「いったん鞘から抜くや、血を見ずにはいられない」
その切れ味は凄まじく、小川を流れてきた落葉が刃に当たるだけで切れたといわれる「村正(むらまさ)」
歴史大好きくろーるです。
名刀としてこの世に生まれた「村正」
名のある武将がこぞって欲しがったといわれるほどでした。
それがいつの間にか、その刀には呪詛(じゅそ)が宿り、“妖刀”として名が知れることになります。
徳川家に災いをもたらすとされ「妖刀」となった村正。
「妖刀・村正」の災いとはどのようなものだったのでしょうか?
“斬りたい・・・”衝動に駆られる名刀「村正」の魅力
室町幕府の中期、伊勢国(現在の三重県)の刀匠・千子村正(せんじむらまさ)によって打たれた日本刀、それが「村正」です。
「名刀・村正」とは、一振りの刀を指しているわけではありません。
刀匠・千子村正またその技術を継いだ村正が打った刀剣すべてを指します。
村正の打つ刀が名刀と言われるのはその抜群の切れ味。
けっして鑑賞するためではなく、実戦において抜群に斬れる刀だったのです。
斬れる刀を手にしたとなれば、武士なら心に思うところはただひとつ。
この村正で斬ってみたい・・・
そう、人を斬りたい衝動にかられるのも当然なのかもしれません。
そんな黒い衝動を抱えながら眺める、美しい刃紋からは、
妖しい光を放つ・・・
ともいわれました。
特に、質実剛健で屈強といわれた徳川家康の家臣団・三河武士たちが好んで手にいれたといわれます。
その後、戦国の時代から刀を必要としない江戸時代へ移り変わる中で、村正は名刀から妖刀へと変わっていきます。
徳川家を4代にわたって災いをもたらした「村正」の妖力
戦国時代には、豊臣秀次(豊臣秀吉の甥)や徳川家康も愛用し、名刀といわれた「村正」
その名刀・村正は、徳川家のものたちに不幸をもたらします。
ついには、村正をもつことを禁じられることへとなるのです。
徳川家に不吉とされ、妖刀となった村正の災いとはどのようなものだったのでしょう。
家臣に斬殺された徳川家康の祖父・松平清康
最初に村正の犠牲となった徳川家康の祖父・松平清康(まつだいらきよやす)。
斎藤道三と織田信長が領地争いをしている間隙をついて、松平領拡大のために織田領・尾張国(現在の愛知県)に侵攻します。
織田信長の弟が守る守山城攻撃の陣中でのことです。
家臣・阿部定吉(あべさだよし)は自分に謀反の疑いがかかっていると息子・阿部正豊(あべまさとよ)に話します。
これは全くの根拠のないウワサでした。
ところが、父が殺されるかもしれないと動揺した阿部正豊は、松平清康を背後から斬りつけたのです。
このとき、阿部正豊の愛刀こそ村正だったのです。
馬小屋から馬が逃げ出しただけの些細な騒動を、攻められたと勘違いしての殺害でした。
松平清康は右肩口から脇腹まで斬られたといわれます。
まるで真っ二つになったようだった!
この出来事は、むしろ村正の切れ味の凄まじさを見せつけることになりました。
村正によって鋭く斬られた松平清康は、その場でまもなく絶命したのです。
再び家臣に殺害された徳川家康の父・松平広忠
徳川家康の祖父・松平清康が村正によって家臣に殺害されると、そのあとを継いだのが徳川家康の父・松平広忠(まつだいらひろただ)でした。
松平広忠は、このときわずか10歳。
“守山崩れ”ともいわれる松平清康の突然の敗戦で、本拠地・岡崎城も奪われ、放浪生活となったのです。
長男である徳川家康を今川義元(いまがわよしもと)へ人質に差し出すことで協力を得て、織田信長に対抗するも、その人質を織田信長に奪われるというアクシデントも発生します。
今川家と織田家の間で人質生活を送った徳川家康も悲惨ですが、たかだか10代で一族・家臣を率いる松平広忠の苦労も大変なものだったでしょう。
そして松平広忠もまた、側近・岩松八弥(いわまつはちや)のもつ村正の脇差によって、24歳の若さで亡くなってしまいます。
岩松八弥がなぜ主君である松平広忠を襲ったのかは謎です。
敵対した織田信長の工作によるものであったのか、もしくは主従関係のもつれか・・・
それとも、村正の妖力に取りつかれた末の狂気だったのでしょうか・・・
徳川家康の長男・松平信康の腹を切り裂いた不吉な刀
徳川家康には将来を期待した長男がいました。
松平信康(まつだいらのぶやす)です。
武勇に優れ、徳川家の本拠・岡崎城を任せるほどの人物でした。
今川義元を滅ぼし、尾張の領主となっていた織田信長と三河の領主・徳川家康は同盟関係を築いていました。
ところが、徳川家康の妻・築山(つきやま)殿が武田信玄と内通しているという情報が織田陣営に伝わります。
気の短い織田信長のこと、
徳川家康の裏切りか!!
釈明する徳川家康の言葉には耳を貸さず、潔白の証明として、築山殿の処刑と長男の切腹を言い渡したのです。
織田信長との同盟関係なしには、徳川家の存続はなかったころのこと。
徳川家康は、泣く泣く織田信長の条件を受け入れたのです。
そして、長男・松平信康が切腹した刀こそ、またまた「村正」だったといいます。
徳川一族を次々と死に追い込む不吉な刀と言われ始めたのでした。
触れるだけでも血を流す!二度も襲われた徳川家康
村正の災いは、徳川家康の親族だけではありません。
徳川家康本人へも降りかかっていました。
そのはじめは、今川義元の人質になっていた幼少の頃、村正の小刀によって手を切るという些細なものでした。
そして二度目の災いは、1600年(慶長5年)におこった関ヶ原の戦いでのこと。
織田信長の弟・織田有楽斎(おだうらくさい)の息子・織田長孝(おだながたか)は、関ヶ原の戦いで徳川家康陣営の東軍に味方していました。
関ヶ原の戦闘の中、織田長孝のもっていた槍は敵の兜を貫き、そのまま武将の体を貫き通したのです。
ところが、織田長孝の槍は傷ひとつなかったというのです。
それほどの見事な槍を見たいと望んだ東軍大将・徳川家康。
徳川家康がその槍を手に取ると、手を滑らせて穂先に当たり、血がタラタラと流れて来たではありませんか。
「・・・この槍、もしや村正では・・・」
正に、村正の槍だったのです!
「奉公に役に立たない槍など必要ない!」
織田長孝は、その槍を壊してしまったといいます。
触るだけでも徳川家を傷つけるほど、村正の刀剣の妖力は強かったのです。
非業の最期が訪れる!徳川滅亡の願をかけ「村正」をもったものたち
徳川家に災いをもたらす「村正」。
それは別の見方をすると、反徳川にとってはなくてはならないもの。
徳川家に歯向かうものたちは、「村正」に願をかけて手元に置こうとしていました。
しかし、一度鞘から離れると血を見ずには収まらないといわれる「村正」だけに、手にしたものは非業の最期を遂げるともいわれます。
真田幸村 | 関ヶ原の戦いでは西軍につき、大坂の陣では豊臣家に招かれ五大将として奮戦 したものの、撤退途中で討ち取られた。 大坂の陣の悲劇→『大坂夏の陣の闇!屏風に見る惨劇!殺人略奪に女性子供の人身売買!?』 |
由井正雪 | 三代将軍徳川家光の死後、浪人を集めて幕府転覆を計画。一般に由井正雪の乱を知られる。しかし、事前に計画が発覚し、取り囲まれた宿屋で自害。 |
西郷隆盛 | 幕末の倒幕運動のリーダーであり、江戸無血開城でも知られる。徳川幕府を倒す ことには成功したものの、明治時代に入って西南戦争を起こす。新政府軍に鹿児島まで追い詰めれ、最後は自害。 江戸無血開城の真相→『圧力に屈した西郷!してやったりの勝!謀略だらけの江戸無血開城』 |
伊藤博文 | 長州藩出身で幕末の尊王攘夷志士でもあった。初代内閣総理大臣。「村正」を美術品として所有していた。韓国併合の慎重派にも関わらず、ハルビンで暗殺される。 |
「村正」のもつ妖力は、必ずしも徳川家に向かっていたばかりではなく、その持つもの力をも奪っていたのかもしれませんね。
徳川家には災いを!もつものには非業の死!「村正」は名刀か?妖刀か? まとめ
実戦での名刀として知られた名刀・村正。
三河武士を中心に多くの村正が出回ったのですから、それだけ多くの事件にも使われた可能性はあります。
徳川家に災いをもたらしたというのも、確率的には高かったともいえます。
ただ、村正を手にしたものが、その切れ味を試したという思いを抱いたのも事実ではないでしょうか。
その妖しい魅力に取りつかれ、人を斬ってしまったとしたら、まさしく「村正」は妖刀だったのかもしれませんね。