何事も人任せで、家ではぐうたら、すぐにドラえもんに頼ってしまうのび太くん。
ところが、ここぞという場面では、もっとも頼りがいのある人物になるのです。
大きなことをする人間というのは、のび太くんのようなタイプなのかもしれません。
歴史大好き、くろーるです。
室町幕府を開いた人物として知られる足利尊氏(あしかがたかうじ)。
その人物像は、今一つピンと来ない気がしませんか?
平家を滅亡させ鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)のような衝撃が足りませんよね。
それもそのはず。
鎌倉幕府を倒したのは足利尊氏ではありません。
そして、足利尊氏自身も将軍とは思えない情けない性格の持ち主、いわゆる“ヘタレ”だったのです。
鎌倉幕府滅亡→建武の新政→室町幕府成立→南北朝時代→観応の擾乱
足利尊氏のヘタレエピソードとともに、この一連のわかりづらい時代の流れを見ていきましょう。
ヘタレでも将軍になれます!!
室町幕府を開いたカリスマ将軍・足利尊氏の評価ってコレ本当!?
足利尊氏と親交があった僧・夢窓礎石(むそうそせき)の評価として、南北朝時代の歴史書『梅松論』の中にこう書かれています。
ひとつ、心が強く、合戦にあっても笑みを絶やさず、死を恐れる様子が無い。
ふたつ、寛容で慈悲深く、裏切った敵も許す心の広さがある。
みっつ、物欲への執着がなく、金銀や武具・馬なども家臣によく分け与える。
戦場に立てばトップとして心強く、それでいて度量が深く広いとされています。
なにより、褒美をたくさんくれる主人ともなれば、恩を受けた家臣はそれを戦場で返そうと考えるでしょう。
足利尊氏のカリスマ性と、その足利尊氏の心意気を尊敬してやまないものたちこそ、足利軍の強さだったのです。
このあとの鎌倉幕府滅亡も建武政権も、足利尊氏のカリスマ性のおかげともいえるのです。
しかし、よくよく見ると足利尊氏自身は、進んで将軍になろうとしているわけではなさそうです。
何より、足利尊氏自身には、鎌倉幕府を倒す気なんて無かったのですから・・・
鎌倉幕府を倒してはいない足利尊氏
鎌倉幕府を滅ぼした人物とは、日本の第96代天皇である後醍醐(ごだいご)天皇なのです。
後醍醐天皇の野望は「天皇をトップとした政権の復活!」
そのためには、武家政権である鎌倉幕府は邪魔だったのです。
ところが、後醍醐天皇の鎌倉幕府滅亡計画は事前に発覚し、二度も失敗してしまいます。
1度目は1324年の正中の変といわれ、二度目は1331年の元弘の変といわれます。
この二度の失敗により、後醍醐天皇は隠岐島(島根県の沖合)に流されてしまいます。
この時点では、足利尊氏は後醍醐天皇の反乱を平定するために鎌倉幕府から派遣された軍大将に過ぎません。
のちに室町幕府を開く足利尊氏は、最初は鎌倉幕府から京都へ派遣され、後醍醐天皇の反乱を鎮める役割だったのです。
「か・み・さ・ま・の・ゆ・う・と・お・り」で後醍醐天皇に味方する!
このあと、隠岐島を脱出した後醍醐天皇に、足利尊氏は味方します。
ここの動機はいまいちハッキリしていません。
鎌倉幕府のトップである北条氏の待遇に不満をもっていたとか、勝ち馬と思われる後醍醐天皇に乗ったともいわれます。
足利尊氏の登場する軍記物しては『太平記』が有名です。
その『太平記』から想像すると、
鎌倉幕府軍が、かなり苦戦してるな~
神様に聞いてみて、神様が味方してくれるなら、後醍醐天皇軍になろうかな~
おっ!神様が味方してくれるってよ!後醍醐天皇に味方しよう~♪
神様に祈るということは、歴史上の出来事ではよくある話です。
ただ、足利尊氏には特に政治に対する信念みたいなものは感じられません。
他力本願の占いで、後醍醐天皇に決めたってところです。
鎌倉幕府が倒される経緯をここで少し詳しく書いておくと、後醍醐天皇に味方した足利尊氏は、鎌倉幕府の京都支店・六波羅探題を攻撃して追い出します。
このとき追い出された北条一族は、逃亡中に一族400名以上が自害しています。
鎌倉を攻撃したのは、同じく後醍醐天皇に味方した新田義貞(にったよしさだ)たちでした。
ここでも鎌倉北条氏最後の執権・北条高時と一族・家臣の多くが自害し、1333年に鎌倉幕府が滅亡します。
ただ、この新田義貞軍には、鎌倉で人質にされていた足利尊氏の息子が合流しており、足利尊氏のカリスマ性を利用して兵士の士気を高めています。
足利尊氏の人気ぶりがうかがえますよね。
目に入れても痛くない大好きな弟・足利直義!
鎌倉幕府を倒し、ついに後醍醐天皇の念願だった天皇の政治が始まります。
これが「建武の新政」といって、後醍醐天皇の「建武政権」が1333年に成立します。
建武政権誕生への功績は、足利尊氏が大きいことは誰の目から見てもあきらかです。
てっきり“征夷大将軍”という武将としては最高の地位をもらえるものと、周囲は思っていました。
ところが、後醍醐天皇の胸の内は違っていました。
ここで足利尊氏を調子の乗らせると、また武家に政権を奪われてしまう・・・
こんなことを考えていたのです。
政治にあまり関心のない足利尊氏は、後醍醐天皇の深い考えなど想像もしていませんでした。
そんなとき、鎌倉襲撃がされる事件が起きます。
鎌倉幕府が滅亡したといっても、まだまだ残党は残っています。
鎌倉にいたのは、足利尊氏の弟・足利直義(あしかがただよし)でした。
この弟、クールで真面目なところはいいのですが、反面、堅物ともいえるところがたまにキズ。
おおらかな兄とは異なり、マナーやルールにも厳しい弟だったのです。
このことが弟・足利直義軍にも響いたか。
鎌倉北条氏の残党の攻撃に敗北し、逃亡することになります。
足利尊氏にとって、この潔癖な弟・直義が大好きでした。
待ってろ、直義!兄ちゃんが助けにいくぞ!
弟のピンチを聞いて、取るも取らず駆けつけると鎌倉北条氏残党を追い払ってしまいます。
勝ったのですから、活躍したものは褒めてやりたいのが、大将・足利尊氏の人情というもの。
勝手に褒美をあげたり、領地を与えたりしたことで、後醍醐天皇の怒りを買います。
尊氏のヤツ、俺に歯向かうつもりだな!謀反だ!謀反っ!
後醍醐天皇は、足利尊氏討伐の軍を鎌倉へ向かわせます。
この知らせを聞いた足利尊氏はというと・・・
後醍醐天皇に歯向かう気なんてないよ~頭丸めて反省します!
本当に引きこもってしまうという、いずれ将軍となるとは思えない行動に出ます。
残された弟・直義は、軍事の才能に劣るのに後醍醐天皇軍を迎える形になり、連戦連敗で追い詰められてしまいます。
後醍醐天皇に反省の意思を示そうと引きこもったものの、大好きな弟・直義のピンチは、兄として見過ごすことはできなかったのでしょう。
一転、出陣することにします。
ここでも、足利尊氏は情けない言い訳をしています。
あの可愛い直義が死んでしまったら、俺が生きている意味なんてない!出陣するぞ!!(・・・仕方ないよね・・・)
「後醍醐天皇が嫌いになったわけじゃありません」と宣言して、出陣を決めたのです。
室町幕府がこんな人に開けるとは思えませんよね。
ああ~情けなっ!
反撃怖れて九州まで大逃走!弟泣かせの口癖「腹を切るぅ~」
足利尊氏の行くところ負けなし!
そんな噂があったかはさておき、弟・直義の援護に向かった足利尊氏軍は、後醍醐天皇軍を撃破してそのまま京都も奪還します。
後醍醐天皇は京都から近江(現在の滋賀県)へ逃走し、いよいよ足利尊氏の時代がやってくる・・・とはいきませんでした。
後醍醐天皇軍の反撃も凄まじく、なんと無敵の足利尊氏軍が負けてしまいます。
一度の敗北でも大騒ぎする足利尊氏です。
もう俺死んじゃうよ~切腹する~!
説得する弟・直義や家臣たちの苦労が思いやられます。
結局、足利尊氏軍は逃げては西へ、そして九州へと、大逃げするのです。
歴史の結果を知っている現代人は、「九州で態勢を立て直して再び京都を奪還」といいますが“九州逃亡”って、付き合わされる家臣たちも大変だったはずです。
そこは、カリスマ武将・足利尊氏と見えて、九州でもその人気は絶大と見えて援助するものがいました。
一応いいますと、九州でも戦いをしているのですが、敵の大軍を見ては、
もう勝てない!切腹する~!
と大騒ぎして、そのたびに弟・直義に迷惑をかけています。
弟無しには生きていられないという足利尊氏も本心ではありそうですね。
真面目な弟や家臣たちに支えられ、九州から再び京都を目指した足利尊氏軍は後醍醐天皇軍をまたもや撃破。
いよいよ足利尊氏が室町幕府を開くことになったのです。
トップ次第では、幕府を開くのも苦労しますね。
室町幕府開く!「俺、政治に興味ないんで、あとはよろしく!」
後醍醐天皇に代わる新しい天皇の元、足利尊氏主導の政治を始まった・・・いいたいところですが、そう簡単にはいきません。
なにせ、肝心な足利尊氏がまたもや引きこもりになろうとしていることがわかります。
この世は儚(はかな)いものなので、私はあの世の幸せを願いますので、この世の幸せはすべて直義にあげてください。
京都の清水寺に、このような願い文を出したというのです。
どれだけヤル気がないのでしょうか!
またまたヘタレの性格が出てきたと思った弟・直義は、兄をこう説得したといいます。
兄ちゃんは、決めてくれるだけでいいから!あとの細かいことは全部俺たちがやるから!普段は好きなことをしててもいいからさ。
権力とは、一度握ると離せなくなるといいます。
その権力の魅力を巡って争いが絶えないというのに、足利尊氏は他人任せ・弟任せというわけです。
“権力欲が無い”といえば聞こえはいいですが、ここまで来ると室町幕府初代将軍って、これほどのヘタレがやっていたのかと悲しくなってきます。
南北朝時代の幕開けにホッとする将軍!ってどうゆうことよ!?
さらに、事件は続きます。
あの野望天皇・後醍醐天皇が監視の目をくぐって京都を脱出し、奈良で新王朝を始めます。
これが1336年から始まる南北朝時代です。
実は、後醍醐天皇と足利尊氏は和解していたといいますから驚きです。
足利尊氏は、鎌倉幕府を開いた源頼朝を尊敬していたといいますが、敵対した勢力に厳しかったことは見習わなかったようですね。
普通なら、良くても島流し、悪ければ処刑される立場の後醍醐天皇が、京都にいたわけですから足利尊氏のお人好しヘタレレベルも極まれりです。
これには、弟・直義も家臣たちも、「後醍醐天皇の裏切りだ」と大騒ぎするのも当然のこと。
そこで、足利尊氏はポツリといいます。
ああ~助かった~悩んでいたんだよね~
島流しにもできず、かといって警戒しないわけにもいかず・・・
自分から逃げたのなら、俺たちの責任じゃないもんね、ヨカッタ!
要は、後醍醐天皇のことで自分が悪く言われないように、先延ばしにしてただけだったのです。
自分では決められない将軍、それが足利尊氏という男なのです。
弟・直義VS家臣・師直!八方美人が内紛を招いた『観応の擾乱』
弟・直義と家臣たちのおかげで、ヘタレでも足利政権をつくることができた足利尊氏ですが、今度は内紛にも影響してしまいます。
1350年におきた「観応の擾乱(かんおうのじょうらん)」です。
これは、弟・直義と家臣・高師直(こうのもろなお)の権力争いなのですが、ここでも足利尊氏はどっちつかずの行動をとります。
軍事はダメでも実直・真面目な弟・直義は、政権の運営にはそのセンスを発揮します。
一方、高師直は大将・足利尊氏に代わって軍事を担当する武闘派でした。
昔から、政治官僚派と武闘派はソリが合わないものです。
弟・直義と高師直との抗争は、このような経過をたどります。
高師直の発言力が高まる
↓
弟・直義が足利尊氏に頼んで、高師直を執事職から降ろす
↓
高師直が直義を討とうとする
↓
足利尊氏が仲裁に入って、弟・直義の引退と部下の処罰(のちに殺害)
高師直は執事職復帰
↓
弟・直義が高師直を討とうと挙兵
↓
いきがかり上、高師直に味方した足利尊氏が弟・直義と和解
↓
足利尊氏が高師直と別行動で京都へ帰還
↓
帰還途中に高師直が殺害される
この一連の流れを見てもわかるように、足利尊氏は直義にも高師直にもいい顔をしようとしています。
どちらにも嫌われないよう八方美人の対応をしているのです。
足利尊氏の無責任な態度は、この事件の後半、高師直と別に行動するところに表れています。
弟・直義と和解したあと、高師直に対して、
お前の姿が汚いから、一緒に歩くのヤダっ!あとから来い!
高師直は横柄な態度が嫌われたともいわれますが、ずっと足利尊氏を支えてきた家臣です。
それを“汚いから”という理由で別行動をするというのは、高師直が可哀そうではないですか。
もっとも、弟・直義との和解条件が、高師直の殺害だったと考えられおり、そのために別行動だったといわれます。
結局のところ、自分は無関係でいたいという足利尊氏を弟・直義が忖度したのではないでしょうか。
足利尊氏のヘタレ伝説!弟頼みの八方美人な性格が室町幕府を開く! まとめ
足利尊氏のヘタレな性格がおよぼした影響は大きかったといえます。
同じ国に二人の天皇が存在する南北朝時代は、このあと60年も続き、内乱の原因となりました。
後醍醐天皇を処罰しておけば防げたことです。
弟・直義と家臣・高師直との内紛も、足利尊氏がリーダーとして主導していれば起こらなかったでしょう。
おかげで、優秀な家臣を失い、「観応の擾乱」をきっかけに足利尊氏・直義兄弟も関係が悪くなります。
あれだけ仲の良かった兄弟が骨肉の争いをするなんて、まるで若貴兄弟のようですね。
それもこれも、足利尊氏の弟依存と八方美人な態度、肝心なところで決められないヘタレな性格が招いたものです。
それでも、足利尊氏から人生訓を学ぶとしたら「ヘタレでも将軍になれます!」ということでしょう。
足利尊氏を見れば、まだまだ前向きに生きていけるような気がしてきますよね!
足利尊氏はヘタレか?それとも謀略家か?『逃げ上手の若君』に見る策謀家・尊氏
室町時代が漫画の題材になることが珍しいのですが、足利尊氏を悩ませた北条氏の残党・北条時行を主人公とした『逃げ上手の若君』。
ここで登場する足利尊氏は、「何を考えてるかわからない!」稀代の策防家になっています。
室町幕府の祖となった人物ですから、表面だけでは判断はできません。
ヘタレ尊氏とダーク尊氏。
どっちが真の姿なのでしょう。
(参考資料)
足利尊氏と足利直義 動乱の中の権威確立/著者:山家浩樹/山川出版社
日本の古典をよむ⑯ 太平記/訳者;長谷川端/小学館
戦争の日本中世史 「下剋上」は本当にあったのか/著者:呉座勇一/新潮社
日本の歴史9-南北朝の動乱-/著者:佐藤進一/中央公論新社
日本の歴史11太平記の時代/著者:新田一郎/講談社