転職するたび出世する!武将・藤堂高虎の七度の主君替えエピソード

日本史(戦国時代)

『二君にまみえず』

一生に一人の主君のために忠誠を尽くすことが、“武士の鑑(かがみ)”といわれた戦国時代に、七度も主君を変えた男がいました。

歴史大好き、くろーるです。

足軽という軽い身分から32万石の大大名にまでなった藤堂高虎(とうどうたかとら)。

しかし、“ゴマすり大名”“世渡り上手”と後世の評価はあまりよくありません。

藤堂高虎が仕えた主君には、浅井長政・豊臣秀吉・徳川家康と歴史の表舞台で名を残したものばかりです。

ただのゴマすりだけで生き残れるほど、甘い戦国時代ではありません。

転職武将・藤堂高虎に学ぶ自分を磨く極意に迫ります。

最初の主君は織田信長の義弟であり裏切った男・浅井長政

近江国(現在の滋賀県)出身の藤堂高虎は、幼い頃から体が大きかったといわれます。

藤堂高虎の身長はおおよそ190cm・体重は130kgほどもありました。

身体の大きさだけでも、一度見たら忘れないほどのインパクトを残したでしょうね。

近江国を治めていたのは、織田信長の妹を妻にした浅井長政(あざいながまさ)でした。

浅井家で足軽(最下級の兵士)となった藤堂高虎は、初めての戦場となった姉川の合戦で敵兵士を倒す活躍をして浅井長政から褒美をもらっています。

浅井軍の中でも、藤堂高虎ははじめから注目されることになります。

“男の嫉妬は女よりやっかい”といいます。

ひよっこ兵士のくせに褒められるとは生意気だ

陰湿なイジめにあったのです。

まだ若くて血気盛んな藤堂高虎は、イジめた奴を斬り捨てて、そのまま浅井軍を飛び出してしまいます。

自分が悪いわけではありませんが、人を殺してしまってはいられないのは仕方のないことです。

とはいっても、浅井長政がこのあと織田信長に滅ぼされるのですから、失業するのは時間の問題でした。

このときから藤堂高虎には、リスクを先取る能力があったのかもしれません。

2度目の転職は前職場からの就職妨害で退職!?

浅井家を飛び出した藤堂高虎が、次に就職先としたのは阿閉貞征(あつじさだゆき)でした。

元は浅井家の家臣だった阿閉家でしたが、織田信長に寝返っていました。

浅井軍でも勇名で知られて藤堂高虎を、阿閉貞征は歓迎して家臣としました。

しかし、藤堂高虎が阿閉家にいることを知った浅井家は、引渡しを要求。

寝返ったとはいえ、元は浅井軍だった阿閉貞征としては、無視するわけにもいきません。

迷ったあげく、藤堂高虎に新しい就職先をこっそり教え、逃げることをススメます。

こうして2度目の就職先は、手柄も立てずに退職することになりました。

3度目で良き上司に出会う!

3度目の就職先は、阿閉貞征の紹介で磯野員昌(いそのかずまさ)でした。

今は織田信長に仕えていますが、磯野員昌も元は浅井家の家臣です。

浅井軍の中でも「浅井四翼」といわれた武勇に優れた武将・磯野員昌を藤堂高虎が知らないはずはありません。

浅井軍VS織田軍の決戦・姉川の戦いでも、織田軍を追い詰めた話はよく知られています。

姉川の戦いで浅井軍が負けたあと、磯野員昌の城が囲まれ降伏したことで、織田軍の一員となりました。

藤堂高虎にとっては、自分の腕を披露できる十分は就職先だったのです。

磯野員昌も藤堂高虎を気に入り、磯野軍の一団長に抜擢しています。

ところが、4人目の転職先は、藤堂高虎としては思わぬ形となりました。

乗っ取られた磯野家!4人目の主君・織田信澄はコネ入社

磯野員昌がいた近江国佐和山城は、戦国の政治の中心・京都へ行くには重要な場所にありました。

佐和山城は、これからのち関ヶ原の戦いで西軍を率いた石田光成が住むことになる城です。

石田光成には分不相応な城だと陰口をたたかれていたことを考えると、どれほど重要な城であったかがわかるでしょう。

織田信長にとっても、佐和山城の重要性は同じこと。

自分の甥っ子織田信澄(おだのぶずみ)を、磯野家の養子に無理やりしてしまったのです。

織田に面と向かって歯向かえば滅ぼされる。

そうはいっても、磯野家を乗っ取るようなやり方には納得いかない。

磯野員昌は、突然、佐和山城からいなくなってしまいます。

これは藤堂高虎にとっても不幸のはじまりでした。

叔父・織田信長は、能力があるものは身分に関係なく重要なポストにする技量がありました。

しかし、誰に似たのか織田信澄は、藤堂高虎がどれほど活躍しようと引き上げてはくれません。

相性の悪い上司ともうまく付き合っていくのがサラリーマンの極意。

藤堂高虎は、自分の能力を見てくれないものには、さっさと見切りをつける性分だったのです。

いよいよ生まれ故郷の近江国を飛び出し、藤堂高虎は放浪の旅へと出るのです。

ついに4度目の無職となってしまいました。

能力開花!5人目の主君・豊臣秀長に出会ってスキルアップ!!

諸国放浪の旅の途中、藤堂高虎は新たな就職先を見つけます。

豊臣秀吉の弟豊臣秀長(とよとみひでなが)です。

温厚で人格者、家臣たちにも人望があり、戦場では無類の活躍をするといわれる豊臣秀長。

能力は兄・豊臣秀吉以上といわれるも、常に兄を立て、保佐し、豊臣秀吉がもっとも頼りにしていた人物でした。

藤堂高虎の能力を開花させ、スキルアップをさせたのは豊臣秀長のおかげです。

槍が得意だった藤堂高虎は、槍一本でのし上がってきたというプライドがありました。

その藤堂高虎に、槍だけではただの怪力バカでしかないから、他のことも学べと教えたのです。

豊臣秀長
豊臣秀長

高虎よ。おみゃぁさ、ただの猪武者になるつもりだがね?

城づくりを担当させると、物づくりの才能が目覚めて築城技術を習得しました。

築城には多くの職人集団が関わります。

どこも武将も職人を下に見て、作業の指図をするだけです。

藤堂高虎は、熱心に職人たちに城づくりの技やその仕組みを聞いてまわりました。

はじめは煙たがっていた職人たちも、自分たちの技術に関心する藤堂高虎の姿に、むしろ好意を抱くまでになりました。

築城名人といわれた藤堂高虎を支えたのは、このときに仲良くなった職人集団だったのです。

さらに、豊臣秀吉が天下人となると、全国の土地を正確に測量することになります。

太閤検地です。

太閤検地の紀州(現在の和歌山県)を担当したのが藤堂高虎だったのです。

近江商人といわれるほど、近江国出身者は数字に強い。

豊臣秀吉の事務方を支えた石田光成や増田長盛も近江出身でした。

当然、藤堂高虎も近江商人の才能が備わっていることを太閤検地で発見することになります。

また、先祖代々の土地を測量するわけですから、中には隣の人とトラブるケースもあります。

ここでも藤堂高虎は、二人の間に入ってうまく揉め事を治めたと言います。

交渉術も、太閤検地で身に着けたのです。

豊臣秀長は、こうした藤堂高虎の才能を見つけ出し、次々と仕事としてやらせました。

藤堂高虎
藤堂高虎

やればできる、しかし、やらなければできない

この藤堂高虎の言葉は、豊臣秀長の下で学んだ実体験に基づいているのではないでしょうか。

6人目の主君は三顧の礼で迎えられた豊臣秀吉

藤堂高虎の能力を高く評価し、眠っていたスキルさえ掘り起こしてくれた豊臣秀長。

15年もの間、藤堂高虎は豊臣秀長に持てる能力を発揮して仕えました。

しかし、別れは突然にやってきます。

豊臣秀長が闘病生活の末に、亡くなってしまったのです。

さらに、その4年後、豊臣秀長の跡を継いだ養子・秀保も亡くなってしまいます

自分のすべてを捧げて仕えた主君を、次々と無くしてしまった藤堂高虎の悲しみは深いものでした。

豊臣秀吉の家臣になる誘いを断り、出家して坊主になってしまったのです。

戦国時代の古いしきたりにはとらわれず、主君を変えてきた藤堂高虎にとって、最初で最後にしようと決意するほど理想的な上司が豊臣秀長だったのでしょう。

藤堂高虎
藤堂高虎

秀長様と秀保様を想って生きていきやんす。

でも、放っておかない人物がいました。

理想の上司・豊臣秀長の兄・豊臣秀吉です。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

わしのところへ来てちょーよ!

天下の人たらしである豊臣秀吉でも、藤堂高虎には家臣にするは何度も断られていました。

一度でダメなら、二度。

二度でダメなら、何度でも。

手を変え、人を変え、藤堂高虎に家臣になるよう誘ってくる豊臣秀吉に根負けしたのです。

藤堂高虎
藤堂高虎

秀長様が秀吉様を支えるようにいわれているのかも。

藤堂高虎は、豊臣秀吉の家臣として表舞台に復帰したのでした。

七度目の主君・徳川家康との相思相愛の関係

津城の藤堂高虎像

一度仕えると決めたら全力投球の藤堂高虎は、豊臣秀吉のところでも手を抜くことはありません。

朝鮮出兵でも水軍を率いて参加し、多くの功績を残しています。

朝鮮では、得意の築城技術を使った城も建てています。

ただ、この頃の豊臣秀吉には最盛期の輝きを失いつつありました。

無謀な朝鮮出兵もそのひとつと考えられます。

藤堂高虎は、敏感に豊臣秀吉の変身を感じはじめていたのでしょう。

こうゆう思いになると藤堂高虎の心には迷いは生じません。

未来の天下人が徳川家康であることを見抜く力があったのです。

藤堂高虎と徳川家康の逸話には限りがありません。

  • 石田光成による暗殺計画を知り、事前に知らせることで徳川家康は難を逃れる。
  • 石田光成家臣の島左近による暗殺計画も情報を得ていた藤堂高虎は、女性用の駕籠に徳川家康を乗せ、自分が徳川家康の駕籠に乗っておとりとなった。
  • 徳川家康のところに弟を置くことで、家康に従う意思を示した。
  • 常に戦場では先方となり、もっとも手強い敵を相手とした。関ヶ原の戦いでは大谷吉継隊を、大坂の陣では長宗我部盛親隊を相手に奮闘している。
  • 関ヶ原の戦いで小早川秀秋に続いて裏切った脇坂安春・朽木元網・小川佑忠・赤座直保はは、近江国に城を持つ人たちだった。近江の縁を使って藤堂高虎が徳川家康につくように説得した。
  • 徳川家康が息子・秀忠に将軍を譲り駿府(現在の静岡県)に移ると、藤堂高虎は江戸屋敷の他にも駿府にも自分の屋敷をもった。

徳川家康と藤堂高虎の親密な関係は、まだまだあります。

これほどあからさまな徳川家康への“ゴマすり”をしていると、他の武将からイヤミのひとつもいわれるわけもわかります。

しかし、徳川家康は超ビビリ屋で警戒心が強いことで知られた人物です。

7度も主君を変えた藤堂高虎を、心の底から信じるということはありえないと思いませんか?

藤堂高虎がただの“ゴマすり”や人たらしではないことは、仕えた主君を見てもわかりますよね。

藤堂高虎の出世の極意は“人に優しく”

人格者で知られた豊臣秀長、相手を信じない徳川家康。

そのどちらにも能力を買われ、誰よりも大仕事を任せられた藤堂高虎。

藤堂高虎の真のスゴさは、その心です。

藤堂家の家臣たちに残した200か条にもなる藤堂高虎の遺言書があります。

そのひとつに

「仁義礼智信。そのひとつでも欠ければ、どんなことでも成功しない。」

そういい残しています。

藤堂高虎が生殺与奪の戦国時代を生き抜くためにもっとも大切にしたのは“人に優しく”だったのです。

例え敵であっても敬うべき相手には敬意をもって接する。

相手の心を開かせるには、相手を想いつくすことだったのです。

藤堂高虎が大切にした「心のエピソード」

関ヶ原の戦いのあと西軍の指揮をとった石田光成が徳川軍に捕まり処罰されることとなります。犯罪者扱いの石田光成を冷たい目で見る武将が多い中、藤堂高虎は石田光成にこう話しかけます。

藤堂高虎
藤堂高虎

この戦いでは互いに敵同士になってしまったが、石田殿の戦い方は強かった。

石田殿から見て藤堂隊の弱いところを教えてはくれぬだろうか。

石田光成もこれに応えて藤堂高虎に鉄砲隊の編成の仕方を教えたといいます。

関ヶ原の戦いで藤堂高虎隊が対したのは、大谷吉継隊でした。石田光成の親友にして、西軍の中でも強力な部隊のひとつです。藤堂高虎隊と大谷義継隊は激戦となりましたが、西軍内の裏切りもあり大谷吉継隊は敗れ、大谷吉継も亡くなります。藤堂高虎は、戦後、大谷義継が討たれたといわれる場所に墓を建てたのです。

藤堂高虎は新しく伊勢・伊賀国(現在の三重県)を治めることになります。伊賀国には隠密組織、いわゆる忍者がいました。織田信長による天正伊賀の乱で一族を多数殺された過去のある伊賀忍者が、反抗的になるのもわかります。そこで藤堂高虎は、家臣にいた伊賀出身者に伊賀国内に領土を与えます。さらに、そこに伊賀忍者のための町をつくります。また、武士に取り立てたり、忍者の能力を生かして警護職をさせたりもしました。これが伊賀忍者には大変好評で、藤堂高虎のために働く忍者組織となったのです。伊賀忍者が集めた情報が、徳川家康暗殺などを未然に防ぐことになりました。

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いつも人の心を考えて、相手が安心して信頼できる人間になることを目指したのが藤堂高虎という男だったのです。

徳川時代に、外様大名と呼ばれた藩は、関ヶ原の戦い以後に徳川側になったため、徳川家康からも警戒されていました。

その外様大名が徳川家康との間を取り持つ役目は、藤堂高虎でした

そして、藤堂高虎の死後、西日本の藩の多くが潰されたり場所を変えられたりした中で、藤堂家は国を変えることなく無事に明治を迎えたのです。

徳川家の信頼が一度も崩れることの無かった唯一無二の存在だったということです。

まとめ:アノ徳川家康の心をつかむ!七度の転職で成功した藤堂高虎

徳川家康にも命の期限が迫ったとき、こういったとされます。

徳川家康
徳川家康

この先、もし天下を巻き込むような大きな戦いがあったときには、まずは藤堂を、そして次に井伊を先方にして戦うように。

井伊家は、徳川四天王である井伊直政を当主とする徳川家康が信頼する家臣団です。

若き徳川家康を支え続けた家臣のひとりでもあります。

藤堂高虎は、徳川家康の古くからの家臣と同じほどの扱いをされていました。

警戒心の強い徳川家康が、これほど厚い信頼をされた藤堂高虎とは、ただのお世辞上手はなかった証があります。

晩年の藤堂高虎の体には、隙間がないほどにキズだらけだったと伝わります。

指に爪はなく、先のない指もあったといわれます。

戦場では誰よりも激しい戦いをしていたからこその、無数のキズだったのです。

「心はいつも二君にまみえず」

対した相手には誠心誠意尽くすことが、藤堂高虎なりの武士道だったのではないでしょう

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