歴史大好き、くろーるです。
1221年(承久3年)におきた「承久(じょうきゅう)の乱」。
決起した後鳥羽上皇が敗れたことにより、“明治維新まで続く武家政権が決定づけられた”といわれます。
日本の歴史上、屈指のターニングポイントともいえる事件ですが、その影には女アリ!
傾国の美女・亀菊(かめぎく)による後鳥羽上皇へのおねだりが原因だったというのです。
男の安請け合いが、天下を揺るがす大事件に!?
鎌倉幕府存亡の危機だった「承久の乱」ってどんな事件?
平家を倒し、鎌倉を中心とした武家政治が始まった鎌倉時代。
しかし、まだまだ武家政権は不安定な状態が続いていました。
そんな中、鎌倉幕府の創立者・源頼朝が不慮の事故で死去。
さらに、二代目・頼家(よりいえ)、三代目・実朝(さねとも)が続けて暗殺され、源氏政権は揺らいでいたのです。
これを朝廷の実権を取り戻すチャンスと見たのが、第82代天皇であった御年41歳の後鳥羽(ごとば)上皇でした。
鎌倉幕府の執権であり実質的トップである北条義時(ほうじょう義とき)追討の命令を全国へ出し、幕府打倒の兵を挙げたのです。
天皇の命令はゼッタイ!!
全国から我も我も後鳥羽上皇軍に馳せ参じ、一気呵成に鎌倉幕府を殲滅・・・
と思いきや、そこに立ちはだかったのが、鎌倉幕府の裏ボスであり、故源頼朝の妻・北条政子(ほうじょうまさこ)でした。
鎌倉ママの浪花節よろしく名スピーチにより、むしろ東国武将は一致団結して京都へ進軍!
その数19万ともいわれる大軍勢となったのです。
これでは後鳥羽上皇軍に勝ち目はありません。
自分の命令には誰もが従うものと思っていた後鳥羽上皇は、想定外の事態に大慌て。
最期は家臣のせいにして、自分は鎌倉幕府軍へゴメンナサイしたのです。
この結果、鎌倉幕府の朝廷への影響も強まり、武家政権が確立することになります。
というのが、「承久の乱」の概要なのですが、その裏には男女の情事が絡んでいたのです。
それが後鳥羽上皇の一番のお気に入り、亀菊(かめぎく)という女性であります。
北条政子の名スピーチはコチラ→『悪女と呼ばないで!恋愛エピソードに見る北条政子は夫・頼朝に一途な女』
「後鳥羽上皇はこの世で最高のパパ!」傾国の美女・亀菊
後鳥羽上皇には、正妻の他にも数多くの愛妾(あいしょう)がいました。
ザックリいうと愛人です。
現代とは違い、天皇の地位を継ぐための男子を確保するためには、当時としては当たり前の習慣ではあります。
その愛妾の一人が亀菊でした。
下級役人の娘ではあったものの、父親は今ではすっかり落ちぶれていたと思われます。
というのも、亀菊が白拍子であったときに後鳥羽上皇と出会ったとされるからです。
白拍子(しらびょうし)・・・今様といわれる流行歌に合わせて踊るダンサーであり、好みであれば体の関係もあったため美しさも必須。平清盛の愛人として祇王(ぎおう)や仏御前(ほとけごぜん)、源義経の静御前(しずかごぜん)が有名。
ただ、後鳥羽上皇は、単なる女好き天皇ではありません。
天皇としては珍しく文武両道だったと伝わります。
武将並みに弓や刀を習う一方で、日本三大和歌集である『新古今和歌集』を編纂したことでも知られます。
筋骨隆々なインテリ天皇だったわけですから、さぞかしモテたでしょう。
たびたび催す舞踊の宴で後鳥羽上皇に見初められ、亀菊もまんざらでもなかったのかもしれませんね。
すっかり玉の輿の乗った亀菊には、後鳥羽上皇は魅力的なパパでもあります。
私、荘園が欲しい❤
そこでおねだりしたのが、摂津国江口周辺(現在の大阪市東淀川区あたり)の荘園、要は土地でした。
荘園というのは貴族や寺院の私有地で、そこから年貢を得ることができました。
今は落ちぶれた生活をしている亀菊の家族も、荘園があればリッチな生活を送れるわけです。
えーっ・・・この土地は亀菊のもの・・・っと
後鳥羽上皇の荘園のひとつを、ササッと権利証(だったかは知りませんが)を書いて渡したのです。
ところが、ここには鎌倉幕府から管理人として命じられたものがいました。
地頭(じとう)といわれる者です。
この地頭は荘園の周辺の者が任されているもので、荘園での年貢の一部が収入だったわけです。
亀菊から荘園の権利を得た父親は、この地頭も兼ねようとしたのか、亀菊にさらなるおねだりをさせます。
あの地頭って、いらなぁ~い❤
よしよし、地頭はクビにしてやるからなぁ。
ところが、この地頭は鎌倉幕府からの命令で無ければ聞けないと言い出したのです!
しょうがないなぁ~、面倒だけどルールだしな~
といったかどうかはわかりませんが、鎌倉の執権・北条義時に地頭解雇の指示を出したのです。
バカな!女のために地頭を解雇するなどありえん!
まだまだ武家政権が安定している時期ではありません。
そんな簡単に地頭の仕事を奪うようなことをしていては、鎌倉幕府の威厳に関わります。
後鳥羽上皇の要望を断固拒否。
ハァ~!?天皇のことナメてんのか!俺の女の前で恥かかせやがって!!
この一件で後鳥羽上皇の鎌倉幕府への不信感が募り、2年後の承久の乱へと発展していったのです。
高級車や高級時計・高層マンションなどを男性が好むのは、すべてモテるためだといいます。
男のプライドを傷つけられた後鳥羽上皇は、2年もの間、メラメラと仕返しの機会を狙っていたのかもしれません。
隠岐の島のスローライフが亀菊を真の愛に目覚めさせた!?
承久の乱で敗れた後鳥羽上皇は、首謀者として罪に問われ、隠岐の島へ島流しの刑となりました。
現在の島根県の沖にある島です。
都合の良いパパだった後鳥羽上皇も追放されれば“ただの人”。
用済みとばかりに見捨ててしまうのかというと、亀菊は隠岐の島へ後鳥羽上皇に一緒に付いていったのです。
ここはちょっと驚きの行動ですね。
その後、19年もの間の隠岐の島での田舎暮らしののち、京の都へ戻ることなく60歳で亡くなった後鳥羽上皇。
自分を僻地へ追いやった北条氏を恨み、怨霊になったとの伝承もありますが、後鳥羽上皇は隠岐の島でのスローライフを楽しんでいたようです。
お得意の和歌を詠むばかりでなく、わざわざ刀匠を呼び寄せて、刀づくりに精を出していた様子。
通常は誰が刀を打ったかを銘として入れますが、後鳥羽上皇は銘の無い刀を打ち、代わりに菊の紋章を入れたのだとか。
芸術家肌の人柄が見て取れます。
隠岐では「ごとばさん」と島の人からも慕われたと伝わりますので、気さくに交流をしていたのでしょう。
そんな自然体の後鳥羽上皇を、パパとしてではなく一人の男として惚れ直したのか、亀菊は最後まで寄り添い続けたのです。
月影を さこそ明石の浦なれど 雲井の秋ぞ なほも恋しき
『列女百人一首』亀菊が詠んだされる和歌です。
隠岐に流される際に、明石の浦に停泊したときに、京の都を想って詠んだというのですから、かなり未練タラタラの和歌ですよね。
自分の見る目の無さか男運を呪ったか、亀菊の心は荒れていたかもしれません。
しかし、後鳥羽上皇と18年間隠岐で過ごし、その死後、灰となった亡骸を抱えて隠岐から京へと戻ったのも亀菊でした。
後鳥羽上皇との本当の愛を、隠岐の暮らしで亀菊は見つけたのかもしれませんね。
後鳥羽上皇は最高のパパ!承久の乱の本当の原因は愛妾・亀菊のおねだり まとめ
亀菊がその後、どのように過ごしたかはわかりません。
後鳥羽上皇の菩提を弔い、一生を終えたと思いたいものです。
自分の軽はずみなお願いが、天下の大乱を招くとは思いもしなかったのかもしれません。
隠岐での穏やかな後鳥羽上皇の暮らしを考えると、傾国の悪女というよりは、純粋無垢な少女の健気なお願いだったのかもと思わされます。
以後、天皇に政治の実権が戻ることは無かったとなると、罪作りなオ・ン・ナだったわけですが・・・
(参考資料)
男と女の恋する日本史講談/著者:神田蘭/辰巳出版
後鳥羽院のすべて/編者:鈴木彰・樋口州男/新人物往来社
承久の乱 日本史のターニングポイント/著者:本郷和人/文春新書