「敵に塩をおくる」
苦境にある敵を助けることを意味する、このことわざで知られた上杉謙信(うえすぎけんしん)。
最大のライバルである武田信玄(たけだしんげん)の窮地(きゅうち)を救ったエピソードは有名です。
歴史好きのくろーるです。
上杉謙信は私利私欲のために戦をすることは、生涯に一度もなかったといわれます。
軍神・毘沙門天(びしゃもんてん)をあがめ、血で血を争う戦国時代において正義のために戦った姿にファンとなった人も多いことでしょう。
ところが、上杉謙信の戦の目的は他のところにあったというのです。
上杉謙信は本当に義の武将だったのか!?
“越後の龍”と呼ばれた男の真意を探ります!!
義に熱い男・上杉謙信は人助けのための戦いしかしなかった??
越後国(現在の新潟県)を支配下に置いていた上杉謙信は、雪国で鍛え抜かれた精強な軍隊をもっていたとされます。
武田信玄との5度にもわたる川中島の戦いは、戦国時代のライバル対決として知られています。
しかし、武田信玄が自国の領土拡張を目的にしていたことに対し、上杉謙信は他の国の救援要請に応える形で越後軍を出していたとされます。
上杉謙信の主な戦いとその目的は、次のとおりです。
川中島の戦い(1552年~1557年)
もっとも有名な上杉軍VS武田軍の戦い。生涯7度にわたり武田信玄軍と戦うものの決着がつかなった。武田軍に信濃(現在の長野県)の領地をとられた村上義清(むらかみよしきよ)のために、領地を取り返すための戦いだったといいます。
小田原城の戦い(1560年~1561年)
関東を支配下においていた北条氏康との戦い。北条氏康の関東支配によって没落した関東管領・上杉憲政のために、権威回復を目的として戦ったとされます。豊臣秀吉による小田原征伐とは異なります。
小田原北条家と小田原征伐の真相→『北条氏政は名君だった!秀吉の心変わりで勝ち目を失くした小田原征伐』
北条氏康も武田信玄も自国の領土拡大のために戦いを続け、その戦いにより民衆は貧しい生活をさせられていたのです。
関東一円の戦争を収束させ、民衆の平和を取り戻すことが上杉謙信の戦い続ける意味なのです。
正義のためならば、ひとつの得にもならないことでも手を貸す、実に義に熱い男!!
戦国時代に、こんなお人好しな人が生き続けられるものでしょうかね?
領土を拡大したどころか地位と名誉をもらった関東侵攻
上杉謙信のいる越後国が関東から見ると北側にあることに対し、北条氏康は関東周辺を支配下に置いていました。
小田原城の戦いが起こったころは、北条氏康は自国の西側の武田信玄と手を結び、同盟関係を築いたのです。
北条氏康が勢力を拡大するためには、北へ向かっていくしかありません。
また、この頃関東管領であった上杉憲政は、すっかりその威厳をなくしていました。
関東管領(かんとうかんれい)
ときの室町幕府将軍から関東地方の統治を任された役職で代々上杉氏が任されてきた。本来は地方豪族でしかない武田家や小田原北条家も従う立場でした。
しかし、従うどころか、その領地も奪われるありさまだったのです。
上杉謙信のことについて書かれた『北越家書』では、
上杉憲政殿のお供として関東に侵攻する!!
となっています。
でも、実のところ、北条氏康が上杉領に侵攻してくるのは時間の問題。
いずれは、北条軍VS上杉軍という戦いは避けられませんでした。
そこへタイミング良く舞い込んだ上杉憲政の話に乗っかっただけなのです。
関東管領・上杉憲政の肩書は、戦国時代においても″室町幕府将軍の代理人”として十分通用しました。
その証拠に、北関東の武将たちはすぐに上杉軍へ協力を誓うことになります。
″関東管領″ってメチャクチャ使える♪
上杉謙信の旧姓は「長尾」でしたが、上杉憲政援護の謝礼として『上杉』姓を名乗ることを許され、『 上杉謙信 』となったのです。
領土を拡大できただけでなく、″関東管領を助けた義理堅い武将”というイメージアップに成功し、名誉と地位まで手に入れます。
上杉謙信はちゃっかりしている男なのです。
上杉軍、関東へ冬の出稼ぎにゆく!そして、奴隷を狩る!
上杉謙信が北条氏康を攻めた関東侵攻については、“義の武将”としての人格に疑問が出てきました。
そこでもうひとつ、上杉謙信が戦いをする時期について、奇妙な一致があります。
北条氏康との関東侵攻は、全部で8回におよびます。
8回もの関東侵攻をしていながら、上杉謙信の領土となったところはほんのわずか。
そのワケは、上杉謙信が越後で引き上げたあとで、北条氏康に奪い返されているからです。
せっかく越後からやってきて、多くの犠牲を出しながらも、あとの統治がうまくいっていません。
いくら「正義のため戦い」とはいっても、「労多くして益無し」って、どんだけお人好しなんだ!
ところが、もうひとつの共通点がありました。
関東侵攻は冬の間に行われているのです。
簡単に奪い返される上に、わざわざ移動のしにくい冬にしかやってこない正義の武将。
リアル冬将軍か!?
違います!!
上杉謙信の関東侵攻の真の目的は、乱取りと出稼ぎだったのです。
越後国は冬には雪によって閉ざされるため、食料も乏しくなります。
冬の間に他国へ戦争へ出かけることで男たちの人数が自国である越後国からは少なくなります。
その分は、女性や子供・老人たちの食料確保ができるということです。
そして、戦いに勝てば、そこで食料や物品確保もできます。
戦国時代は、勝った方は負けた方のものを好きなだけ奪うことができました。
これが戦国時代の暗黙のルール「乱取り」といわれるものです。
最後の乱取りの戦場→『大坂夏の陣の闇!屏風に見る惨劇!殺人略奪に女性子供の人身売買!?』
5回目の関東侵攻について書かれたことの中には、事実としてこのような記載もあります。
越後勢の攻撃で開城した小田原城では、人の売り買いが行われた。その売値は20~30文。
上杉謙信の名誉のためにいっておきますが、乱取りは越後兵だからやったことではありません。
戦国時代の武将たちは、誰でもがやっていたことです。
上杉謙信の関東侵攻は、越後の厳しい冬を乗り切るための出稼ぎ労働策だったのです。
戦国時代の奴隷狩り!義の武将・上杉謙信の関東侵攻は乱取りが目的!!まとめ
義を重んじ、自国のためではなく、他人のために戦ったといわれた上杉謙信。
実際のところは、自国の領民のための経営戦略としての関東侵攻だったと思われます。
他国の領民してみれば、略奪されるわけですから迷惑なことですが、越後国も人々にしてみれば上杉謙信は立派な領主になりますよね。
どちらの視点で見るかのよって、偉人かどうかの典型ともいえるのではないでしょうか?