徳川幕府を倒す大きな勢力のひとつであった長州藩(現在の山口県)。
長州藩が倒幕の中心となった大きな理由として
支配者層はあてにはならない。庶民とともに決起すべし!
という松下村塾の吉田松陰(よしだしょういん)の思想がありました。
歴史大好き、くろーるです。
庶民とともに決起すべしという吉田松陰の思想の元に、松下村塾塾生・高杉晋作(たかすぎしんさく)によって創設されたのが『奇兵隊(きへいたい)』だといわれています。
外国艦隊の攻撃に対してまったくの非力であった長州正規軍に危機感を抱き、身分にとらわれない軍隊を創ることを考えたというのです。
奇兵隊の原動力とされたのは「平等と実力主義」。
藩士・陪臣・足軽・農民・町人など国を守る志さえあれば、誰でも入隊できたのです。
身分に関係なく入隊できることから、全体の半数の兵士が武士ではなく庶民で構成される、幕末としては異例の軍隊となりました。
奇兵隊は、新しい明治という時代の到来を予感させる存在として、現代でも高い評価を受けています。
しかし、その実態は平等というのは名ばかりの軍隊だったというのです。
武士階級と庶民では、服装まで変える規則が存在し身分差別がある軍隊でした。
理想の軍隊とされた奇兵隊の本当の姿を追ってみます!
四民平等の先駆けといわれた「奇兵隊」の経緯を簡単に解説
江戸時代末期に長州藩で創設された常備軍のひとつで、平民でも入隊できることが特徴でした。
奇兵隊創設のきっかけとなったのは、1863年(文久3年)に長州藩とアメリカ・イギリス・フランス・オランダの連合艦隊との間に起きた下関戦争でした。
ペリー来航に象徴される外国船の日本近海での出現により、鎖国状態であった国内では外国を排除しようという「攘夷論」が盛んに提唱されていました。
長州藩はその急先鋒のひとつでした。
ところが、下関戦争で外国連合艦隊との戦闘は、武器・兵力・戦略の圧倒的な差の前に敗北してしまったのです。
長州藩士であった高杉晋作は、密航により上海を見てきており、外圧に負けた国の行く末を知っていました。
このままでは、日本は上海と同じようになる・・・
下関戦争の結果は、日本が当時の清と同じ末路をたどるという危機感を抱きます。
武士だけで構成された軍隊では勝てなかった長州藩には、藩内すべてがまとまった勢力となる必要を感じていたのです。
そこで考案されたのが、すべての身分のものから兵を徴収する軍隊「奇兵隊」だったのです。
四民平等の先駆けとして、「奇兵隊」はシンボル的な存在といえます。
ところが、必ずしも平等な軍隊を創ろうとして高杉晋作が考えていたわけではなさそうです。
庶民参加は想定外だった!?奇兵隊初代総督・高杉晋作
奇兵隊を創設し、その初代総督になったのが高杉晋作です。
下関戦争の敗北を受けて長州藩主に意見を求められた高杉晋作は、「奇兵隊結成網領」と呼ばれる5か条から成る軍隊案を提出します。
一、有志のものの集まりとし、藩士・陪臣・下級武士を問わない。
一、いいたいことは書面をもってすぐに提出するので藩主へ直接伝えるようにする。
一、正規軍から奇兵隊への移籍も、希望があれば認めること。
一、戦闘の経過はすぐに報告するので、賞罰を早く決めて欲しい。
一、武器は各自得意なものを使用して戦うこと。
正兵に対して奇兵とせん。
この高杉晋作の一言が奇兵隊の名となりました。
「奇兵隊結成網領」を見る限り、四民平等を掲げているように読むことができます。
しかし、一か条目にあるように、長州藩を守り戦う意思のあるものを集めるといいつつも、そこには庶民を想定していません。
あくまで武士階級のなかで、上下の階級を問わずに募集するとなっているのです。
そのため、正規軍からの募集も想定していたことが、三か条目に書かれています。
奇兵隊への勧誘も実際に行われており、移ったものもいたようです。
また、高杉晋作自身も奇兵隊は本意ではなかったようで、
やむを得ずに考えた策であることをご理解いただきたい。
という内容の手紙を上司に送っています。
とはいえ、高杉晋作が庶民の入隊を考えていなかったわけでもないでしょう。
奇兵隊結成当初から入隊している庶民もいました。
ただ、奇兵隊に入った平民身分のものは、武士に昇格させようとしていたこともわかっています。
奇兵隊の創設者でありながらも高杉晋作自身は、兵隊は武士でつくるものという考えから抜け出せなかったのかもしれません。
奇兵隊に入れば武士になれるという噂もあったといわれますが、この高杉晋作の考えを見ると本当であったと考えられます。
庶民にしても、当然、″平等″などという考えはなかったでしょうから、武士になれるということは奇兵隊入隊の動機になったはずです。
そのおかげで、長州藩では奇兵隊以外にも庶民で構成された部隊が次々と創設されました。
ただ、高杉晋作の手紙にもあるように、長州藩としては臨時の部隊という考えは最後まで変わっていなかったのでしょう。
この入隊を希望したものと、長州藩上層部との考えのズレが、奇兵隊の悲劇的な最期へとつながっていきます。
脱走して切腹した奇兵隊二代目総督・河上弥市
奇兵隊の活動は結成から六年半ほどありますが、そのうち高杉晋作が総督であった期間は3ヶ月ほどと短いものです。
奇兵隊創設の早い段階で、総督の立場を辞めています。
高杉晋作が奇兵隊を去ることになるきっかけとなったのが「教法寺事件」と呼ばれるものです。
教法寺事件
1863年(文久3年)8月に奇兵隊と長州正規軍との感情的対立から起きた襲撃事件。長州正規軍の宿舎を教法寺に置いており、そこを奇兵隊が襲ったため事件名となった。
長州藩内での奇兵隊の勢力が大きくなる中で、元々の正規軍との間で感情的な軋轢(あつれき)が生まれていました。
今まで農民だ町民だといって差別していたものが、武士と同じ立場で軍隊にいるのですから、武士階級としては面白くありません。
また、差別されてきた庶民は、同じ立場になった武士からあれこれ言われるのは、気分が悪いでしょう。
これにより正規軍と奇兵隊が衝突し、殺害事件に発展してしまいます。
この教法寺事件の責任をとって高杉晋作が奇兵隊を辞めたことになっていますが、より政治的立場になったことが真実のようです。
奇兵隊という一部隊の隊長ではなく、もっと長州藩の政治要員として活躍の場を広げることになったのでしょう。
高杉晋作が奇兵隊を去ったあとを継いで二代目総督となったのが、21歳の河上弥市(かわかみやいち)と22歳の滝弥太郎(たきやたろう)でした。
河上弥市は、奇兵隊創設からのメンバーのひとりで、正規軍からの移籍組でもありました。
要は、奇兵隊でのキャリアが長い上に、武士の中でも身分が上位にあったということです。
ここでも、奇兵隊の身分制度には上下の関係があることが見て取れます。
その河上弥市は、奇兵隊を脱走してしまったことで二代目総督の役割を終えました。
生野の変という攘夷派のテロに参加しようとしましたが失敗し、切腹してしまいます。
奇兵隊三代目総督・赤禰武人は初の庶民出身
二代目総督・河上弥一が脱走し、滝弥太郎も長州藩の藩要員となったため、三代目奇兵隊総督となったのが赤禰武人(あかねたけと)でした。
赤禰武人は、奇兵隊創設以来初めての庶民出身の総督だったのです。
医者の家に生まれた赤禰武人は、吉田松陰や京都の攘夷運動家・梅田雲浜の指導を受けて攘夷運動へ参加していきます。
また、長州藩重臣の養子になることで武士の身分を手に入れます。
高杉晋作とは、イギリス公使館焼き討ち事件の際に同じく活動をしており、奇兵隊でも創設当初のメンバーのひとりだったのです。
赤禰武人は、三代目奇兵隊総督として四民平等の部隊にしたいと考えていたようです。
長州藩政府に対して、1通の嘆願書を提出しています。
そこには、奇兵隊に入隊したものすべてに武士としての身分を与えて欲しいと書かれています。
「平等と実力主義」の奇兵隊は、赤禰武人のときには実現できたのかもしれません。
しかし、この赤禰武人の嘆願書は長州藩政府に受け入れるられることはありませんでした。
むしろ、この四民平等の奇兵隊を願った嘆願書によって、赤禰武人の立場を追い詰めることになります。
長州藩政府は元々、奇兵隊は急場ごしらえの部隊という考えがありました。
そのため、庶民を全部武士にするなどという考えはありません。
赤禰武人の嘆願書は、身分をわきまえない失礼なものと反感を買うことになってしまいました。
それでも、赤禰武人は奇兵隊総督として働き続けます。
徳川幕府による長州征伐の際には、藩の考えが徳川幕府に従う(俗論党)か徹底抗戦(正義党)で二分する中を融和させ、内戦を避けようとしました。
この動きが、今度は奇兵隊内や抗戦派の人々に裏切り者としての印象を与えてしまいます。
俗論党が優勢となり、一度は徳川幕府に従う姿勢を示した長州藩でしたが、正義党の首謀である高杉晋作が挙兵すると、奇兵隊の大半も合流し長州藩内は抗戦の方針に傾いていきます。
これ以後、赤禰武人は二重スパイとしてどちらからも疑われることとなり、捕らえられた上に、ろくな裁判も受けられずに斬首となったのです。
赤禰武人の総督が続いていれば、奇兵隊はもっと違った評価を受ける部隊になっていたかもしれませんね。
実権を長州藩政府に握られつつやっかいものとなった奇兵隊
赤禰武人が総督から降ろされたころから、奇兵隊の扱いが変わっていきます。
四代目奇兵隊総督となったのは、山内梅三郎という17歳の少年です。
そして、奇兵隊を含む諸隊の実権を握ることになったのは、長州藩軍艦・山県有朋(やまがたありとも)だったのです。
山県有朋
長州藩出身。松下村塾の塾生であり、奇兵隊軍艦などを勤める。戊辰戦争では北越方面を指揮した。徴兵制を導入するなど実質的な日本陸軍の創設者として知られる。第9代内閣総理大臣。
のちの明治政府で陸軍の大臣となる山県有朋は、政治家としては賄賂(わいろ)をもらうなど評価は良くありません。
それでも、山県有朋も松下村塾で学んだ吉田松陰の門下生で、第二次長州征伐からその後の戊辰戦争も長州軍を率いて戦いました。
長州藩内で名実ともに実力をつけつつあった奇兵隊を、なんとかコントロールしようとしはじめていたのです。
そのため、軍編成として奇兵隊の上に干城隊(かんぎたい)という正規軍を置き、その下に奇兵隊などの諸隊を置くことにします。
そして、この案を考えたのが、奇兵隊創設者である高杉晋作でした。
まず、長州藩政府から干城隊へ指示がされ、その指示を奇兵隊などの諸隊へ伝えるという体制だったのです。
これでは、奇兵隊は干城隊がなくては動くことができません。
さらに、奇兵隊からの意見を聞く体制は敷かれず、外敵を守ることだけを役目として負わせることとして各地へ配属させることになったのです。
ところが、奇兵隊としては
「誰のおかげで守られているんだ!!」
という考えがあるため、簡単には指示に従う状態にありません。
それでいて、長州藩政府も奇兵隊なしには防備ができないというジレンマに陥っていたのです。
奇兵隊などの庶民が参加した諸隊は、やっかいな存在になってきていたのです。
明治新政府から粛清された血みどろの奇兵隊の最後
やっかいもの扱いされながらも、奇兵隊の存在そのものの重要性は理解されていたため、長州征伐後の政権移行、そして戊辰戦争へは長州藩の主力として戦うことになります。
奇兵隊を含む長州軍は、同じ討幕派である薩摩軍とともに北越方面を担当します。
長岡藩の激しい抵抗戦を制し、会津戦争でも活躍を見せた奇兵隊。
戊辰戦争は、その後箱館戦争まで続きますが、奇兵隊は会津戦争のあとは山口藩へ引き上げます。
このときには長州藩から山口藩へ移行されました。
山口藩へ戻ってからの奇兵隊には、過酷な運命が待ち受けていました。
すでに奇兵隊を含む庶民隊が5,000人以上になっていたため、山口藩としては一部だけを正規軍として採用し、その他のものには除隊を命じたのです。
山口藩としては、元から臨時の部隊と思っていた奇兵隊などの庶民隊ですので、元に戻るだけのことという認識です。
しかも、正規軍として残るものたちは、武士の身分が優先されるという身分制度がありました。
またも身分差別は解消されず、使い捨てのような扱いに、奇兵隊はじめ諸隊の1200人あまりの脱退兵が抵抗する姿勢を見せたのです。
この抵抗には山口藩のみならず明治新政府が、危機感を募らせたのです。
戊辰戦争が終結してから間もなくのこと。
明治新政府としての地盤が固まっているわけではない状況での内乱は、どこへ飛び火するかわかりません。
元長州藩出身で明治新政府の内務卿となっていた木戸孝允(きどたかよし)は、大阪からの援軍も送り込み、この脱退騒動を抑え込みます。
捕らえた脱退兵のうち、約100人を逆賊として処刑するという過激なものでした。
抵抗した脱退兵のうち、約7割が農民・町民出身者だったことからも、いかに身分による差があったかを知ることができるでしょう。
日本最初の身分差別のない部隊は、こうして解体していったのです。
服装も身分差別だらけだった奇兵隊
奇兵隊にははっきりした身分差別意識があったことは、ここまで書いたことでもわかると思います。
さらに、身分差別をはっきりさせていたものとして服装があります。
奇兵隊には、藩士・陪臣・足軽・町民・農民といったそれぞれの身分のものが一緒に部隊を結成しました。
しかし、部隊の中では戦うときの服装には決まりがありました。
一番上の身分は藩士になりますが、服装には模様などを認めているものの、その下のものには条件付で模様を認めるとされていました。
さらに、その下のものについては、無地のものだけを着用するようにされていたのです。
また、袖のところに「袖印」というものを着ける指示があったことが確認される文章があります。
それによると身分によって袖印の素材が指定されており、素材を見るだけで身分がわかるようになっていました。
そして、苗字のあるものは苗字を、名しかないものは名前だけを書いたり、仕える主人を書くという指示もありました。
この指示に従わないものや違反したものには罰則もありました。
奇兵隊内において、身分の違いをハッキリさせる意図があった証なのです。
ちなみに、庶民初の奇兵隊総督・赤禰武人と初代総督・高杉晋作が戦略方針で対立したときがありました。
高杉晋作に意見を述べる赤禰武人に対し、
赤禰など土民のクセに!
そう高杉晋作がいったという記録もあります。
創設者からして身分差別が抜けていないのですから、奇兵隊が差別のない理想の部隊とはホド遠かったことがわかりますね。
「平等と実力主義」は奇兵隊の創設目的ではなかった!その実態とは? まとめ
奇兵隊をはじめとした身分に関係なく戦った諸隊を、最後に率いていた山県有朋。
欧米の視察から帰ってきた山県有朋は、国民皆兵の実現に動きます。
国民皆兵は、皮肉にも武士階級を否定し、身分に関係なく徴兵をする制度だったのです。
ただ、山県有朋が求めた国民皆兵とは、身分には関係なく、指示に従順な兵隊組織でした。
確かに身分は関係なく、実力・能力による採用には変わりありません。
しかし、それは奇兵隊に参加した庶民が求めるものとは違っていたのではないでしょうか。
赤禰武人が求めたような奇兵隊の姿が実現していたなら、もっと日本軍の姿も変わっていたのかもしれませんね。