マザコンにファザコンにロリコンにシスコン、デブ専とか熟女好きとか、人間の性癖には古今東西いろいろあるものです。
歴史好きのくろーるです。
鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス
江戸幕府を開いた徳川家康の人柄を表わした歌として有名な一句。
そんな待ちの天下人・徳川家康が好んだ女性の趣味は、バツありが多かったといいます。
堕ちぬなら 堕ちるまで待とう 人の妻
だからといって、決して不倫や略奪愛ではありません!
旦那が死んでしまったり、離婚されたりした女性です。
徳川家康ともなれば、自分の妻・愛人にする女性など選び放題でしょうが、あえてバツありを選んだともいえます。
それは単なる将軍様の気まぐれな性癖?
それとも、別の狙いがあってのことなのでしょうか?
正妻と愛人のうち3割がバツあり女性
徳川家康の正室いわゆる正妻は2人。
側室は18~20名くらいといわれます。
諸説あってわからないものもいますので、徳川家康の正室・側室の主な女性をまとめてみます。
築山殿(つきやまどの) | 最初の正室 | |
朝日姫(あさひひめ) | 二人目の正室 | 豊臣秀吉の妹で、元夫・佐渡日向守の死後に嫁いだ。 |
西郡の方(にしごおりのかた) | 側室 | 北条氏直の元正室 |
於万の方(おまんのかた) | 側室 | |
於愛の方(おあいのかた) | 側室 | 戸塚忠春・西郷義勝の元妻。二代目将軍・徳川秀忠、四男忠吉の母。 |
於都摩の方(おまつのかた) | 側室 | |
於茶阿の方(おちゃあのかた) | 側室 | 鋳物師の元後妻。六男・忠輝の母。 父・家康に嫌われた松平忠輝について→『狙われた徳川幕府!!日本植民地化計画に影響させた3人の男たち』 |
於亀の方(おかめのかた) | 側室 | 竹腰正信の元妻、石川光正の元側室。九男・義直の母。 |
間宮氏女(まみやしのむすめ) | 側室 | |
於万の方(おまんのかた) | 側室 | |
於梶の方(おかじのかた) | 側室 | 一時、松平正綱に嫁いだが戻っている。 |
阿茶の局(あちゃのつぼね) | 側室 | 神尾忠重の元妻。 |
阿牟須の方(あむすのかた) | 側室 | |
於仙の方(おせんのかた) | 側室 | |
於梅の方(おうめのかた) | 側室 | |
於竹の方(おたけのかた) | 側室 | |
於六の方(おろくのかた) | 側室 | |
於夏の方(おなつのかた) | 側室 |
ここに書かれた女性のうち、30%がバツありです。
しかも、そのほとんどが前半生で自分の妻としています。
徳川家康も元気いっぱいの頃でしょう。
後半生は、肝心なものに元気もないでしょうから、自分の趣味ではなく、見た目とか世間体を考えての側室だったと考えられます。
誰かの妻となった経験、それも子供を産んでいる女性が多いことも徳川家康の好みだったのかもしれません。
兄・秀吉に無理やり離縁され家康の元に『朝日姫』
徳川家康の最初の奥様である築山殿は、織田信長の命令で殺されてしまいます。
そのあとに奥様となったのが、朝日姫です。
朝日姫は豊臣秀吉の妹ですので、この縁談は政略結婚に他なりません。
東海道の有力大名となった徳川家康と協力関係を強くするために、豊臣秀吉から持ち掛けられたものでした。
このとき、朝日姫はすでに織田家の家臣に嫁いでいたにも関わらず、無理矢理離婚させられ、徳川家康の奥様となったのです。
これには徳川家康も困ったようですが、次の天下人・豊臣秀吉に逆らうこともできなかったのでしょう。
このとき、徳川家康45歳。
朝日姫は44歳。
当時としては、かなりの高齢結婚ですよね。
ちなみに、朝日姫はお世辞にも容姿端麗とはいえなかったと伝わります。
また、病気がちだったようで、徳川家康に嫁いでから3年後に亡くなってしまったのです。
仲は悪くはなかったようですが、徳川家康と朝日姫の間には子供はできませんでした。
年齢や朝日姫の体調を考えると当然ともいえます。
権力闘争に巻き込まれた人生ではありますよね。
もっとも家康が愛した女性『阿茶の局』
父は武田家の家臣であったといわれ、今川家の家臣に嫁ぎ、2人の男子を産んでいます。
徳川家康がもっとも愛した女性として知られます。
頭が良く賢いところも徳川家康が気に入っていたとされ、戦場にもよく同行させていたそうです。
阿茶の局に意見を聞くことも多く、その意見を参考に戦略を練ることもあったとされます。
もっとも愛された女性でありながら、徳川家康との間には子供ができませんでした。
それでも、二代目将軍・秀忠、四男・忠吉の養母になっています。
これは二人の母である於愛の方が早く亡くなってしまったためです。
秀忠・忠吉ともに温厚な性格で知られますが、阿茶の局の影響を受けたのかもしれません。
家康の寝取り趣味ここに極まれり『於梶の方』
徳川家康の正室・側室には、元の既婚者・バツありが多いのですが、その中で異色のバツあり女性がいます。
それが「於梶の方」です。
江戸城を築城したことで知られる太田道灌(おおたどうかん)の血縁者といわれます。
於梶の方は、元から徳川家康の側室になっていました。
ところが、あるとき徳川家の家臣・松平正綱に嫁いでいます。
しかし、すぐに徳川家康のところへ戻されているのです。
松平正綱とのところから戻された理由については、「すでに徳川家康の子供を身籠っていたから」とか「徳川家康が手放すのを嫌がったから」ともいわれます。
でも、本当のところは、徳川家康の寝取り趣味のためだったのでは?という話もあります。
家臣の妻になった女性を、自分のものにする。
なんとも悪趣味ですね!
とはいえ、於梶の方もまた阿茶の局と同じように、大変賢かったといわれています。
関ヶ原の戦いにも同行しており、縁起をかついで「梶(かじ)」→「勝(かつ)」に改名させたともいいます。
また、のちに大奥を仕切ることになる春日局(かすがのつぼね)とも関係が良かったといわれます。
春日局は、三代目将軍・家光の養母です。
家光を三代目にする際にも、於梶の方の援助があったとされるのです。
於梶の方は、徳川家康最後の子で五女・市姫を産んでいます。
『春日局』は家康のオンナ!?三代目将軍誕生の疑惑
徳川家三代目将軍・家光の養母・春日局は、実は徳川家康と男女の仲だったのでは?との噂があります。
となれば、徳川家光の本当の父は徳川家康なのではないか?という噂もあるわけです。
というのも、徳川家光は、父・徳川秀忠と母にも嫌われていたこともその根拠のひとつになっています。
子供のころは、病気がちで性格も暗かった徳川家光。
これでは、将軍の器ではないと思われていたのです。
それに比べて、弟・忠長は利発な子供だったため、家臣も三代目は弟が適任と思われていました。
ところが、養母である春日局が徳川家康に直談判!
みごと、三代目将軍となるのです。
この無理矢理なねじ込み具合からも、
春日局殿と家康様は男女の仲では!?
家光様は、家康様の子供では!?
この話がひとつの要因です。
それと、もうひとつ。
春日局が養母になった経緯に、不自然なところがあるからです。
通りに掲げられていた募集記事を見て、養母になった春日局。
家光の養母募集!!
次期将軍になるかもしれない子供の養母にしては、ずいぶんと軽い感じでの募集です。
しかも、春日局は小早川秀秋(こばやかわひであき)の重臣・稲葉正成(いなばまさしげ)の妻でした。
小早川秀秋といえば、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利する最大の功績者です。
どうも怪しい関係に見えますよね。
どの時点で男女の仲になったかはわかりませんが、これは不倫の可能性も出てきます。
″他人の妻で聡明な女性″という点では、徳川家康好みであることは間違いないのです。
将軍様の性癖はイロイロ❤→『3代将軍・徳川家光は男好き!将軍に愛された3人の男と大奥誕生秘話』
将軍様は寝取り好き!徳川家康の妻にバツありが多かった理由とは? まとめ
徳川家康の好みがバツあり女性であるのか、それとも寝取り趣味なのかは諸説あります。
ただ、あえて結婚経験がある女性を選んでいるのには、子孫繁栄を考えてのことではないでしょうか。
健康マニアとしても知られる徳川家康。
そのマニア度は、医師も驚くほどの医学知識と自分で薬を調合していたというエピソードでもよくわかります。
結婚経験者で、さらに子供を産んだ経験がある女性は、体は丈夫である可能性は高いわけです。
朝日姫のようなケースもありますが、子供ができる可能性も高いといえます。
遅咲きの天下人であった徳川家康は、女性選びにも徳川家の繁栄を想定していたのかもしれません。
その成果は、250年の太平を築いたことで証明されています。