わしが一身にかけて引受しもす。
西郷隆盛(さいごうたかもり)のこの一言で、江戸の町は救われ、徳川十五代将軍慶喜(よしのぶ)も助かったのです。
歴史大好き、くろーるです。
勝海舟(かつかいしゅう)と西郷隆盛という徳川幕府・新政府のリーダー会談で決まった江戸無血開城。
互いの腹を割った話し合いで、それまでの方針を覆したとされる美談といわれています。
しかし、その裏では、勝海舟と西郷隆盛がいくつもの謀略を仕掛けていたのです。
江戸無血開城の真の勝者は誰だったのでしょうか??
江戸無血開城とは
1868年(慶応4年)3月14日に、明治新政府を代表した西郷隆盛と、徳川幕府を代表した勝海舟が会談を行ないました。
なぜなら、翌日の3月15日には明治新政府軍は″江戸城総攻撃”を決定していたからです。
勝海舟は、なんとか江戸城総攻撃をくい止めようと西郷隆盛に直接会談を申し込みます。
どうか公平な朝廷のお裁きを
いろいろ難しい議論もございましょうが、私が一身にかけてお引き受けします。
西郷隆盛と勝海舟の会談は、互いに腹を割って話し合い、相手の本当の考えを知り合う機会となりました。
二人が互いを信頼しあうことで江戸城総攻撃は中止され、江戸無血開城が決まったといわれます。
西郷隆盛も勝海舟も、日本を思って行動したことには違いありません。
ただ、その裏で行われた駆け引きは、決して美談で終わるものではなかったのです。
江戸攻めの口実づくりのために徳川幕府を挑発
1867年(慶応3年)10月14日。
徳川家の滅亡を阻止するために、徳川慶喜が決断した大政奉還(たいせいほうかん)は、討幕派には想定外の出来事でした。
徳川幕府を引きずり下ろす!!
この想定の元で倒幕に動いていた西郷隆盛たちにとっては、天皇へトップを譲るといわれては、徳川幕府を倒す理由が失われるのです。
そこで、西郷隆盛は岩倉具視(いわくらともみ)・大久保利通(おおくぼとしみち)と相談し、部下にある指示をします。
・薩摩・長州の藩士に対し、天皇からの討幕指令を偽造する
・チンピラを集めて、江戸や関東各地で強盗・放火・辻斬りをさせる
・江戸城や薩摩藩邸に放火をさせる
江戸の町が、すでに徳川幕府に統治ができていないことを広める目的がありました。
同時に、徳川幕府側には、この一連の事件が討幕派の陰謀であることを、わざと知らせたのです。
討幕派の挑発に乗るな!
勝海舟が止めるのも聞かずに、徳川幕府の幕臣たちは薩摩・長州を攻めると言い出します。
これが、戊辰戦争の始まりへとなるのです。
一度はつまづいた江戸攻めも西郷隆盛たちの仕掛けで息を吹き返し、新政府軍は江戸に向かって進軍を始めます。
新政府軍を迎え撃つ勝海舟の秘策『江戸焦土作戦』
徳川幕府軍は奮闘もむなしく、各地で新政府軍に連敗を続けます。
徳川家の存亡をかけて、勝海舟は新政府軍との頭脳戦を繰り広げていました。
新政府軍の江戸攻めは、すでに決定済の軍事作戦でした。
勝海舟は江戸攻めを避ける方法を探しつつも、一方で、対抗策も考えていたのです。
みんなで江戸の町に火をつけてまわってくれい!
勝海舟の考えた新政府軍への対抗策は、『江戸焦土作戦』
江戸の火消しの組頭・新門辰五郎(しんもんのたつごろう)の協力を得て、火消・鳶・博徒・魚市場の頭領といった江戸の町を知り尽くした町民をゲリラ部隊に使う作戦です。
新政府軍が江戸の町へ来たときには、勝海舟の指令とともに、町民ゲリラがあちこちに一斉に放火して、新政府軍の進撃を阻止するというものでした。
ヘェー、火消が火をつけるんですかい。こりゃ、おもしれぇや。
火消の組頭だった新門辰五郎は、この作戦を聞いて面白がったといいます。
江戸の町民たちにどれほどの被害が出るかもわからない『江戸焦土作戦』です。
勝海舟は漁師や船元に協力をえて、隅田川の河口に多くの船を集め、町人を避難させる手筈も整えます。
そして、もし徳川慶喜の命が危なくなったときには、日本を脱出させ、イギリスに亡命させるため、イギリス艦アイアン・デューク号も用意していました。
新政府軍を迎え撃つ勝海舟の策は、これだけではありませんでした。
イギリス公使パークスを脅して西郷隆盛を説得させる
徳川幕府軍対新政府軍の対立に大きな関心を寄せていた勢力がもうひとつありました。
外国勢力です。
徳川幕府軍にはフランスが、新政府軍にはイギリスが、それぞれ協力していました。
そうはいっても、フランスもイギリスも考えていることは同じです。
日本の内乱後の主導権を握ることなのですから。
フランス・イギリスが、徳川幕府軍・新政府軍についているといっても、同じ外国勢どうしという協力関係もあります。
そこで勝海舟は、フランス公使ロッシュを通して、イギリス公使パークスから新政府軍を説得するように協力を依頼します。
徳川慶喜公は、すでに無抵抗の状態。これを攻撃する新政府は間違っている!
それだけでは、簡単には動かないパークスに対して『江戸焦土作戦』を伝えます。
江戸が焼野原になったら、横浜での貿易もできなくなりますぜ。
脅しにも近い話ですね。
横浜を中心に商売をしていたイギリスにとって、大消費地の江戸を失うのは大きな損失でした。
そして、この効果は新政府軍の指揮をとっていた西郷隆盛に向けられます。
イギリス公使パークスは、それまで協力していた新政府軍に対し、
「万国公法では、無抵抗のものを攻撃することを禁止している。もし、江戸を攻撃することがあれば、われわれイギリス・フランス両国は、新政府軍を攻撃することになる。」
これを聞いた西郷隆盛は、顔を青ざめさせ、江戸攻撃を考え直さざるをえなくなったのです。
圧力に屈した西郷!してやったりの勝!謀略だらけの江戸無血開城 まとめ
こうして1868年(慶応4年)3月14日、徳川幕府軍・勝海舟と新政府軍・西郷隆盛との会談がもたれました。
結果は、江戸城の無血開城となりました。
さらに、徳川慶喜も隠居となり、責任をとって殺されることはなかったのです。
勝海舟・西郷隆盛ともに、相手との駆け引きをしてきたものの、二人の共通した思いは一致していたといいます。
二人の考えていたことは、″外国勢力の影響を受けないこと”
もし、江戸を戦火に巻きこめば、日本中が内戦状態になることは明らかでした。
収集のつかなくなった国内を治めるために、イギリスもしくはフランスの力を借りることがあれば、そのあと外国勢力のいいなりになるしかないのです。
すでに植民地化されていたアジア各国と同じ道をたどることはわかっていました。
立場は違えども、その点に関してだけは同じ考えをもった人物が、両軍のリーダーだったことは日本にとって幸運だったといえますよね。
江戸無血開城の緊迫した交渉を漫画で!『兵馬の旗』
戊辰戦争を描いたかわぐちかいじ先生の漫画『兵馬の旗』には、江戸無血開城の場面も出てきます。
山岡鉄舟と西郷隆盛の会談、そして、勝海舟との緊迫交渉と江戸を戦場にしたときのエピソードも出てきます。
登場人物が架空の人物のため、アイデアの発案者は勝海舟ではなくなってますが、戊辰戦争を正面から学ぶには最適な漫画です。