崖下りも兄・頼朝へのアピール!?平安一のかまって男・源義経

平安・鎌倉時代のわやなストーリー

愛しているといってくれ!!

子供のころの愛情不足は、大人への成長にも影響するといわれます。

歴史ゴシップ好きのくろーるです。

2歳で父親を殺され、7歳で母親と生き別れた源義経(みなもとよしつね)。

天才軍略家として常識にとらわれない発想で、この世の春を謳歌していた平家を追い詰め滅ぼします。

平家滅亡のヒーローとなりながら、兄・源頼朝(みなもとよりとも)からは反逆者扱いをされて、奥州まで落ち延びることになるのです。

兄・源頼朝軍に攻められ、自害してしまう源義経の最後に涙した人も多いことでしょう。

でも、源義経の戦法は、当時としては褒められた方法とはいえないことは知っていますか?

逆転の発想といえば聞こえはいいですが、源義経のことを“ズルい男”と思った人もいたのではないでしょうか。

勝てば何をしてもいいのか?

そんな視点に立って、源義経の戦法を見直してみます。

すると、そこには兄・源頼朝との関係が見えてきます。

さらに、未だに謎の多い源義経の奥州への逃亡にも、別の見方が見えてきました。

天才か?それとも、平安のチャラ男か?

源義経がどれほど目立った行動をしたかを見ていきましょう!

兄ちゃん振り向いて!目立ってナンボの源頼朝への猛アピール!

のちに鎌倉幕府を開く源頼朝が平家打倒の兵をあげたことを聞いた源義経は、すぐに兄の元へかけつけます。

父親の姿も知らず、母親の愛情も覚えていない、生涯孤独と思っていた源義経にとって、血を分けた兄は唯一無二の存在だったのです。

一方の源頼朝は、かろうじて平清盛(たいらのきよもり)に命を助けられ、なんとか生き延びてきました。

平家打倒の潜在一隅(せんざいいちぐう)のチャンスに、兄弟の感傷に浸っている余裕はありません。

源頼朝
源頼朝

こいつは使えるのか?

こいつは使えるのか?

どちらかというと、源義経の利用度を考えていたのです。

源義経
源義経

兄ちゃん、マジ冷たいわ~ヨッシャ!きっと、振り向かせたるっ

源頼朝の弟と認めてもらうべく、源義経の涙ぐましいアピール作戦が始まりました。

兄への愛が、源義経を源平合戦史上に輝く天才を生み出すことになったのです。

道が暗い?火をつければ明るくなるんじゃネッ!?民家ごと放火!

源頼朝と同じく源氏の源義仲(みなもとよしなか)が平家討伐兵を立ち上げ、京都から平家を追い出しました。

ところが、源義仲軍の京都での評判が良くありません。

乱暴狼藉をする源義仲軍に京都の人々は嫌気をさしていたのです。

その悪い評判を利用して、京都から源義仲を追い出したのが源頼朝軍でした。

平家討伐の主導権を握った源頼朝は、さらに西へと兵を進めます。

山沿いを源頼朝のもうひとりの弟・源範頼軍が、海沿いを源義経軍が進む作戦を計画します。

この作戦は、平家軍が拠点している福原(現在の兵庫県神戸市周辺)を挟みうちにするものでした。

ちょっとでも早く兄・源頼朝にアピールしたい源義経のモットーは、もちろん『速攻』

平家軍の予想を上回るスピードで攻撃して勝つことができれば、兄・源頼朝も喜んでくれるはずです。

源義経
源義経

最初に勝った報告するのは俺だもんね~

平家軍は本拠地・福原を防衛ラインとして、手前の三草山(現在の兵庫県加東市)に陣地を置いていました。

兵力で劣る源義経軍は、夜襲を仕掛けて平家軍を撤退させることを考えます。

ところが、このあたりの地理に詳しいものがいないうえ、目印もない時代の夜の移動は危険が高いのです。

ときには、真っ暗い中で迷ってしまい、平家の陣地にたどりつけないばかりか、大事な兵を失うこともありえます。

源義経
源義経

暗いなら火をつければ明るくなっていいんじゃねっ

源義経軍の進む道沿いに火をつければ、明るくなって安全に平家陣地を襲えるというのです。

道沿いあるものは民家だろうがおかまいなし!

燃やして燃やして燃やしまくり!

おかげで、源義経軍は安全に三草山の平家陣地を攻めることができました。

迷惑したのは、想定以上より早くやってきた源氏軍に驚いた平家軍です。

のんびりした夜を楽しんでいた平家軍は、不意を突かれて戦うどころか逃げるのがやっとのこと。

陣地を後退させることになります。

とばっちりを受けたのは、燃やされた民家の人々です。

焼け出されても、何の保証もありません。

いつの時代も迷惑するのは庶民だけなのです。

崖下りをする理由は「鹿も馬も足が4本」ひよどり越えの逆落とし

三草山の戦いで勝ちはしたものの、平家軍の守りが固いことには変わりありませんでした。

福原にある平家軍の陣地は、前方を瀬戸内海に、後方を絶壁に守られており、源氏軍の苦戦は続いていました。

源義経
源義経

ここで逆転勝利をすれば、メチャ目立つじゃん!兄ちゃん、よろこぶゾ~

兄・源頼朝を想うとき、源義経のひらめきがボルテージを上げます!

後ろから攻めれば、平家を挟み撃ちにできるじゃん!

後ろから攻めれば、平家を挟み撃ちにできるじゃん!

た、大将ぉ~あの絶壁を降りられないっすよ~

源義経は、このあたりに詳しい猟師に聞いてみました。

源義経
源義経

あの崖って、鹿とか降りたりできますぅ?

猟師
猟師

へぇ、鹿ならときどき降りれやす。

源義経
源義経

鹿も馬も足は4本で同じじゃん!だったら、イケるんじゃね!

なんと、崖から馬を無理やり落とすという動物愛護団体も猛抗議の行動に出ます。

落した馬の様子を見てみると・・・

おっと、生きているではないですか!

しかも立ってる!

これには、源義経の行動を半信半疑で見ていた家臣たちも、大いに驚き、テンション爆上げです!

源義経の騎馬軍団は、一気に断崖絶壁を駆け下りたのです。

来るはずのない後ろからやったきた源氏軍に、平家軍は大混乱におちいりました。

固く守っていた前線も崩壊し、一目散に海に浮かべた船へと逃げ去ったのです。

一の谷の戦いでの、奇跡の逆転劇「ひよどり越えの逆(さか)落とし」といわれる話です。

台風の海ってぇ~渡れたらスゴいじゃん!屋島の戦いの強行突破!

瀬戸内海の海へと逃げ去った平家軍が次の拠点に選んだのは、現在の香川県にある屋島

今は陸続きになっていますが、平安時代には島だったといわれています。

源義経
源義経

また、ソッコーで勝っちゃうもんね。兄ちゃん、待っててね~

速攻で平家に休むすきを与えないことをモットーとしていた源義経は、平家軍へ攻撃を続けます。

屋島を攻めるためには、瀬戸内海を渡る必要があります。

ところが、あいにくの暴風雨

誰もが天気が良くなるまで休みだなと思っていたところへ、源義経が驚きの発言をします。

源義経
源義経

強い風に乗れば、早く海を渡れるじゃん

これには、源義経の副将だったベテラン・梶原景時(かじわらかげとき)が反論します。

梶原景時
梶原景時

船の先にも櫓(ろ)をつけて、その方向にも行けるようにすべきです!

源義経
源義経

何いってるの?平家を攻めるっていうのに、戻ってくること考えないっしょ!

屋島の戦いへの準備中の逸話『逆櫓論争』がこれです。

これには梶原景時も、自分の大将は頭がおかしいと別行動をします。

源義経に従って、暴風雨の中、海を渡ったのは150人ほどだったようです。

暴風雨の中、海を渡るなんて死ぬようなものですからね。

それでも、無事、海を渡り切った源義経軍。

一説には、3日かかるところをたったの6時間で渡ったともいわれます。

これもまた、平家軍の予想を裏切る奇襲作戦となりました。

平家の武将
平家の武将

エッ!もう源氏軍が来たんか!?

慌てた平家軍は、急いで屋島の陣地を引き払い、またもや沖へと逃げ去ります。

このときに起きた事件が、那須与一(なすのよいち)が扇の的を射る話です。

那須与一の扇の的

沖へ一度は逃げた平家軍でしたが、源氏軍の数が少ないことがわかると、一艘の船を源氏軍へ近づけます。一本の棒の先に扇を立て、“これを射ることができるか”と挑発してきたのです。これは一種の占いで、源氏軍が射ることができれば源氏軍の勝ち、扇の的を外せば平家軍の勝ちという意味をもちます。源氏軍の弓名人・那須与一が神に祈って矢を放つと、見事、扇を撃ち落とし源氏軍を勝利させたのでした。

このことに落胆した平家軍は西へと逃げ、平家VS源氏の最終決戦・壇ノ浦の戦いへと続くことになります。

船漕いでる人を撃てばいいじゃん!壇ノ浦の戦いで最大の禁じ手!

西へ西へと逃げる平家を追って、いよいよ壇ノ浦までやってきた源氏軍。

壇ノ浦は現在の山口県と福岡県に挟まれた海峡で、潮の流れも速い海の難所です。

源氏軍は、もともと騎馬隊が中心の陸戦を得意としていました。

船を使った水軍も得意としていた平家軍には、劣勢を強(し)いられていたのです。

水上戦には船の操作技術の高さが、勝負を大きく左右します。

船を操縦している漕(こ)ぎ手、いわゆる船を漕いでいる人が重要だったのです。

源義経
源義経

だったら、船を漕いでる人を狙って矢を撃とうぜ!

漕ぎ手がいなくなった船は、ただ潮の流れのままにさまようはじめるのです。

ところが、この戦法は当時としては武士らしくない卑怯(ひきょう)な方法といわれていました。

戦場の暗黙のルールとして、漕ぎ手は殺さないことになっていたのです。

今までの常識を破った革命的戦術!と考えると、源義経は時代の革命児といえます。

ところが、平家軍には大迷惑なことです。

平家の武将
平家の武将

それはやらない約束じゃない!?

漕ぎ手を失った平家軍の船は、海上で迷走しだします。

さらに、壇ノ浦の潮の流れが変わり、平家軍の船は勝手に源氏軍へ近づいてくる状況になってしまいました。

近づいてくる船に、次から次へ飛び移り、平家方の武将を切り倒す源氏軍。

最後に源義経の前に立ちはだかったのは平清盛の甥で平家一の強者・平教経(たいらののりもり)でした。

屋島の戦いでは、源義経を死の一歩手前まで追い詰めた“義経ハンター”だったのです。

源義経
源義経

ヤベっ!あいつ、苦手なんだよね~

奇襲は得意でも真向勝負は苦手な源義経は、平教盛の攻撃をヒラリと交わすと、ピョンピョン船を飛びまわり、八艘先まで逃げたのです。

『八艘飛び』ってトリッキーな攻撃ではなくて、逃げる方法だったのですね。

逃げられたショックか、平教盛は海へ飛び込み死んでしまいます。

次々と平家軍は海は飛込み、こうして平家軍は滅亡したのでした。

悲劇のヒーローの最期!源義経、奥州に散る???

平家滅亡後の源義経は、京都では大人気、まさしくヒーロー扱いでした。

ときの天皇からは平家滅亡の褒美として、役職をもらったりしています。

みんなの注目をあびる源義経でしたが、一番振り向いてほしい兄・源頼朝からは、逆にお叱りを受けてしまいます。

源頼朝
源頼朝

俺より先に勝手に褒美をもらいやがって!

源頼朝
源頼朝

スゲー人気者になりやがって!兄をバカにしてるのか!

源頼朝
源頼朝

戦場でも勝手なことばかりしてたよな!

兄・源頼朝へのアピールのはずが、すべて逆効果となってしまったのです。

よく原因ははっきりとしませんが、源義経は、愛すべき兄・源頼朝より追われることになります。

流れ流れてたどり着いたのは、奥州藤原氏の元でした。

ところが、ここにもすでに兄・源頼朝の手はまわっていたのです。

藤原氏当主・藤原泰衡(ふじわらやすひら)に裏切られ、衣川の館で自害してしまうのです。

というのは、今まで語られてきた話です。

しかし、このあと源義経は生き残り、北海道からモンゴルへ渡り、チンギスハンになったという話があります。

もちろん、誰もが妄想だと思うでしょう。

でも、火のないところに煙は立たぬといいます。

源義経は死ぬ必要がなかったとしたら、どうでしょうか。

奥州への逃亡も作戦のうち!?源義経生存説もありえるワケ

源義経が兄・源頼朝に追われて、奥州藤原氏のところへ逃げたのには理由があります。

奥州藤原氏は、豊富な金を資金として東北地方に一大勢力をもっていました。

源義経は、兄・源頼朝が平家打倒の兵をあげるまでに、お世話になっていたところが奥州藤原氏だったのです。

当時の奥州藤原氏当主は、藤原秀衡(ふじわらひでひら)といい、奥州藤原氏の全盛期を築いた人物です。

平家を倒し、西側の脅威が無くなった源頼朝にとって残る脅威は、北の奥州藤原氏のみです。

しかし、何の理由もなく奥州藤原氏を攻めることもできません。

源義経
源義経

兄ちゃん!俺がおとりになるよ!

藤原秀衡は、源義経の能力を高く買っていました。

奥州藤原氏の跡継ぎは、源義経だというほどの惚れこみようでした。

京都から逃げてきたと源義経が藤原秀衡を頼れば、喜んで迎え入れてくれるでしょう。

どうせ二代目の藤原泰衡は、たいした能力もない人物です。

反逆者の源義経を差し出せば、奥州は残してやるとでも脅せば、話に乗るでしょう。

もし、その作戦が失敗したときには、源義経自身が奥州藤原氏を乗っ取ればいいのです。

どちらにしても、兄・源頼朝のお役に立てることは間違いありません。

さて、結果は狙ったとおり、藤原泰衡は源義経を自害に追い込みます。

おや?結局、源義経は死んでるよねと思ったかもしれませんね。

実は、源義経の首といわれるものは、焼けて真っ黒になってしまいました。

しかも、源頼朝のところへ届けられるまでは、夏の暑い中を1ヶ月もかけて運ばれたので、腐って顔の見分けもつきません。

つまり、源義経が本当に死んだのかどうかはわからないということなのです。

源頼朝の全国制覇のために、弟・源義経が考えた天才軍略家の最高の作戦だったとしたら、その後の源義経生存説もあり得るのではないでしょうか。

まとめ:崖下りも兄・頼朝へのアピール!?平安一のかまって男・源義経

源義経の行動の原動力は、すべて兄・源頼朝への愛ゆえだったのではないでしょうか。

兄・源頼朝が弟・源義経を良く思っていなかったといわれますが、必ずしもそうではありません。

事実、源義経が平家滅亡にすぐれた働きをしたとして、地方の役人の職を推薦しています。

さらに、弟・源義経のために兄・源頼朝の重臣の娘を嫁にさせています。

兄弟仲がとても良かったとまではいいませんが、源義経の愛はそれなりに届いていたのです。

奥州藤原氏を去った後の源義経の確かな足取りはわかりません。 戦場だけが自分の居場所と決めていたなら、チンギスカンになる生き方は、源義経らしいといえますね。

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