第三次世界大戦があったなら、それは生物兵器が使用されるといわれています。
安価で手に入れやすく、限定的ながら効果的といわれる細菌やウィルスを使用した生物兵器。
その研究は古くからされており、世界の指導者が生物テロにより死を迎えることも少なくありません。
歴史大好き、くろーるです。
開国か攘夷かで揺れる日本を、徳川家茂(とくがわいえもち)との公武合体で乗り切ろうとした孝明(こうめい)天皇。
しかし、孝明天皇もまた、徳川家茂と同じように、「死」によって幕末の舞台から去ることになります。
孝明天皇の死は徳川幕府の滅亡を加速させることになるのですが、これは不幸な偶然だったのでしょうか?
それとも、仕掛けられた計画だったのでしょうか?
天皇を暗殺するという大それた人物は本当にいたのでしょうか?
今なおくすぶる『孝明天皇暗殺説』を検証します!
孝明天皇が生きていたなら明治維新は無かった!
孝明天皇とは言わずもがな、第121代日本国天皇であり、時は幕末動乱の時代です。
1831年(天保2年)に生まれた孝明天皇は、1846年(弘化4年)わずか15歳で天皇に即位します。
当時、外国との交易を禁止した鎖国状態にあった日本ですが、近海には外国船がたびたび出現していました。
2年前には、日本と交易のあった数少ない外国・オランダからも開国の要求がありました。
海防の必要性が急がれつつ、国内では外国排除の攘夷論と、それに対する開国論が対立しつつあったのです。
ところで、孝明天皇といえば、
- 外国嫌いで鎖国継続の攘夷派
- 徳川幕府と連携しようと公武合体
- 倒幕派の公家とそれを主導した長州藩の追放
が主なことかと思います。
外国勢力をできるだけ国内から排除し、徳川幕府と朝廷とで強力に連携して、政治を行っていくことを考えていたのです。
特に、自分の妹である和宮と第14代将軍・徳川家茂との結婚による公武合体は、成功したといっても良いでしょう。
この時点では、完全なヒールとなってしまった長州藩は、その命運が尽きかけていたといってもいいほどです。
天皇を担いで政治の実権を握ろうとした思惑は一転、長州藩シンパの公家たちとともに追放されるという処罰を受けたのです。
そして、朝廷と徳川幕府のパートナーシップ政治の邪魔者として
長州藩に鉄槌を下さん!!
として、徳川幕府軍が長州へと向かいます。
これが二度にわたる「長州征伐」となります。
ところが、第二次長州征伐の途中、パートナーの一方であった徳川家茂が大阪城で亡くなってしまったのです。
徳川家茂の死にも影が・・・→『病死か?暗殺か?名将軍・徳川家茂の死こそ徳川幕府の終わりの始まり』
これにより長州征伐は中止されます。
ギリギリのところで生き残った長州藩は、これまた急に倒幕派へ寝返った薩摩藩とともに息を吹き返します。
朝廷の中でも孝明天皇の公武合体派は少数勢力でした。
そのため、パートナーである徳川将軍を失った孝明天皇は、急速に主導権を失っていくのです。
とはいっても現役天皇であることには変わりありません。
孝明天皇の許可無くしては、何事も動きはしないのです。
孝明天皇さえいなくなれば、徳川幕府を倒せるのに・・・
そんな考えをもったものがいてもおかしくはないですよね。
天然痘感染からの急な病状悪化という孝明天皇の最期
朝廷と徳川幕府によるパートナーシップ政治を目指した孝明天皇。
そのパートナーであった第14代将軍・徳川家茂が急死してから約半年後の1867年(慶応2年)1月に、孝明天皇は風邪をこじらせることになります。
宮中で行われることになっていた冬の邪気を払う神事「内侍所臨時御神楽(ないしどころのりんじのみかぐら)」では、冷水を浴びてケガレを落とす儀式があります。
そのため、ドクターストップがかかっていたようですが、外圧を払いたい気持ちからか無理を押して神事を行います。
そのことが影響したのか、翌日の朝から発熱し、さらに翌日には寝たきりの状態にまで悪化します。
孝明天皇の全身には発疹が見られたことから、主治医は天然痘の症状ではないかと疑います。
天然痘(てんねんとう)
天然痘ウイルスを原因とする感染症で、現在ではワクチンの普及によってWHOが撲滅宣言。日本では日本書紀にも記述の残るほど、古くからたびたび大流行してきた感染症。ワクチンができるまでは有効な治療法がなく、天平時代に政治の実権を握った藤原不比等(ふじわらのふひと)の息子4人の命を奪ったことでも知られる。発症すると39度以上の高熱に、倦怠感や頭痛・嘔吐の初期症状ののち発疹が出るのが特徴。
主治医は天然痘に詳しくなかったことから、天然痘に詳しい小児科医を2名専属させ、その他15名の医者を24時間体制で診療させました。
1週間後には、かなり病状が回復したことが公家の中山忠能(なかやまただよし)の日記に残されています。
「御色も御宜しき由」(中山忠能日記)
食事もできるようになり、重い痔の病気をもっていたにもかかわらず便通も良くなっていました。
ところが、その1週間後に孝明天皇の容態は急変します。
下痢・吐き気が続き、孝明天皇の意識はもうろうとなりました。
全身に紫色の斑紋が現れ、下血とその後の全身の出血へと広がります。
そして、その夜、孝明天皇は亡くなられたのです。
孝明天皇は、痔の持病がありましたが、その他には持病が無く健康だったとされます。
御所の外へ出歩くことが少なく、限られた者としか接触の無い孝明天皇が、天然痘に感染したという謎。
一度は回復に向かいかけたにも関わらず、病状が急速に悪くなったことにも疑問がもたれています。
孝明天皇は暗殺されたのでは?
そう疑われても仕方のない状況があったのです。
原因はひとつとは限らない!『孝明天皇暗殺説』
孝明天皇の暗殺の可能性には、いくつかの説があります。
しかし、孝明天皇の暗殺は二段階で行われたのではないかと考えられるのです。
【第一段階】天然痘によるウイルステロ
一段階目は、死因とされる天然痘を宮中で蔓延させることだったのではないでしょうか。
先にも書いたとおり、孝明天皇の宮中での生活では天然痘への感染リスクは低いことは明らかです。
ところが、孝明天皇の雑用係をしていたものが天然痘に感染したあと、回復して職に復帰している記録があります。
孝明天皇が天然痘を発症する2日前のことです。
この雑用係は子供でしたので、天然痘に感染していても無症状のまま、孝明天皇のお世話をしていた可能性があります。
しかも、当時はすでに普及しつつあった天然痘のワクチンを孝明天皇は接種していないこともわかっています。
これは孝明天皇が外国嫌いであったことも理由ですが、そのことを知っていたものがいてウイルステロを仕掛けたことが考えられます。
天然痘は重症化すると肺炎などの合併症を起こし、急速に病状が悪化することがあります。
孝明天皇の病状が悪化していくスピードが早いことにも合致しています。
【第二段階】死を確実にするヒ素の使用
次の段階は、孝明天皇暗殺説のもっとも有力な説である「ヒ素による毒殺」です。
ヒ素は安く簡単に手に入る毒物で、昔から暗殺によく使用されてきました。
ヒ素を飲み込むと嘔吐・下痢・激しい腹痛などの中毒症状を起こします。
むくみや色素沈着なども症状とされており、孝明天皇の亡くなる間際の症状に似ています。
天然痘の症状とヒ素中毒の症状に似ている点も多く、どちらが死因であるかの判断も難しそうです。
孝明天皇を天然痘に感染させたしても、確実に死に至るとは限りません。
実際に、孝明天皇は回復の兆しも見せています。
そこで、症状の似ているヒ素を含ませたものを与えたとすると、急性中毒を引き起こしたと考えられます。
もちろん、孝明天皇の死後に毒物は出ていないため、確定的なことは言えません。
孝明天皇の暗殺を、疑われることなく、かつ確実にするために、二段階で実行されたのではないかと考えるのです。
孝明天皇を殺したのは誰なのか??
では、孝明天皇暗殺の実行犯は誰だったのでしょう?
主な候補は二人います。
初代総理大臣の伊藤博文(いとうひろぶみ)と公家・岩倉具視(いわくらともみ)です。
伊藤博文はのちに韓国で暗殺されますが、その暗殺理由のひとつに孝明天皇暗殺の罪が挙げられています。
もちろん、伊藤博文暗殺犯が主張していることなので、確たる証拠はありません。
ただ、伊藤博文は長州藩出身ですので、孝明天皇からは嫌われていた勢力の一員です。
このころの伊藤博文は一介の攘夷志士でしかありませんので、孝明天皇を暗殺するほどの影響力はありません。
孝明天皇暗殺計画を知っていた可能性はありますが、犯人とまではいえないでしょう。
それに比べ岩倉具視は、かなり孝明天皇に近い立場にありました。
岩倉具視は開国派ではあったものの、公武合体後には徳川幕府とも近い関係を築いていました。
しかし、徳川家茂が急死し、公武合体の効果が薄らぐことは予想されたでしょう。
それでも、徳川幕府とのパートナーシップを重視し、外国排除にこだわる孝明天皇を見て、
孝明天皇がいる限り、開国できないかもしれない・・・
そう考えたのではないでしょうか。
岩倉具視の妹・堀河紀子は、孝明天皇の典侍、いわゆる秘書のような役割をしていました。
場合によっては、肉体的な関係もあったでしょう。
病で寝たきりの孝明天皇にもっとも近づくことのできる人物の一人だったのです。
兄・岩倉具視の依頼を受け、ヒ素を盛ったとしたら・・・
孝明天皇暗殺を影で支えたものと実行したものが揃うことになりましたね。
天然痘は死因のひとつにすぎない!孝明天皇はやはり暗殺された! まとめ
孝明天皇暗殺説には、今だに多くの検証があり、また謎も残されています。
公武合体により朝廷と徳川幕府の連携強化により、うまく動きだしたところでの第14代将軍・徳川家茂の急死は、大きな痛手だったでしょう。
二人の大物を処分するのは難しくとも、一人だけであれば成功の確率も上がります。
孝明天皇を暗殺しようという誘惑に駆られてもおかしくありません。
仮に孝明天皇が暗殺されなかったとしても、徳川家茂の急死による公武合体の崩壊で、徳川幕府の滅亡は避けられなかったでしょう。
しかし、その後の戊辰戦争へと続く混乱は、もっと穏やかなものであったかもしれませんね。
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