歴史ゴシップ好きのくろーるです。
細川ガラシャといえば、明智光秀(あけちみつひで)の娘として“裏切り者の娘”というレッテルを貼られていました。
また、嫉妬深い夫・細川忠興(ほそかわただおき)による監禁同然の生活や本能寺の変後の離婚で精神的にも病んでいたとされています。
そのために、キリシタンとなり、細川忠興とも離婚を考えていたといわれます。
織田信長(おだのぶなが)のススメで結婚した細川ガラシャと細川忠興。
政略結婚であったこともあり、二人の仲は悪かったのでしょうか?
二人のエピソードには、聞くだけでもゾッとするような険悪な夫婦仲に感じます。
しかし、ちょっと角度を変えると、常識とは違った夫婦の形が見えてきました。
細川ガラシャと細川忠興の、他とは違う愛情表現を見ていきましょう!
「夫は鬼」「妻は蛇」相手をののしりあう険悪な夫婦!?
お前は蛇だ!
鬼の妻には蛇がお似合いでしょう!
細川忠興と細川ガラシャの性格を表わす話として、細川家の家史『細川家記』に書かれています。
嫉妬(しっと)深い夫・細川忠興の独占欲から、美人の妻・細川ガラシャには誰も近づけなかったといいます。
そのため、細川ガラシャのところへやってきた家臣を斬り、その血を細川ガラシャの着ていたもので拭いたそうです。
ところが、その血の付いた着物を細川ガラシャは、3日経っても脱ぐことはありません。
短気で嫉妬深い夫の理不尽な行動への抗議の意味があったのでしょう。
戦場では鬼のように暴れまわり、いくつもの成果をあげてきた細川忠興も、この細川ガラシャの気の強さには勝てなかったようです。
父親・細川藤孝(ほそかわふじたか)に間に入ってもらい、仲直りできたといわれます。
細川忠興が悪いことには違いありません。
しかし、そんな狂気じみた夫にも、ひとつもひるむことのない細川ガラシャらしいエピソードですね。
庭師を殺して首を放置!狂気の夫・細川忠興
『細川家記』には、他にも細川忠興と細川ガラシャの異常な夫婦関係エピソードがあります。
細川忠興と細川ガラシャが屋敷の部屋にいたところ、屋根を直していた職人が庭に落ちてしまいました。
その職人の首を細川忠興が斬り、その首を細川ガラシャの膝(ひざ)元に投げたそうです。
ところが、細川ガラシャはひとつも驚かず、何もなかったようにしていたといいます。
二人でいるところを職人に見られたという理由で、屋根の職人を殺したと書かれているそうですが、細川忠興の行動も異常ですが、細川ガラシャの肝の据(す)わり方もハンパではありませんね。
さらに、もうひとつ。
食事で出されたお椀に髪の毛が入っていることに気付いた細川ガラシャは、わからないようにお椀の蓋をしました。
ところが、その動作に気付いた細川忠興が、料理人を呼びつけ、またもや斬ってしまったのです。
斬った料理人の首を棚に置いたまま、数日しても細川ガラシャが何も言わないので、細川忠興の方が根をあげて、これもまた、父親・細川藤孝に仲裁してもらいました。
気が短い上に、すぐ人を斬り、挙句の果てに父親頼みとは情けない細川忠興です。
むしろ、細川ガラシャの無言の抗議が恐ろしくも感じますね。
こうして見ると、細川忠興と細川ガラシャの夫婦生活は、険悪なように見えます。
ただ、エピソードだけでは語れない、深い関係があるように思えるのです。
偽装離婚までして “裏切り者の娘”を守った細川忠興と細川家
天下統一まであと少しのところまで迫った織田信長。
その織田信長も予想してなかった家臣・明智光秀の裏切り。
世にいう本能寺の変です。
細川忠興の父親・藤孝(ふじたか)は、明智光秀の親友でもありました。
そのため、本能寺の変のあと、明智光秀からは応援を頼まれましたが、それを断ります。
豊臣秀吉の動きが想定以上に早く、動きがとれなかったと考えられます。
その後、明智光秀は豊臣秀吉との山崎の合戦で敗北、殺されたとも自害したともいわれます。
明智光秀の妻や子などの一族も自害します。
細川ガラシャだけが、明智光秀の子供として唯一生き残ったのです。
山崎の合戦では死んではいなかった!?→『明智光秀は生きていた!?「かごめかごめ」に隠された南光坊天海の正体』
ここでひとつ不思議なことがあります。
細川家としては、裏切り者の娘である細川ガラシャを自害させてもおかしくありません。
戦国時代のことですから、裏切った明智家一族を殺すことは当たり前のことなのです。
ところが、細川家では細川ガラシャを細川忠興と離婚をさせるだけで、それ以上のことはしませんでした。
離婚後は、丹波国(現在の京都府北部)で見張りをたてて幽閉生活をさせています。
このとき、次男・興秋(おきあき)を細川ガラシャが妊娠していたということも、自害をさせなかった理由でもあるでしょう。
しかし、その間に細川忠興は正妻をもつこともありませんでした。
その上で、3年後に豊臣秀吉の許可を受けて、復縁しているのです。
これは、細川忠興と細川ガラシャによる偽装離婚だったと考えるのが自然ですよね。
一応、離婚したことにしておこう・・・
秀吉を敵に回しても妻を愛す!キリシタンを許した忠興の覚悟
細川忠興と復縁した細川ガラシャでしたが、大坂の細川屋敷からは出掛けることのできない監禁生活は続きます。
これも、一説には細川ガラシャの性格を考えてのことだったともいわれます。
細川ガラシャにとっては、3年もの慣れない土地での幽閉生活と大阪での監禁生活。
幽閉された丹波国で生まれた次男・興秋は、病弱で母親としては心配の種は尽きません。
そんな中、侍女として信頼している清原(きよはら)マリアからキリスト教の教えを知ります。
この頃の細川ガラシャは、鬱(うつ)病でもあったといわれます。
心の不安からか、キリスト教の教えに同調した細川ガラシャは、洗礼を受けキリシタンとなります。
「ガラシャ」という名前も洗礼名で、「恩恵」を意味していました。
夫である細川忠興も細川ガラシャが洗礼を受けたことを知りませんでした。
当時、豊臣秀吉によって伴天連(バテレン)追放令が出されていました。
豊臣秀吉の狂気な一面→『残忍な陽キャラ・豊臣秀吉のウラの性格がわかる5つのエピソード』
キリスト教を禁止し、キリシタンや宣教師を国外追放する命令が出されていたのです。
多くのキリシタン大名は改宗をしたり、改宗をしなかった大名が国外追放処分になってもいました。
(※改宗・・・自分の宗教を変えること)
細川忠興も細川ガラシャに改宗を強制しようとしました。
細川ガラシャの乳母(うば)で洗礼を受けたものの鼻を削ぎ落し、追い出したのです。
処罰の仕方が残酷ですが、これを見ても細川ガラシャはキリスト教を捨てることをしませんでした。
どんなことがあってもキリスト教は捨てません。
このままであれば、細川家が豊臣秀吉から処罰を受けることもありえます。
細川家にとっては、細川ガラシャそのものが地雷となっていたのです。
これは細川忠興夫婦だけの問題ではありません。
細川家が潰されることさえ考えられるのです。
それでも結局、細川忠興はキリシタンとして生きたいという細川ガラシャの希望を、黙って認めることにしたのです。
キリシタンは嫌いでも、妻は愛していますから。
洗礼を受けてからの細川ガラシャは、顔つきも変わり、とても穏やかな性格になったといわれます。
そんな妻・細川ガラシャの変化が、細川忠興がキリスト教を許す理由になったのかもしれませんね。
豊臣秀吉からの処罰よりも、妻の安らぐ姿を選んだとしたら、細川忠興の愛情がとても深かったように思えますね。
細川忠興の朝鮮からの手紙「女好き秀吉に注意せよ!」
朝鮮出兵により大阪の細川屋敷を留守にしていた細川忠興は、美人の妻・細川ガラシャのことが心配でたまらなかったようです。
朝鮮の陣から送られた細川忠興からの手紙には、こう書かれていました。
「なびくなよ 我がませ垣の をみなへし 男山より風は吹くとも」
なびいてはならない。我が家の垣根に咲く女郎花(おみなえし)よ。たとえ男山より風が吹いたとしても。
これは女好きで知られた豊臣秀吉を警戒し、細川忠興が細川ガラシャに注意するよういったとされています。
この手紙に、細川ガラシャはこう返しました。
「なびくまじ 我れませ垣の をみなえへし 男山より風は吹くとも」
なびきませんよ。私は垣根に咲く女郎花ですから。たとえ男山から風が吹いたとしても。
朝鮮に行ってまでも妻・細川ガラシャを気に掛けるほど、細川忠興にとっては大事な存在だったのでしょう。
束縛が強すぎるともいえますが、大切されていたことは確かなようですね。
夫への愛に応え、愛に殉じた細川ガラシャの最期
本能寺の変で人生が狂ってしまった細川ガラシャ。
そんな妻を深すぎる愛情で見守り続けてきた夫・細川忠興。
しかし、細川ガラシャには悲劇的な時が迫っていました。
天下分け目の戦い、関ヶ原が近づいていたのです。
細川忠興は、徳川家康軍に参加していました。
そこで西軍・石田光成(いしだみつなり)は大阪にいる妻や子供たちを人質にすることで、徳川家康の味方を少なくしようと考えたのです。
その最初のターゲットに選ばれたのが、細川忠興の妻・細川ガラシャでした。
しかし、細川ガラシャは大阪城に入り、人質になることを拒否します。
石田三成は、無理にでも人質として連れ出そうとしたのです。
夫・細川忠興は、戦いで留守にするときには、必ず言い残していたことがあります。
敵方に人質になることがあれば、家族も家臣も自害せよ。
細川ガラシャは、この夫の言葉を守り、死ぬことを選んだのです。
ただ、キリスト教では自殺は禁止されています。
そこで家臣に長刀で胸を刺すよう命令します。
さらに、火薬を周囲にまき、火をつけさせるという凄まじい最期でした。
細川ガラシャに最後まで一緒にいた侍女「しも」が、晩年に残した『霜女覚書』と『細川家記』に書かれたものです。
ただ、別のものでは、細川ガラシャは自分で胸を刺し、家臣に首を斬るよういったともあります。
細川ガラシャの最期が自殺であったのかどうかは、今でも議論の的です。
ただ思うのは、細川ガラシャはどこかで死ぬタイミングを待っていたのではないかということです。
本来であれば、本能寺の変によって裏切り者になった時点で死んでもおかしくなかった自分。
それを夫・細川忠興の深すぎる愛情によって生き長らえてきたという思いがあったのではないでしょうか。
どこかで、夫・細川忠興や細川家に迷惑をかけているとう気持ちをもっていたのではないかと思うのです。
細川忠興への愛情に応えつつ、その苦しみから逃れるときは、このときだと考えたのでしょう。
細川ガラシャの辞世の句は、そんな気持ちを代弁しているように思えます。
「散りぬべき 時知りてこそ世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
愛されていたからこそ、その愛に応え続けたのが、細川ガラシャの生きざまだったと思えるのです。
まとめ・細川忠興と細川ガラシャの本当の仲とは?異常な関係エピソード
本能寺の変がなければ、嫉妬深い夫と気の強い妻という夫婦だったに違いない細川忠興と細川ガラシャ。
一度夫婦喧嘩が始まれば、周りはハラハラしどおし。
結局は、夫が何ごともなかったように妻の言い分に従うという、仲がいいやら悪いやらという関係だったのではないでしょうか。
裏切りものの娘となり、幽閉生活を余儀なくされ、大坂での監禁生活もあって、複雑な精神状態を夫婦の間に作ってしまったのです。
素直に愛情を表現したくとも、できないことに悩んだ細川忠興。
愛されていることを知りながら、その愛情を受け止められない細川ガラシャ。
本当の悲劇は、夫婦の間にこそあったのではないでしょうか。
細川忠興と細川ガラシャの間には、3人の男子と3人の女子の子供がいます。
その他にも、7~8人の細川忠興の子供がいたとされますので、側室が何人かいたのではないかといわれます。
しかし、正式な妻は、細川ガラシャのみだったのです。
細川忠興にとっては、本当に愛したのは細川ガラシャだけだったということでしょう。