″壬生狼(みぶろう)″と呼ばれた飢えた獣を思わせる新撰組。
京都の街を震撼させた殺戮集団ですが、意外にも心優しい男たちの集団でもありました。
歴史大好き、くろーるです。
″今弁慶″とあだ名された四番隊隊長・松原忠司(まつばらちゅうじ)と双璧をなす大男が島田魁(しまだかい)です。
新撰組一の怪力にして、副長・土方歳三(ひじかたとしぞう)の懐刀として活躍しました。
明治時代になってからも生き残った新撰組メンバーのひとりでもあり、早くから新撰組に入隊していた人物でもあります。
二番隊隊長・永倉新八とも仲が良く、新撰組のことを書いた『島田魁日記』は新撰組を知る資料としても貴重なものになっています。
島田魁の生きざまは新撰組そのもの。
「誠の道」を貫いた新撰組伍長・島田魁をご紹介します!!
身長180cmで体重70kgの巨漢!永倉新八に誘われ新撰組入隊
のちに新撰組伍長となる島田魁は、1828年(文政11年)美濃国(現在の愛知県)に生まれます。
半農民半武士という郷士と呼ばれる家に生まれ島田魁でしたが、一家の没落にともない親戚に引き取られ、早くから武家屋敷への奉公に出ていたといわれます。
島田魁の怪力ぶりは少年時代から知られており、両手に米俵を1俵ずつさげて軽々と運んだといいます。
米俵1俵が60キロといわれますので、両手で120キロを運んだのですから、大人も顔負けですね。
身長は1メートル80センチ以上あり、体重は70キロくらいという大男でした。
この大きな体が功を奏したのか、剣術はどんどん上達し、尾張徳川藩主の御前試合で優勝した経験があったようです。
その腕を見込まれた島田魁は、大垣藩士島田才に養子入りし、「島田」姓を名乗るようになりました。
ところが、1863年(文久3年)大垣藩を抜けだすと、京都へ行き結成したての新撰組に入隊します。
島田魁が36歳のことです。
大垣藩を抜けだした理由は、よくわかっていません。
ただ、新撰組への入隊のきっかけは、二番隊隊長であった永倉新八(ながくらしんぱち)だといわれています。
島田魁が29歳のころ、江戸にあった心形刀(しんぎょうとう)流という剣術流派で学んでいます。
この心形刀流の道場をやっていたのが坪内主馬(つぼうちしゅめ)といいます。
そして、坪内主馬の道場の師範のひとりが永倉新八だったのです。
新撰組の中でも親しくしていた永倉新八と島田魁。
島田魁とは道場でも仲良くしていたものさ。
剣術をとおした、何らかの縁があったのでしょうね。
新撰組の初期のメンバーでありながら明治以後も生き残ったという点も、永倉新八と島田魁には不思議な共通点があります。
力士を投げ飛ばし、裏切りものを絞め殺す!島田魁怪力伝説
新撰組における主な戦いにすべて参加している島田魁。
一躍、新撰組を世に広めた尊王攘夷志士の大捕縛事件「池田屋事件」においても、尊王攘夷志士が集まる池田屋の異変に最初に気付いたのが島田魁といわれます。
そして、その大きな体と怪力ぶりは新撰組一といわれ、島田魁は数々の怪力伝説を残しています。
大阪場所力士と大乱闘事件
1863年(文久3年)7月、新撰組のメンバー8人が大阪での出張のときの出来事です。
力士が3人がやってきて、新撰組メンバーの前をふさぐと文句をつけてきたといいます。
このときの新撰組のメンバーには、仲のよい永倉新八の他にも、沖田総司(おきたそうじ)や斎藤一(さいとうはじめ)といった幹部や、当時の局長であった芹沢鴨(せいざわかも)という血の気の多いメンツがいました。
その巨漢の力士を島田魁は投げ飛ばしたというのですから驚きです。
ちなみに、この状況を見た他の力士が応援にかけつけましたが、他の新撰組メンバーに切りつけられ多数の死傷者を出す大事件となりました。
小林啓之助の粛清
1867年(慶応3年)12月、鳥羽・伏見の戦いの直前のこと。
薩摩・長州軍との戦いを前に、伏見の見回りをしていたときに永倉新八が密書を拾います。
新撰組隊士・小林啓之助(こばやしけいのすけ)から、元新撰組隊士で今は薩摩藩との交流の深い篠原泰之進(しのはらたいのしん)宛のものでした。
小林啓之助の裏切り行為が発覚し、副長・土方歳三(ひじかたとしぞう)と永倉新八は暗殺することを決めます。
島田魁は、土方歳三を大変慕っており、土方歳三からの信頼も厚い関係にありました。
そのため、この手の隊内粛清のときに同行することも多かったようです。
このときも土方歳三とともに、小林啓之助を呼び出す場にいました。
永倉新八が小林啓之助を呼び出し、土方歳三の前に連れ出しました。
お前を呼んだというのは・・・
土方歳三の話に、小林啓之助が「ハイ」と返答をした瞬間、島田魁が飛びかかり絞め殺してしまったのです。
密かに殺してしまうには、島田魁の絞殺はうってつけだったのですね。
まるで″必殺仕事人″みたいですね。
永倉新八を武装ごと引き上げる
1868年(慶応4年)1月3日に始まった鳥羽・伏見の戦い。
ここから徳川幕府軍の敗走が続くわけですが、伏見周辺で戦っていたのが新撰組でした。
永倉新八を隊長にした決死隊が、薩摩兵と激しく対戦していましが、周辺の民家が燃え出し退却することになったときのことです。
重武装をしていた永倉新八は、塀を乗り越えることができませんでした。
それを見た島田魁が塀の上から銃を永倉新八に向けて指し延ばしました。
そして、島田魁の延ばした銃に捕まった永倉新八を、軽々と引き上げたのだそうです。
周りにいたものは、島田魁の怪力ぶりに驚いたと書かれています。
新撰組内でも親しくしていた島田魁と永倉新八は、ともに新選組のことを書き残しています。
島田魁は『島田魁日記』を、永倉新八は『新撰組顛末記』を残し、のちの新撰組の名誉回復に貢献しているのです。
北海道・五稜郭で散った土方歳三とともに最後まで戦い続ける
鳥羽・伏見の戦いは、徳川幕府軍のリーダー・15代将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の突然の失踪もあり負けてしまいます。
新撰組も江戸へと向かって敗走していきました。
その中で、局長・近藤勇(こんどういさみ)と他の新撰組隊士との意見の違いもあり、徐々に新撰組も解散していくことになります。
ともに親しかった島田魁と永倉新八も分かれ分かれとなってしまったのです。
近藤勇が亡き後の新選組は、副長・土方歳三を中心に宇都宮・会津・仙台、そして戊辰戦争最後の戦いとなる箱館戦争へと北上していきました。
土方歳三を慕っていた島田魁も、それにともなって戦い続けたのです。
箱館では、旧徳川幕臣・榎本武揚(えのもとたけあき)を総裁とする蝦夷共和国政府をつくり、明治新政府から独立した別の政府をつくろうとしていました。
ただ、土方歳三にとって蝦夷共和国政府が必要だったわけではなかったのではないでしょうか。
土方歳三は、蝦夷共和国に新撰組が必要な存在となり、残りの新撰組隊士の居場所があればよかったのです。
そして、島田魁にとっては、そんな土方歳三と同じく死に場所を求めていたのかもしれません。
土方歳三最期の日の謎を検証→『死因も遺体も不明?新撰組・土方歳三生存説を検証!!』
島田魁は、たまたま別の場所で他の新撰組隊士とともに戦っていたために生き残ることになります。
こうして、戊辰戦争は終わります。
土方歳三は北海道で死にますが、島田魁は生き残ってしまったのです。
新撰組として生き続けることを選んだ島田魁の晩年
箱館戦争の終結後、島田魁は青森に護送され、さらに尾張藩に預けられ、3年ほどの監視生活を送ります。
降伏後の島田魁は、毎日念仏を唱えて、土方歳三やともに戦い死んでいった仲間の隊士たちを弔い続けました。
釈放された島田魁は、京都に戻り、家族とともに雑貨屋をはじめますが、うまくはいきませんでした。
明治9年頃には、剣道場を開いたようですが、これも時代の変化で弟子が集まらず、貧しい生活が続いたようです。
人の良かった島田魁らしい話が、この剣道場時代にあります。
弟子たちと島田魁のチカラコブがどれだけ強いか確かめるカケをしたことがありました。 島田魁のチカラコブを弟子たちが樫の木でつくったソロバンで叩いて、赤くなったら弟子たちの勝ちでお酒をおごる。 赤くならなかったら弟子たちの負けで、鍋いっぱいのぜんざいを島田魁におごるというものです。 もちろん結果は、島田魁の勝ち。
酒を飲まない甘党だった島田魁と弟子たちとのほのぼのとしたエピソードですね。
しかし、島田魁のその後は、不幸が続くことになります。
60歳を超えてから、長男・妻・長女として続けざまに亡くしてしまいます。
そんな島田魁も65歳で京都・西本願寺の夜の警備中、突然倒れて亡くなったのです。
西本願寺は、1865年(慶応元年)以降に新撰組が本陣としていたお寺でした。
どこまでも新撰組として生き、最後まで新撰組を供養し続けた人生だったのでしょうね。
″誠の道″を貫き土方歳三と五稜郭まで戦った新撰組一の怪力・島田魁 まとめ
島田魁には、新撰組隊士らしい″誠の道″を極めたエピソードがあります。
明治13年頃、元蝦夷共和国総裁で旧徳川幕臣・榎本武揚が京都に来たときのこと。
元新撰組の島田魁がいると知った榎本武揚は、泊まっていた宿へ来て昔のことでも懐かしく話さないかと使いのものを出しました。
「会いたくば、先方より出向くのが礼儀。こちらから行く必要はない。」
島田魁はこう言って、榎本武揚の誘いを断ったといいます。
榎本武揚は箱館戦争後、その能力を惜しんだ黒田清隆(くろだきよたか)たち明治政府のものたちに誘われ、海軍卿となっていました。
多くの新撰組隊士が徳川幕府のために死んでいったことを想う時、明治政府に仕える榎本武揚のことを島田魁は許すことができなかったのかもしれませんね。
明治新政府の下で警察官となった元新撰組三番隊隊長・斎藤一や、最後まで新選組として戦うことをしなかった永倉新八にも同じような想いがあったのかもしれません。
新撰組の古くからの幹部でありながら生き残った斎藤一と永倉新八と、その後親交していた形跡がないからです。
島田魁は、新撰組としての生き方を貫きとおした隊士だったのでしょうね。