仏教の世界では、腕や足が多いことは敬うこととされています。
なぜなら、千手観音のように多くの苦しみや災厄から人々を救うことができるからです。
歴史大好き、くろーるです。
本能寺の変で織田信長(おだのぶなが)が討たれたあと継いで、天下統一を成し遂げたのは豊臣秀吉(とよとみひでよし)でした。
猿っ!
織田信長からは、豊臣秀吉の顔・姿からあだ名で呼ばれていましたが、実はもっと重大な体の特徴をもっていたのです。
豊臣秀吉の右手の指が6本あったという驚きの話です。
数々の記録に残された豊臣秀吉の6本指の証拠とは、どのようなものなのでしょうか?
珍しくない6本指!全世界で多くの症例がある先天性の「多指症」
多指症(たししょう)は手や足の指がひとつ多くある先天性異常です。
手の指が多いものは、特にアジア人に多いといわれています。
そのうち、親指からもう一本別れた指が現れるのは、日本人や朝鮮人が大半といわれます。
1000人に1人程度の割合で生まれるそうなので、決して少なくはない確率ですね。
両側の指に現れる場合は遺伝性のものが多く、血縁者どうしの婚姻などが原因と考えられています。
片側の指に現れる場合は突然変異のことが多いようです。
“日本人の多指症には親指から分かれるものが多い”ということになりますので、豊臣秀吉が6本指だったとしても珍しいことではなかったのでしょう。
宣教師ルイス・フロイスの証言「指が6本あってみにくい顔」
ポルトガル人の宣教師だったルイス・フロイスは、織田信長や豊臣秀吉と対面したことのある人物です。
ルイス・フロイスはポルトガルへ帰ったあと、日本についての知識や体験を『日本史』という書物にまとめました。
その中で豊臣秀吉に会った印象を書いた部分があります。
ルイス・フロイスの印象は・・・
・優秀な武将だが、品がない。
・背が低くて、みにくい顔をしている。
・指が6本あり、目が飛び出していて、ヒゲが少ない。
・女好きで道徳心がない。
・要注意の策略家。
いいところはひとつだけで、あとは悪いところばかりです。
ルイス・フロイスは、豊臣秀吉には厳しい立場をとっています。
キリスト教を禁止した豊臣秀吉ですから、当然ではあります。
それでも、相手を悪くいうのに
指ガ6本アリマシタ。
とはいわないですよね。
ルイス・フロイスが見た天下人の素顔→『残酷な陽キャラ・豊臣秀吉のウラの性格がわかる5つのエピソード』
親友・前田利家の証言「太閤様の右の指はひとつ多い」
加賀国(現在の石川県)の大名・前田利家(まえだとしいえ)は、豊臣秀吉とは若いころからの親友です。
織田信長の世話係として豊臣秀吉・前田利家は、互いに切磋琢磨しながら昇進してきた仲でした。
豊臣秀吉が亡くなる前に、今後のことを前田利家に託(たく)したのは、その信頼関係からすると当然のことです。
そんな豊臣秀吉と親しい関係にあった前田利家が家臣たちに残した名言集ともいえる『国祖遺言(こくそゆいごん)』の中にも、豊臣秀吉の指のことが書かれてあるのです。
太閤様(豊臣秀吉のこと)には右の指がひとつ多く、六つありました。
若い時に六つ目を切ることができただろうに。
前田利家によると、豊臣秀吉にあった6本目の指は、右手だったことがわかります。
豊臣秀吉にとってはマイナスイメージになると考えたことでしょうから、一般の大名たちにはこの事実を書き残すことはできなかったのかもしれません。
しかし、友人である前田利家だからこそ、書き残すことができたのではないでしょうか。
朝鮮出兵の捕虜・姜沆の証言「6本目の指を切り落とす」
豊臣秀吉による朝鮮出兵で捕虜となった姜沆(カン・ハン)という儒学者がいました。
藤堂高虎(とうどうたかとら)の捕虜となり日本に連れてこられましたが、日本の僧らと交流し、日本のことを学んでいきます。
3年の日本抑留生活のあと、朝鮮へ帰国を許された姜沆は、帰国後、『看羊録(かんようろく)』という書物に日本の情勢をまとめました。
その中で、豊臣秀吉についてこう書かれています。
豊臣秀吉は、生まれたときに右手が6本指であった。
成長するにつれて、みんなの指は5本であったので、6本目の指に何の必要があるのかといって刀で切り落としてしまった。
豊臣秀吉に6本目の指があったことは、ルイス・フロイスや前田利家と同じ証言です。
しかし、姜沆の証言では、6本目の指は切り落としてしまったと書かれています。
姜沆の『看羊録』は、豊臣秀吉の晩年の頃の記録です。
また、前田利家の『国祖遺言』は豊臣秀吉の死去後に残したものでしょう。
どちらが本当なのかは、今後の新資料が出るのを待ちたいと思います。
上司・織田信長の証言「豊臣秀吉のあだ名は“六つ目”」
前田利家が家臣に残した『国祖遺言』に豊臣秀吉の右手の指がひとつ多いと書かれていることは、すでにいいました。
さらに、その『国祖遺言』には続きにはこうあります。
信長様は秀吉様のあだ名として″六つ目”と呼んでいた
信長様とは、もちろん豊臣秀吉の上司・織田信長のことです。
織田信長といえば豊臣秀吉のことを“猿っ!”と呼んでいたことは、よく知られています。
ところが、それとは別に“六つ目”と呼んでいたことがあるというのです。
『国祖遺言』にある文の前後を読むと、この“六つ目”と呼ばれていたことは豊臣秀吉本人が、“六つ目”と呼ばれていた過去を暴露しているように読めます。
本人の自白だとすると、6本指自体を気にしてなかったのかもしれません。
豊臣秀吉の肖像画は指6本を隠すように描かれた!
豊臣秀吉の肖像画といえば、京都の高台寺(こうだいじ)にある狩野光信(かのうみつのぶ)が描いたものが有名です。
しかし、この豊臣秀吉の肖像画はどこかバランスが悪いと思いませんか?
豊臣秀吉が当時の日本人としても身長が低かったとされています。
そのため、体の部分は威厳を示すため大きく描かれたと考えられます。
とはいえ、顔を手の大きさが合っていません。
手が異常に小さく描かれているのです。
この豊臣秀吉の小さな手の肖像画は、指6本を隠すためではないかと考えられています。
特に指6本とされる右手は、釈を持つことで自然と指が隠れるように描かれています。
大きな体と釈を描くことで、手には注目されない配慮だったのではないでしょうか。
まとめ:豊臣秀吉は6つ目の手の指をもっていた!記録に残る指6本の証拠!
豊臣秀吉の手の指が6本あったことは、多くの記録を照らし合わせると間違いないでしょう。
仏教が定着している日本では、むしろ六つ目の指があったことは、神がかり(仏がかり?)的な存在として豊臣秀吉の威光に一役買っていたかもしれません。
そう考えると、姜沆の記録した“指を切り落とした”よりも前田利家のいう“指を切らなっかった”方が正しいかもしれませんね。
豊臣秀吉は、誰も思いつかないアイデアと人の心をつかむテクニックで天下をとった男です。
指6本というハンデが、豊臣秀吉にとっては出世を目指すいい発奮材料になったのではないでしょうか。