感染症による熱病か?それとも崇徳院の怨念?死因不明の平清盛の最期

日本史(平安・鎌倉時代)

『因果応報(いんがおうほう)』

悪いことをしたものは、その悪い行いと同じだけの報いを受けることが当然なのでしょう。

歴史大好き、くろーるです。

平清盛
平清盛

平家にあらずんば人にあらず

平家絶対の時代を一代で築いた平清盛(たいらのきよもり)は、日本史史上で悪人としての評価をされてきました。

悪人・平清盛は、その悪人らしい最期を迎える必要があったのです。

異様ともいえる悶え苦しむ壮絶な最期であった平清盛の本当の死因はよくわかっていません。

平清盛の謎の死因について、いくつかの説をご紹介します!!

武家の世のパイオニアで平家の頭領・平清盛

平清盛日招き像

平安時代末期の1118年(永久6年)に生まれた平清盛。

北面武士として天皇の警護にあたっていた武将のひとりに過ぎません。

しかし、平家と源氏が勢力を伸ばすなか、平家一門をまとめあげて大きな勢力としていきます。

いくつかの戦乱を勝ち続け、天皇家との親戚関係も築き上げると、ナンバー2となる太政大臣の地位につきます。

武家の力無くしては、政治をすることができなくなった天皇に代わり、実質的な権限を手に入れます。

ところが、平家絶頂の1181年(治承5年)に平清盛は63歳で急死したのです。

その後の平家の没落は、『平家物語』にあるように

おごれるものは久しからず

源頼朝(みなもとのよりとも)の挙兵によって西日本を転戦の末、壇ノ浦の合戦(だんのうらのかっせん)で滅亡してしまいます。

その後、源頼朝は鎌倉幕府を開き、武士の世を創りますが、その基礎を築いたのは平清盛に他なりません。

また、世界遺産に登録されている厳島神社や、京都の三十三間堂を建立したことでも知られ、大変信仰心の厚い人物でもありました。

しかし、悪人として後世の評価を受けた平清盛の最期は、悲惨なものだったのです。

壇ノ浦の合戦のヒーローは寂しがり屋!?→『崖下りも兄・頼朝へのアピール!?平安一のかまって男・源義経』

″あつち死″した『平家物語』に書かれた平清盛の最期

平清盛の壮絶な最期は、『平家物語』にはこのように書かれています。

病気を発症してからの入道(平清盛のこと)殿は、水も喉を通らず、体中が火が燃えるな様子でした。

病床のまわり三、四間(約5~7m)に入ったものは、その暑さに耐えられず近づくこともできなかったのです。

入道殿は「あた、あた(熱い、熱い)」というばかり。

比叡山千手院の冷水を運んできて舟形の石に溜め、入道殿に入ってもらい体を冷やすものの、冷水はすぐに沸騰し、湧きこぼれてしまいます。

もだえ苦しむこと7日ののちに、ついに入道殿は″あつち死″によって死んでしまいました。

(「平家物語」要約)

人が近寄れぬほど体から熱を発し、水さえも沸騰させてしまうというのです。

まるで、『るろうに剣心』の志々雄真実(ししおまこと)を思い出させるような凄まじい描写です。

″あつち死″は、「あつちじに」と読むようで、簡単にいうと熱死のようですが、燃えたわけでもないので、平清盛最後の壮絶さを表現する言葉なのだろうと思います。

発病から死期に至るまでの早さと異常なまでの体からの放熱は、平清盛の死因についていろいろな説が出てきた原因になっています。

【死因その1】高熱を発する日本古来の感染症「マラリア3日熱説」

吉川英治『新・平家物語』や森村誠一『平家物語』においての平清盛の死因は「マラリア」とされています。

ハマダラ蚊を媒介して感染する感染症であるマラリアは、古くから日本でも感染者が多かった病気です。

瘧(おこり)といわれた疫病としてたびたび文献にも登場し、『源氏物語』の光源氏も感染したとされていますので、よく知られた病気だったのでしょう。

高熱が出ることが症状のひとつですので、平清盛が感染したことは十分に考えられます。

ただ、マラリア説にはいくつかの疑問点が残ります。

ひとつは、発症時期です。

平清盛が亡くなった時期は旧暦の春にあたります。

マラリアの媒介者であるハマダラ蚊が活動する時期は夏であることを考えると、時期的にはまだ早いと思われるからです。

もうひとつは、死に至るまでの描写が異様過ぎる点です。

『源氏物語』にも登場するほど、マラリアはごくありふれたものだったはず。

似たような症状の患者は見たことがあるものが多かったでしょう。

そうであれば、平清盛の死にざまは珍しいものではなかったはずです。

ここまで壮絶な最期を演出することは、ウソっぽく聞こえはしなかったのでしょうか。

【死因その2】日本土着の感染症による脳障害「日本脳炎」

同じように突然の高熱を発する病気であり平清盛の死因と考えられているものに「脳障害」があります。

例えば、日本脳炎はマラリアと同じように蚊を媒介者として感染するものです。

ただ、日本脳炎を疑う場合には、マラリア同様に発症時期の問題が残ります。

蚊が活発に活動する夏ではないからです。

また、脳の障害のときには意識障害や麻痺などがおこります。

「あた、あた」しかわからないというところは言語障害とも推測できますが、手足のしびれといった記述はありません。

激しい頭痛があったことは、同時期の公卿・九条兼実(くじょうかねざね)の日記『玉葉(ぎょくよう)』に書かれているため、脳に影響のある症状があったとも考えられます。

しかし、普通の風邪であっても頭痛はありますので、決定的な証拠とはいえないでしょう。

【死因その3】人食いバクテリアによる多臓器不全「電撃性猩紅熱」

平清盛の死因の中でもっとも有力とされているのが「電撃性猩紅熱(でんげきせいしょうこうねつ)」です。

溶連菌という菌が体内入り込むことで発症する感染症で、潜伏期間が2日~5日と短く、39度~40度の高熱を発します。

全身に紅い斑ができることも症状のひとつですので、体が燃えているように見えるかもしれません。

また、最近の医学においては、この猩紅熱は「A郡溶血性レンサ球菌口頭炎」と診断されるそうで、いわゆる″人食いバクテリア″といわれるものです。

全身の細胞の壊死が急速におこり、多臓器不全などを起こして死に至ります。

細胞組織が破壊され筋肉の急速な衰えもあるでしょうから、水を飲み込む力がなくなったり、臓器破壊により悶え苦しむ症状も出るでしょう。

発症からの闘病期間は1週間ほどだったといわれる、短期間に病状が悪化する点でも一致します。

ただ、溶連菌は子供が発症することの多い感染症です。

現在は抗生物質により重篤化することは少ないものの、幼稚園や小学校で感染するケースが多いことを考えると、すでに60歳を越えていた平清盛が感染して発症したことに疑問が残りますね。

感染症による熱病か?それとも崇徳院の怨念?死因不明の平清盛の最期 まとめ

平清盛の死因については、現在のところは「人食いバクテリア説」がもっとも有力なことには変わりありません。

その一方で、平清盛が何かに呪い殺されたことも考えらます。

恨みを買うだけのことは十分しているからです。

例えば、保元の乱で崇徳天皇を裏切ったこともありますし、南都征伐によって奈良の寺社を焼き払ったりということが挙げられます。

ここまで医学的な面から話してきておきながら、怨霊による呪い殺しという非科学的な根拠を持ち出すのもどうかと思います。

しかし、このブログ自体が非科学的なことにスポットをあてていますので、「呪い殺された平清盛説」も書いておきたいところです。

ただ、平清盛は実は人格者であったといわれます。

『平家物語』における″おごれるものは久しからず″は、結果論から見た後世の評価に過ぎません。

敵であったものの子孫を殺すことが当たり前だった時代に、子供だった源頼朝を逃がしたことも、そのひとつといえます。

それだけの大きな器でなければ、武家の時代を開くような政治家にはなれないというのも納得できるのではないでしょうか。

熱病に冒された平清盛は最期に何を思うのか?漫画『ジパング深蒼海流』

【あらすじ】

保元の乱で敗れ源氏一門が衰退する中、平清盛によって命を長らえた源頼朝(みなもとのよりとも)。栄華を誇る平家一門にも、いよいよ衰退のときが迫る第10巻。新解釈で描く『平家物語』!

『沈黙の艦隊』『ジパング』『空母いずも』など、戦争と政治を描いたシュミレーション漫画で知られるかわぐちかいじ先生の歴史スペクタクル。

平清盛の娘・徳子と源氏のヒーロー・源義経が恋仲だったという逸話をひとつの軸に、平家と源氏の興亡が描かれます。

この第10巻では、この世の春を謳歌し続けた平家に影を落とす、「平清盛異変」の巻となっています。

そして、この後巻からは源平合戦へと雪崩れ込むのです。

平安末期から鎌倉初期を『 ジパング 深蒼海流 』を読破して学ぶことをオススメします!

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