「おひけぇ(控)えなすって!!」
時代劇や講談でお馴染みの渡世人のあいさつといえば、このセリフでしょう。
歴史大好き!くろーるです。
清水次郎長(しみずのじろちょう)といえば、幕末から明治に清水(現在の静岡県)に縄張りをもっていた侠客の親分で、甲州(現在の山梨県)の侠客・黒駒勝蔵(くろこまのかつぞう)との大決戦は知られています。
博打(ばくち)やケンカのイメージが強い人物ですが、意外に明治の偉人とも交流もありました。
清水のみならず静岡の発展の礎(いしずえ)を築いた人物ともいえます。
清水次郎長の粋(イキ)でまっとうな生き様をご紹介します!!
博打に喧嘩に逃亡生活の末に成り上がった「東海一の大親分」
あっし、生国は駿河の国、
姓は清水、名は次郎長・・・
1820年(文久3年)駿河国は船頭の息子として生まれた清水次郎長。
若いころは、博打と喧嘩の末に人を殺して逃亡生活をすることになります。
いわゆる無宿人(むしゅくにん)です。
諸国を放浪して渡世人としての修業をした清水次郎長は、20代半ばころに「清水一家」を立ち上げます。
大政や小政・森の石松といった「清水二十八人衆」といわれる子分をもっていました。
もっとも大きな抗争は、隣国・甲斐国の侠客・黒駒勝蔵との一戦で、清水次郎長を語る上でのハイライトでもあります。
1864年(元治元年)、黒駒勝蔵との決戦を制すると、清水次郎長は東海一の親分と呼ばれるまでになるのです。
ここまでは、裏の世界では有名なアウトロー集団のリーダーに過ぎません。
清水次郎長が真の“侠客(きょうきゃく)”といわれるのは、ここからです。
無抵抗の乗組員を殺害し放置された『咸臨丸事件』
徳川幕府から天皇、そして明治新政府へと政治が移行する混乱の中、徳川幕府の中心地のひとつであったのが、この清水港のあった駿府藩でした。
新しい政府に従う姿勢を示していたものの、新政府軍からは徳川幕府寄りと見られており要注意とされていたのです。
そんな中、清水次郎長一家は清水港一帯の警備を任されていました。
政治的混乱の中では、悪いことをする奴らも多くなるのはいつものこと。
清水次郎長一家を政府公認の警備隊に採用することで、犯罪抑止に利用しようという考えです。
毒をもって毒を制す!!
新政府軍と穏便な態度をとってきた駿府藩を揺るがす大事件が発生します。
新政府に対抗した旧徳川幕府軍艦八隻が、江戸を脱走し仙台へ向かったのです!
ところが、そのうちの一隻だった咸臨丸(かんりんまる)が暴風雨によって遭難し、漂流した挙句に清水港に避難してきたのです。
咸臨丸といえば、岩倉具視たちを乗せてアメリカまで渡った、開国のシンボルとしてよく知られていますよね。
ところが、このときの咸臨丸はすっかり古い船となっていて、他の最新軍艦についていくことができなかったのです。
清水港で修理後、すぐに他の幕府海軍を追うつもりだった咸臨丸とその乗組員たち。
旧徳川幕府の中心地のひとつでもあった清水港とあっては、黙って見逃すしかありませんでした。
ところが、咸臨丸入港の情報はいち早く新政府軍に知られてしまいます。
新政府軍艦富士丸が清水港に急行し、咸臨丸に向けて砲撃を始めたのです。
修理とためと攻撃の意思の無いことを示すために、すべての武器を撤去していたため、咸臨丸と乗組員は応戦することなどできるはずもありません。
ただちに白旗をあげて、抵抗しないことを伝えたにも関わらず、富士丸の砲撃は止むことはありませんでした。
最後には、刀をもって直接乗り込んできた新政府軍に、咸臨丸の乗組員は全員殺されてしまうという惨劇となったのでした。
官軍も賊軍も関係ねぇ!清水次郎長の仁義の心
清水港には、新政府軍に殺された咸臨丸の乗組員の死体がブカブカと浮いていたといいます。
あるものは首を斬られ、あるものは手足のない状態で・・・
そのまま放置された死体からは、異臭も放たれた酷い光景となっていました。
それでも、新政府軍を恐れて、誰も死体を引き上げようとするものはいませんでした。
そこへ清水次郎長を筆頭に一家総勢200名がやってきて、咸臨丸の乗組員の遺体を引き上げたのです。
いいか悪いかは俺にはわからねぇが、
国のために戦って死んだ仏さんに、
官軍も賊軍もありやしねぇ
そういって清水次郎長は、亡くなった咸臨丸の乗組員の墓をつくり手厚く供養しました。
維新に志をもって生きるということは、
どちらが賊になってもおかしくねぇ。
罰せられるは生前の行いであって、
死んでまで受ける仕打ちなどあるものか
清水次郎長の男気のある行動は、たくさんの人たちから称賛されました。
見て見ぬフリをしていた駿府藩からは感謝され、また、事態収拾にあたった徳川幕府側の担当であった山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)とは、この咸臨丸事件をきっかけに清水次郎長と交流を深めることになります。
そして、この山岡鉄舟との出会いが、清水次郎長を裏社会の親分から実業家へと転身させることになったのです。
“お茶の静岡”を広めた功労者、それが清水次郎長
清水次郎長にとって幸運だったことは、明治維新後に静岡大参事(現在の知事)としてやってきた人物が山岡鉄舟であったことです。
山岡鉄舟といえば、西郷隆盛と勝海舟による江戸無血開城を実現させた立役者です。
咸臨丸の一件で清水次郎長を高く評価していた山岡鉄舟は、静岡県内の土木工事などをいくつも任せることになります。
山岡鉄舟が清水次郎長にもっとも期待したことは、清水一家としての多くの子分や地下ネットワークを生かした巨大な労働力でした。
清水次郎長が一声かけると、あっという間に集まる労働力で、静岡県内のインフラ整備や新規開発が進んでいきました。
幕府の直轄領であった富士山の南麓を払下げ、土地の開発をすることでお茶の生産量もアップしました。
また、清水港を整備し、大型の船が入港できるようになったため、大量のお茶の輸送もできるのになったのです。
「お茶といえば静岡」とまでいわれるようになった功績は、清水次郎長のおかげといえますよね。
まとめ:「お茶の静岡」は清水次郎長のおかげ!実業家となったと幕末の侠客
実業家・清水次郎長が必ずしも成功したとはいえません。
富士山南麓の開発も計画すべてを実現できずに断念しています。
晩年には船宿を経営して、清水次郎長自身が接客をしていたといいます。
東海道一の親分といわれた男が、笑顔第一の接客業をするとは面白いですよね。
クレームは一切無さそうですが。
たったひとつの出会いが、その後の人生を大きく変えることはよくあります。
清水次郎長にとって、それは山岡鉄舟との出会いだったのでしょう。
自分の心に正直に生きることの大切さを教えられた気がしますね。