元を正せば、経歴には一癖も二癖もある集団だった新撰組。
その中にあって、正統な兵法を学んだ人物が入隊します!
歴史大好き!くろーるです。
正式に新撰組と名乗り始めるころに入隊し、五番隊隊長となった武田観柳斎(たけだかんりゅうさい)です。
武田信玄を源流とする甲州流軍学を身につけて、近藤勇(こんどういさみ)からも信頼のあった人物とみられます。
池田屋事件での活躍もあったほどの腕の持ち主ながら、倒幕派との関係を疑われ隊内粛清をされてしまいます。
そのきっかけをつくったのは、武田観柳斎の“男好き”が災いしたようなのです。
ボーイズラブの果てに最期を迎えた新撰組五番隊隊長・武田観柳斎をご紹介します!!
甲州軍学者の“先生”と尊敬された近藤勇のブレーン
出雲国(現在の島根県)の出身とされる武田観柳斎。
新撰組に入るまでの経緯はあまりわかっていませんが、江戸でも近藤勇と知り合っていたとされる資料が残されています。
武田観柳斎が新撰組の正式な隊士であると認められるのは、前身となる壬生浪士組から新撰組と名乗る頃のようです。
新撰組の生き残りで二番隊隊長・永倉新八(ながくらしんはち)が書いた『新撰組顛末記』に武田観柳斎が登場するのもこの時期です。
甲州流軍学を学んでいる武田観柳斎は、近藤勇のブレーンとして新撰組内の重要幹部となっていきます。
武田信玄の甲州軍学の先生だ!
また、新撰組隊内でも“先生”として尊敬を集めていたようです。
他の隊士たちからの先生人気は、武田観柳斎の態度を高慢にさせたといいます。
目下のものを見下げるような言い方や態度が目立っていました。
漫画アニメ「るろうに剣心」に登場する悪徳武器商人の武田観柳は、武田観柳斎をモデルにしています。
武田観柳の尊大な態度は、新撰組内での武田観柳斎のエピソードによるのでしょう。
この横柄な態度が、のちのち武田観柳斎人気に陰りをもたらすことになります。
少数精鋭でつくられた近藤勇隊として池田屋事件に参加
態度のデカさと性格の悪さにクローズアップされがちな武田観柳斎ですが、しっかりとした実績も残しています。
新撰組を一躍世に知らしめた「池田屋事件」では、武田観柳斎の名が残された多くの記録があります。
尊王攘夷志士の協力者・古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)の捕縛にも、武田観柳斎は同行しています。
池田屋事件の当日も、少数精鋭で組織された近藤勇隊に選ばれ外回り警備を任され、逃げる尊王攘夷志士を捕まえたり、殺害したりといった役目をしています。
池田屋事件では、想定外の沖田総司(おきたそうじ)の脱落などもあり、少数精鋭の近藤勇隊は苦戦をしています。
武田先生のおかげで助かりました!
外回り警備であった武田観柳斎も池田屋に乗り込み、1名を斬り倒す記録も残されているのです。
その後も、武田観柳斎の新撰組内での重要性は高く、よく近藤勇に同行していたことが複数の記録からわかっています。
伊東甲子太郎の入隊・新撰組の西洋化に居場所を失う
近藤勇のブレーンであり、新撰組隊士からも尊敬をされていた武田観柳斎人気にも陰りが見えだします。
知識もあり、人柄も良かった伊東甲子太郎(いとうかしたろう)の入隊により、新撰組隊内の風向きが変わったのです。
それまでの尊大な態度がたたって、隊士からの人気が急激に下がり、近藤勇のブレーンとしての地位も伊東甲子太郎に取って変わられます。
さらに、1867年(慶応3年)にあった第二次長州征伐では、西洋式の軍隊で挑んだ長州軍になすすべもなく徳川幕府軍は敗北します。
このことをきっかけに新撰組内でも軍隊の西洋式化が急速に進むことになります。
武田先生の戦法は、もう古いですな。
武田観柳斎の身につけた甲州軍学は、すでに旧式の戦術となり、必要性がなくなってしまったのです。
それと同時に武田観柳斎の存在も、重要度が失われていくことになりました。
新撰組の中に必要性を失くした武田観柳斎は、新撰組を脱走します。
そして、次に近づいたのは倒幕派の中心になっていた薩摩藩でした。
武田先生が薩摩藩に出入りしておりますよ。
運の悪いことに薩摩藩に出入りしているところを、新撰組隊士・馬越三郎(まごしさぶろう)に見られてしまいます。
脱走だけでも新撰組規則の違反により切腹になるところを、こともあろうに敵対する薩摩藩に関係するとあっては近藤勇たちも見過ごすことはできません。
新撰組から追われた上に捕まり、殺害されたのです。
殺害のきっかけは“隊中美男五人衆”馬越三郎に嫌われたこと
武田観柳斎が新撰組規則である局中法度(きょくちゅうはっと)違反で殺されるきっかけをつくった馬越三郎という隊士。
馬越三郎は、新撰組にいた5人の美少年剣士のひとりだったといわれています。
実は武田観柳斎は、この馬越三郎をとても気にいっており、たびたび関係を迫っていたのです。
近藤勇や土方歳三(ひじかたとしぞう)といった他の幹部隊士には、多くの女性のエピソードがあります。
しかし、同じ新撰組幹部でありながら、武田観柳斎には女性の影さえないのです
代わりに男色家であったという話がいくつか残されています。
現代とは違い、男性が男性を好むことは珍しいことではありませんでした。
戦国武将や徳川将軍にも男色家は多く、身のまわりの世話をさせながら夜の相手も務めるものを近くに置いていたのです。
ただ、武田観柳斎の場合は、相手となった馬越三郎からは良く思われていなかったのでしょう。
その性格の悪さも、武田観柳斎が嫌われる原因だったかもしれません。
武田観柳斎が殺されることとなった薩摩藩との関係も、しつこく迫られた馬越三郎のでっちあげとも考えられています。
武田観柳斎の殺害後、馬越三郎は新撰組では唯一の円満脱隊をしています。
近藤勇からは支度金をもらっての破格の待遇です。
もしかしたら、馬越三郎は近藤勇の男色相手だったのかもしれません。
武田観柳斎を殺した手前、馬越三郎を新撰組隊内に置いておくことに危険を感じたのかもしれませんね。
男色に身を滅ぼす!新撰組五番隊隊長・武田観柳斎粛清の真相 まとめ
男ばかりの集団であった新撰組の中で、男性どうしで関係をもつのは当然の成り行きだったのかもしれません。
近藤勇が友人に送った手紙の中にも、そのことは書かれています。
新撰組の中でも男色が流行っている
武田観柳斎が本当のところ、男好きだったかはわかりません。
ただ、普段の態度の悪さもあって、新撰組内の規律を正すために、男色家の中心とされたのかもしれません。
男色を控えさせる意味合いもあって、武田観柳斎を殺すことになった可能性もあるのです。
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