわやなストーリー

キリスト教の布教へ来日した宣教師が、もっとも驚いた日本の習慣はなんだと思いますか?

宣教師
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ニッポンニハ、男好キガイッパイイマス!コノ国ハ滅ビマス!

性に開放的なお国柄に驚いたといいます。

歴史大好き、くろーるです。

徳川第3代将軍・家光は、「生まれながらの将軍」と自ら宣言し、徳川250年の太平の世を築き上げた人物です。

しかし、徳川家光(とくがわいえみつ)には知られざる性癖がありました。

大の男好きだったということです!

実は、将軍のための女の園「大奥」は、男好きの徳川家光のためにつくられたのでした。

徳川将軍が男好きでは、いつまで経っても子供が次の将軍となる子供が生まれませんからね。

徳川家光の男の趣味は、どれほどのものだったのでしょうか?

徳川3代将軍・家光の功績をサラッとおさらい

徳川第3代将軍・徳川家光とはどんな人であったのか、そこからご紹介しましょう。

父は、第2代将軍・徳川秀忠(ひでただ)、祖父は初代将軍で三大天下人・徳川家康(いえやす)という、徳川家本流の生まれです。

ただ、母親からは好かれていなかったという過去を持ち、一時は将軍就任が危ぶまれたこともあります。

子供のころの複雑な過去からか、それとも持ち合わせた性格か、自殺未遂の経歴の持ち主です。

どちらかというと、暗い性格だったのでしょう。

しかし、徳川第3代将軍に就任してからは、家柄よりも能力を重視した家臣の登用もあり、徳川幕府を盤石とする政策を行っていきます。

徳川家康の定めた武家諸法度を改めて、参勤交代を制度化します。

これにより、外様大名の財力を削ぎ、反乱を起こしにくくしています。

また、鎖国を強化したことで、外国勢力を排除し、徳川幕府のスムーズな運営を可能にしています。

特に、一般的にキリスト教徒の反乱とされる島原の乱を鎮圧したことも、大きな功績です。

大奥をつくったことについては、のちほど述べるとしましょう。

そんな徳川幕府の功労者である徳川家光ですが、″男が趣味”という将軍としては決定的な欠点がありました。

男好きということ自体は、他の将軍や武将にも多くおり、特別なことではありません。

ただし、「男も好きだけど女も好き!」というのがノーマル。

将軍様は極端なほど女嫌いだったのです。

男好き将軍様の最初の犠牲者・坂部五左衛門

徳川家光がまだ幼名・竹千代(たけちよ)と名乗っていた頃で16歳だったといわれます。

生まれた時から世話係となっていた小姓・坂部五左衛門(さかべござえもん)というものがいました。

おそらく年上だったのではないかと思いますが、徳川家光に可愛がられていたようです。

もしかしたら、男の趣味を教えたのも坂部左衛門だったかもしれません。

ある日、徳川家光が入浴中のこと。

今日も坂部五左衛門と楽しいときを過ごそうと、体をきれいにして風呂から上がってきたときのことです。

他の小姓と坂部五左衛門が戯れていたところに遭遇します。

元々、性格が暗く嫉妬心の強い徳川家光のことです。

自分以外のものと楽しくしている姿を許せるはずなどありません。

将軍とはいえ、いや将軍だからこそ刀の心得はあるはず。

一刀のもとに坂部五左衛門を切り捨ててしまったのです。

将軍に対する無礼といえば、そうなのですが、男の趣味で殺された坂部五左衛門も可哀そうですね。

当然ですが、将軍の機嫌を損ねたという理由で殺したことにはできません。

坂部五左衛門に非礼があったとされ、処罰されたことになっています。

ちなみに、もう一人の小姓は殺されずに職を解かれていますが、のちのち病死したことになっています。

本当に病死だったのかは、わかりませんけどね。

妻と子供をつくったら切腹!酒井重澄の後悔

徳川家光の男好きは、ただ「男が好き」というだけではありません。

徳川家光
徳川家光

自分をずっと好きでいて❤

徳川家光
徳川家光

わたしだけを見ていて❤

自分の恋敵(?)が女性であったとしても、許すことなどできないのです。

その変質的なほどの徳川家光の男好きの犠牲になったのが、酒井重澄(さかいしげずみ)でした。

酒井重澄は、徳川家光が将軍職に就いたときから近くに仕え、同じく仕えた堀田正盛(ほったまさもり)とともに徳川家光から可愛がられていました。

徳川家光19歳、酒井重澄16歳の頃です。

二人の間がどれほど親密であったかがわかる話があります。

徳川家光が若いころ。

酒井重澄をとても可愛がっておりました。

夜中に忍んで酒井重澄の家へ徳川家光が通っていることを知った重臣・酒井忠勝。

「このことが世間に知られたら、その途中で襲われるかもしれない。」

こっそりと徳川家光のあとをつけ、酒井重澄の家にいる間は木陰で周囲を見張り、また帰りには同じように気づかれぬようともをしていました。

酒井忠勝は徳川家光政権の重要なブレインの筆頭でした。

この酒井忠勝との関係も怪しいところはあるのですが、今は置いておきましょう。

また、ある茶会でのできごともあります。

徳川家光が酒井重澄と堀田正盛に茶を点(た)てたことがありました。

先に堀田正盛に茶を出したところ、酒井重澄はその茶を取り上げ、そのまま茶碗ごと石に投げつけ打ち砕いてしまったのです。

その様子を見ていた徳川家光は、

「まあ、そう興奮するな。」

と酒井重澄をなだめたのです。

これが本当であれば、酒井重澄はとても無礼ですし、徳川家光はなんと心の広い男かと思います。

要は、徳川家光は自分を巡って取り合う二人の姿に、愛情を感じて悦に浸っているのです。

徳川家光も酒井重澄に対して、「自分が片思いをしているのに相手にしてくれない」という歌を詠んだりしています。

男一筋の徳川家光に対して、酒井重澄は″ノーマルな男趣味“だったようです。

自分の正室と側室に子供を産ませたことに、徳川家光はお怒りになりました。

徳川家光
徳川家光

あたし以外と関係もつなんて許せない!切腹よ!

表向きは病気であるとされていた酒井重澄だったので、切腹命令は取り消されました。

しかし、このことを悔いた酒井重澄は自分で絶食し、命を絶ったのでした。

将軍との愛を貫き、ともにあの世まで!家光に殉じた堀田正盛

徳川家光に可愛がられながらも自害をした酒井重澄がいる一方で、その命を徳川家光に捧げた男もいます。

酒井重澄に茶を取り上げられた堀田正盛です。

茶会での一件のとおり、徳川家光から「どちらがより可愛がられているか?」を争っていた二人。

徳川家光の養母である春日局(かすがのつぼね)を義祖母にもつ堀田正盛は、幼いころから親しい関係を築いていたかもしれません。

知り合う機会は多かったかもしれませんね。

弱冠14歳で徳川家光の側に仕えることになった堀田正盛は、3年後には小姓頭、24歳で若年寄というスピード出世を果たします。

能力主義であった徳川家光ですので、堀田正盛自身もデキる男だったのでしょうが、それだけではなかったのでしょう。

堀田正盛は江戸城二の丸を任されていました。

江戸城二の丸は徳川家光のプライベート空間。

夜の当直も堀田正盛だったのですから、その意味は理解できようというもの。

密会の事実はありませんが、いつでも可能な状態であったといえるでしょう。

26歳のときには老中となり、徳川家光のナンバー2の立場になります。

また、国を与えられて藩主となったことも徳川家光の愛の深さがわかります。

1651年(慶安4年)48歳で徳川家光が亡くなると、堀田正盛も44歳で後を追って自害します。

このころは、男色関係にあったものは殉死する風習もあったことから、徳川家光と堀田正盛の関係は間違いないといわれます。

堀田正盛は自害するとき、着ていたものを脱がずに腹を切ったとされます。

肌を誰にも見せないこと、徳川家光への愛を貫く覚悟を現わしていたといえます。

お手てつないで将軍様とラブラブの鷹狩!甥っ子・前田光高

徳川幕府の中でも有力藩のひとつ、加賀藩(現在の石川県)前田家。

加賀藩主・前田利常(まえだとしつね)の長男で、徳川家光の甥にあたる前田光高(まえだみつたか)との関係も男と男の間柄といわれています。

前田光高は美男だったともいわれていますので、近い親類にイケメンがいるなら、手を出さずにいられなかったのでしょう。

将軍様の遊びであった鷹狩では、徳川家光と前田光高が手をつないで遊ばれていたとか。

今なら手をつなぎながらゴルフをして、移動のたびにキャッキャッと騒いでいるような感じでしょうか。

子供がいなかった徳川家光は、このお気に入りの甥・前田光高を養子にしたいと言っていたようです。

養子に迎えるということは=次期徳川将軍ということです。

前田家にとっては、さぞお喜びと思いきや、この徳川家光の叔父で加賀藩主・前田利常は先読みのできる賢い人でした。

前田利常
前田利常

家光様には、これからきっと息子ができるから、養子の話などとんでもない!

この前田利常の対応が正しかったことは、のちに徳川家光に子供が生まれることで証明されます。

養子の話にホイホイ乗っていたら、実の子供との将軍争いを避けようと前田家取り潰しの口実になっていたかもしれないのです。

政争のことはさておき、徳川家光は甥っ子とも関係してしまう根っからの男好きだったのです。

趣味からお近づきはゴマスリの基本!前田利常の″加賀美少年隊″

徳川家光の男好きをチャッカリ利用したものもいます。

将軍お気に入りの甥っ子・前田光高の父で、徳川家光の叔父でもある前田利常です。

先程も書いたとおり、加賀藩主にして先見性に優れていた前田利常。

先程の″養子騒動”を切り抜けると、今度は将軍様の男好きを逆に利用して徳川家光のご機嫌取りをします。

“加賀美少年隊”を組むと、徳川家光の前でダンスをさせたのです。

児小姓というので、まだまだ子供の美少年を集めて、風流踊りといわれる当時の流行ダンスを披露しました。

このダンスチームは、徳川家光の大変なお気に入りとなります。

徳川家光は、精神的にも弱いところがあり、鬱気味だったともいわれます。

後半生は、頻繁に寝込むことがありましたが、このときに元気づけに呼んだのが前田利常の“加賀美少年隊”でした。

徳川家光
徳川家光

美少年隊がみたいのぅ~❤

加賀美少年隊は、私が勝ってに名付けたものなので、徳川家光がこうは言ってないですが、それほどリクエストをしていたことは事実です。

美男子から美少年まで、そして死の間際まで徳川家光の男好き趣味は変わらなかったということです。

後継者問題を一発解決!男好きから美人の園・大奥誕生へ

これほどの″男好きの将軍″に悩んでいたのは、養母・春日局でした。

徳川家光の子供が生まれなければ、次の将軍を巡って争いが起こるかもしれません。

まだ、徳川幕府の前半期のことです。

伊達政宗も健在ですし、天下を狙う大名がいつでも出てくる時代でした。

春日局
春日局

なんとか女性に興味をもってもらわねば・・・

そこで考えたのが、女性を尼にすることです。

春日局に仕えていた女性の中でも、もっとも綺麗な女性を尼にするということで髪を剃ってしまいます。

髪が無ければ、女性というより美少年のような容姿となったのです。

その女性を徳川家光の側で身のまわりの世話をさせたのです。

男好きといっても、美男を好んでいるわけなので″美少年のような女性″に、興味が出ないわけがありません。

徳川家光
徳川家光

ボーイッシュな女もいいかも~❤

ついには、女性との体験も済ませてしまうことになったのです。

女性の素晴らしさも知ってしまった将軍・徳川家光は、今までの反動から家柄など関係なく、美しい女性と見るや自分の側室へと仕えさせることになります。

こうしてできたのが「大奥」だったわけです。

この美少年風女性を仕えさせる作戦は功を奏します。

お楽の方との間に生まれた子供が、徳川第4代将軍・家綱(いえつな)です。

さらにお玉の方との生まれた子供が、徳川5代将軍・綱吉(つなよし)となります。

ちなみに、お楽の方は元農民の娘、お玉の方は元八百屋の娘といわれますので、徳川家光の無節操さがわかりますね。

3代将軍・徳川家光は男好き!将軍に愛された3人の男と大奥誕生秘話 まとめ

日本では昔から男好きは、″衆道(しゅうどう)″と言われ武将たちの嗜(たしな)みのひとつでした。

そのため、「男が好き」ということは珍しいことではなかったのです。

性にはとても開放的な習慣が日本にはあったということです。

徳川家光の男好きは、その中でも偏狭的であったかもしれません。

しかし、将軍の男好きによる後継者問題が、大奥のシステムを生んだことは、後継者問題解決にも貢献しています。

徳川家光は、「徳川250年を安泰にさせた」といわれますが、政治のシステムだけではなく、血統を引き継ぐシステムをも盤石にした大功績を残しているのですね。

徳川家光の男色にスポットをあてた漫画『将軍の血』

【あらすじ】

最高にして最凶の将軍様、徳川家光。少年たちを、男たちをはべらせる歪んだ愛で、恐怖政治を成し遂げた男…。400年前、彼は絶対的な隷属制を敷き、比類なき独裁者として君臨したのだ。性愛に溺れながら冷酷な顔をのぞかせる、独裁者・大河ロマン!

なぜ、徳川三代将軍・徳川家光が男好きであったのか?

この記事ではあまり書いていない徳川家光の悲しい生い立ちも描かれています。

内容の割には、あまりドロドロしていないところは好みの別れるところかもしれませんが、“権力者のボーイスラブ”という視点は新鮮です。

キャラもあまり重くありませんので、軽いタッチで読んでみることをオススメします。

(参考文献)

徳川家光/著者:藤井譲治/吉川弘文館

遊びをする将軍踊る大名/著者:山本博文/教育出版

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