「悪女っていうのは素直な女のことなんだ」
そう教えてくれたのは、中島みゆきでした。
歴史大好き、くろーるです。
栄華を誇った平家一門を倒し、武家の世を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)。
その妻・北条政子(ほうじょうまさこ)は、「日本三大悪女」ともいわれています。
“尼将軍”の異名で呼ばれ、鎌倉初期の政治を影で操った女政治家というイメージでしょうか。
そんな北条政子の本来の姿は、占いを信じ、好きな男に一筋な純粋な乙女だったのです。
“悪女”を一新した、鎌倉時代の“淑女”北条政子をお見せしましょう。
もう悪女なんて呼ばせない!
「尼将軍」と呼ばれた鎌倉時代の女性政治家・北条政子とは?
平安時代の末期、伊豆国(現在の静岡県東部)の豪族・北条時政(ほうじょうときまさ)の長女として生まれた北条政子。
北条時政には多くの子供がいましたが、その中でももっとも美しいといわれていました。
のちの鎌倉幕府将軍・源頼朝の妻であることは知られています。
その源頼朝でさえ、北条政子が美しすぎるがゆえに身分不相応と思い、次女宛に恋文を書いたといわれます。
源頼朝が急死したことや息子たちの不幸が重なり、北条政子は政治の表舞台へと現れることになります。
弟である執権・北条義時(ほうじょうよしとき)を支え、承久の乱での名演説により、鎌倉幕府が続くことになったのです。
妻の立場でありながら、源頼朝と同等の権限を与えられていたともされ、その非情ともいえるやり方から「日本三大悪女」に名を連ねています。
しかし、北条政子の行動はすべて夫である源頼朝への一途な愛からされているものなのです。
運命の出会い!北条政子と源頼朝を結ばせた「夢買い」
北条政子にとって、源頼朝は特別な存在でした。
なぜなら、夢のお告げによって出会った“運命の人”だったからです。
ある夜、北条政子の妹・時子が不思議な夢を見た。
険しい山道を登ると着物の袂に太陽と月が入っている。
そして、頭の上には3つの橘の実がついた枝が置いてあった。
夢が告げた意味は、なんであろう?
目覚めた時子は、その不思議な夢の話を姉の政子に話してみた。
それは不吉な夢に違いありません。不吉な夢は、誰かに夢を売ると災いを避けられると聞きます。私がその夢を買いましょう。
こうして、政子は時子の欲しがっていた鏡と衣と引き換えに、夢を買うことにした。
その夜、政子は白いハトが金の箱をくわえてやってくる夢を見た。
翌朝、政子のもとに源頼朝からの恋文が届いたのだ。
『平家物語』とともに、この時代を知る資料価値も高い『曾我物語』に書かれた「夢買い」話。
北条政子は、妹・時子の見た夢が“吉夢”だと知って、交換話を持ち掛けたとされています。
「若いころから駆け引きに長けていた」という“北条政子悪女説”のひとつですが、夢を信じてトキめく乙女心に溢れていますよね。
駆け落ち、そして、愛しい人のために・・・北条政子の女性力
北条政子がどれほど源頼朝にゾッコンであったかというと、駆け落ちするほどの慕いぶりだったのです。
北条政子が源頼朝を慕っていることを知った父・北条時政は、このことに反対だった。
それもそのはず。
源頼朝は、時の権力者・平清盛(たいらのきよもり)と争い殺された源義朝(みなもとのよしとも)の息子であり、今は罪人としてこの伊豆に流されていたのだから。
北条家の将来のためにも、平清盛に対することなどできない。
そこで、同郷の豪族・伊東家に北条政子を嫁がせることにしたのだ。
婚姻を断れば北条家と伊東家にも亀裂が生まれることを心配した北条政子は、いわれたとおり伊東家へ嫁ぐと返事をした。
その婚礼の夜。
祝いの席で盛り上がる両家の警戒が解けたころを見計らって、政子は伊東家から裸足で逃走。
源頼朝の元へと駆け落ちしたのである。
この話には、さらに北条政子らしい続きがあります。
父・北条時政にとって、北条家一の美貌ともいわれた政子は、かけがいのない娘でした。
源頼朝の元から帰ってくるよう使者を出しても、返事もない。
いよいよ父・時政は、源頼朝との仲を認めるから戻ってこいと根負けをした。
ところが、政子の返答は、さらに厳しいものだった。
父上が頼朝様の源氏再興にお味方するというなら、政子も戻りましょう。これは北条家の家運を上げる機会でもあるからです!
こうして、北条家は源頼朝に加勢することになった。
このときは、平清盛が権力を握っており、平家一門が絶頂期だった頃のことです。
源頼朝が将軍となり武家政権を打ち建てるのは、まだまだ先のこと。
娘可愛さに一介の罪人に味方する北条時政にとっては、ハイリスクな掛けだったはずです。
それを知っていながら、想い人・源頼朝の願いを叶えるため、自分の身を引き換えに父に迫る北条政子。
なんて健気な女性なのでしょうか・・・
平清盛の死因の謎→『感染症による熱病か?それとも崇徳院の怨念?死因不明の平清盛の最期』
夫・頼朝の敵であろうとも「女の道」は貫く北条政子の恋愛観
北条政子と源頼朝がどのような恋愛をしていたかは、それほど多く書かれているわけではありません。
しかし、源頼朝の死後、尼将軍として鎌倉幕府を支えた北条政子でしたので、当然多くの記録が残っているわけです。
北条政子のことを残そうと思うほどに、その生い立ちを書かざるをえません。
そこに、「北条政子の恋愛観」を垣間見ることができるのです。
源頼朝は、同じ源氏である源義仲(みなもとよしなか)との共闘を考えていたため、娘の大姫を義仲の息子・義高(よしたか)と婚約をさせた。
しかし、情勢が頼朝に有利となったため、義仲が邪魔になり討つことになった。
大姫は、義高のことを兄のように慕っていたため、その気持ちを知った北条政子は、密かに義高を逃がそうとした。
義高に女装をさせ、まわりを自分に仕える女性たちに囲ませ、馬の蹄にはかぶせモノをして音がしないようにして逃がした。
ところが、運悪く義高は捕まってしまい、殺されてしまったのだ。
どうして殺したのですか!大姫が悲しんでいるではありませんか!
怒りと悲しみで猛抗議する政子に困り果てた頼朝は、義高を斬った家臣に責任をとらせることになった。
政治的な婚約であったといえども、一途な娘の気持ちを大事に叶えようとしたことがわかります。
もうひとつ、異母兄弟であり壇ノ浦合戦のヒーロー・源義経を愛した静御前(しずかごぜん)にも、北条政子は女としての想いを見ています。
源義経を愛した静御前は、京の都一の踊り手といわれていた。
兄・源頼朝と対立して追われ、今は行方知れずの源義経を慕いながら、静御前は鎌倉で捕らえられていた。
京の都一の舞が見た
源頼朝に命じられ、嫌がりながらも渋々踊ることとなった。
吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
追われる身となった義経を想っての歌に合わせて、静御前は舞ったのである。
俺の前で罪人を慕って歌い踊るとは!なんて無礼な!
怒り心頭になって叫ぶ源頼朝に対して、北条政子はこういった。
私が父によって、あなたとの仲を裂かれようとしたとき、あなたの元へ走っていった私のことを忘れたわけではないでしょう。女が男を慕うというのは、こうゆうことなのですよ。
頼朝は政子の言葉に、いい返すことができなかった。
源義高を慕った娘・大姫。
源義経を想い続けた静御前。
どちらも北条政子にとっては、女として筋を通す強い愛を感じたのではないでしょうか。
それが、自分の夫と対立する相手であったとしても、女として美しい心を大切にしたかったのでしょう。
源義経はアピール男!?→『崖下りも兄・頼朝へのアピール!?平安一のかまって男・源義経』
一途な愛は狂気を呼ぶ!浮気相手への償いは住まいの破壊
源氏再興を叶えるために源頼朝を支え続ける北条政子。
夫婦仲もさぞ良いことと思いきや、夫・源頼朝は、根っからの浮気者だったというから大変です。
北条政子と出会う前にも、子供をつくった女性もいました。
源頼朝の父・義朝も、京の都千人の中から選ばれた美女・常盤御前(ときわごぜん)を愛人にしていたほどのプレイボーイ。
血は争えないものなのでしょう。
源頼朝の浮気事件は、北条政子の妊娠中に発覚します。
亀の前と呼ばれた愛人が源頼朝にはいて、密かにかくまわれていたのです。
このことを知った北条政子は、亀の前をかくまっていた御家人・伏見広綱宅を破壊してしまいます。
これは「後妻打ち」と呼ばれて、正妻に認められた行為だったので珍しいことではなかったそうです。
それでも、襲われた亀の前は、北条政子を恐れたそうですが、このあとも源頼朝は亀の前のところへ通ったというのですから、懲りないものですね。
その後も御家人の娘に手を出して北条政子にまたまた怒られるなど、源頼朝の浮気性は続いたようです。
夫・頼朝への一途な愛が家臣の心を動かした「承久の乱」の名演説
念願であった平家打倒を果たし、源頼朝は将軍となって鎌倉幕府を開きます。
しかし、その栄華も長くは続きません。
源頼朝は落馬による事故により急死、そのあとを継いだ息子・頼家(よりいえ)も病死し、弟・実朝(さねとも)は暗殺されてしまいます。
北条政子にとっては、夫、そして息子たちを次々と亡くし、悲しみに打ちひしがれる思いだったでしょう。
源氏の将軍は三代で絶えてしまい、そのあとは源氏の血を引くものを京都から招き、将軍の地位につけます。
そして、実質的な権限は北条家が引き継いでいったのです。
その中心となったのが、北条政子の弟・北条義時(ほうじょうよしとき)でした。
しかし、北条義時だけでは、源氏由来のものたちはまとめていけません。
北条政子は、初代将軍の源頼朝の代理人として、北条義時を支えることで鎌倉幕府を維持したのでした。
ここに“尼将軍・北条政子”が誕生します。
ただ、この鎌倉幕府の不安定な状態を機会に武家政権を倒そうとしたのが後鳥羽(ごとば)上皇でした。
1221年(承久3年)に起きた承久の乱(じょうきゅうのらん)です。
全国に送られた後鳥羽上皇名の北条義時の追討命令に、鎌倉幕府の御家人たちの間にも動揺が走りました。
鎌倉幕府、絶体絶命の危機でした。
みなのもの聞くがよい!これが最後の言葉となりましょう!
北条政子の夫・源頼朝への愛が語らせた名演説はこのように始まったのです。
「亡き頼朝殿が多くの敵どもを討ち、この鎌倉幕府を創ってからというもの、地位も給与も良くなったことは知っているでしょう。
この頼朝殿のご恩は、山よりも高く、暗い海より深い。
武士として暮らす以前はどうであったか覚えていますか?
三年も京の都で勤めても、帰りは裸足で帰らされる屈辱を味わったのではなかったのですか。
それを変えたのは頼朝殿ですぞ!
その御恩をけっして忘れてはなりません。
みなは頼朝殿の墓を京の都のものたちに踏みつけにされてもいいのですか!?
少しでも自分が弓矢で身を立ててきたと思うなら、今こそ東国武士の誇りを見せてみなさい!
それでも、上皇様に正義があるというならば、はっきりそう申して上皇様に味方するがよい!」
この演説で東国武士の心はひとつになりました。
京へ向かう鎌倉幕府軍には、ぞくぞくと各地の武士たちが合流したのです。
上皇の命令に背くことなど無いと思っていた後鳥羽上皇方は、あっけなく敗北し、ここに武家政権が確立することになりました。
武士の世を開いたのは男の誇りでしたが、武士の世を育てたのは一途な女の愛だったのです。
承久の乱の原因はパパ活?→『後鳥羽上皇は最高のパパ!承久の乱の本当の原因は愛妾・亀菊のおねだり』
悪女と呼ばないで!恋愛エピソードに見る北条政子は夫・頼朝に一途な女 まとめ
この時代を知る資料としては、『平家物語』『吾妻鏡』『曽我物語』などいくつかあります。
北条政子をどうにか“悪い女だったのだ”と書くことで、執権・北条家政治を否定しようとしたかったのでしょうが、そこは愛が勝ったといえます。
隠しきれない北条政子の夫・源頼朝への想いを、否定しきることができなかったのです。
平安時代までの男女関係は、よく言えば自由、悪くすれば節操がないともいえます。
男女の関係は支え合うものという考えをもたらしたのは、北条政子だったのではないでしょうか。
源頼朝と北条政子の夫婦愛はこの漫画で!『ジパング深蒼海流』
北条政子の願いは、殺し合いのない平和な世界だった!
夫・頼朝に託した想いと平和を実現することの難しさに悩む北条政子を描きます。
『平家物語』の世界と美しい北条政子を、漫画で追体験してください。
(参考資料)
幕府を背負った尼御台 北条政子/著者:田端泰子/人文書院
北条政子 女の決断/著者:松尾美恵子/業文社
人物史の手法 歴史の見え方が変わる/著者:五味文彦/左右社