戦国時代に中国地方の覇者となった毛利元就(もうりもとなり)。
三本の矢をもって毛利家兄弟の結束の大切さを示した話は有名です。
歴史好きのくろーるです。
安芸国(現在の広島県)の一領主でしかなかった毛利元就は、陶晴賢(すえはるかた)を厳島(いつくしま)の戦いで破ることから中国地方の支配者となりました。
厳島の戦いは、毛利元就の見事な計略と奇襲作戦で大軍の陶軍を撃破したことになっています。
この鮮やかな勝利によって、毛利元就は戦国時代の智将のひとりといわれているのです。
ところが、実際には毛利軍が勝利した証拠がありません。
確かに、敵の大将・陶晴賢は自害し、陶軍は撤退しています。
かといって、毛利軍が勝ったとはいえないようなのです。
厳島の戦いでは、本当は何があったのか?
噂の真相を探ります!!
おとり作戦で大軍・陶晴賢を破り毛利元就は智将となった!ハズ
1555年(天文24年)10月、北九州から中国地方を支配下に置いていた陶晴賢軍二万が厳島に上陸。
五千ほどの毛利元就軍は、三男の小早川隆景(こばやかわたかかげ)とともに陸と海から挟み撃ちにし、劇的な勝利を収めた戦いです。
「中国地方の桶狭間(おけはざま)」といえば、わかりやすいでしょうか。
陶晴賢と毛利元就が、どれほど戦力・国力差があったかというと、
陶 晴 賢 | 毛 利 元 就 | |
支配地域 | 北九州2ヶ国 中国地方4ヶ国 | 安芸国の一部 |
動員人数 | 20,000人 | 5,000人 |
陶晴賢から見るなら、なんとも小さな勢力でしかありません。
この巨大な陶晴賢軍を破るために、毛利元就は策略も巡らせます。
厳島を陶軍に占領されたら、
毛利家オワコン!
厳島の守りに宮尾城って造ったけど、
アレって、実はオトリだから!
こんな噂話を陶晴賢へ流します。
さらに、家臣のひとりをスパイにさせ、
陶様が厳島に上陸したら、
私が毛利元就を裏切ります!
この作戦にまんまとおびき寄せられた陶晴賢。
ところが、厳島に上陸してみると宮尾城は、堅固な城で簡単には攻略できません。
そうしているうちに、海上には毛利軍の大船団が現れ、陸側と海側からの挟み撃ちにあい、陶軍は崩壊してしまいます。
厳島の西側まで逃げた陶晴賢も、逃げられないと思い自害します。
厳島の戦いで一躍有名になった毛利元就は、陶家の衰退もあった中国地方の大名として成長していったのです。
というのが、毛利家に伝わる厳島の戦いの話でした。
が、しかし!
厳島の戦いのあと、毛利軍が勝った証拠がないというのです。
これって、どういうことでしょうか?
毛利元就軍が勝利していない動かぬ証拠は“恩賞がない!”
戦国時代のひとつのならわしとして、大きな手柄を立てたものに“感状(かんじょう)”というものが渡されます。
〇〇が手柄を立てたことを証明します。
よくやった!!
当主から家臣への感謝状でもあり、証明書でもある感状。
この感状は厳島の戦いでは、誰にも出されていないのです!
他の陶軍との戦いのときには、いくつもの感状が出されています。
毛利元就にとって、重要な戦いとなったはずの厳島の戦いで、感状がひとつも出されていないというのは不思議ではありませんか?
いつも以上に奮発してもいいくらいです。
これこそ、毛利元就軍が陶晴賢軍に勝利していないことの証拠だといえるのです。
では、厳島の戦いで本当に起こったことは何だったのでしょうか?
勝つ?負ける?勝敗の行方は来島水軍の応援しだい
前にもいったとおり、毛利元就は小さな一領主に過ぎません。
たいした戦力ももっていないため、単独で陶晴賢軍に勝てるなどとは思っていなかったのです。
厳島は重要な拠点で、陶晴賢が軍事拠点としようとしていたことは間違いありません。
毛利元就にとって、厳島を占領されることは死活問題だったはずです。
海に浮かぶ島である厳島で戦うためには、水軍による制海権を奪うことが必須!
毛利元就は、三男・小早川隆景に来島(くるしま)水軍に援軍を要請するようにいっていました。
その数は200~300艘!
毛利軍にも味方してくれる水軍が100艘ほどありましたので、合わせる400艘ほどの戦力になり、これによって制海権を握って、一気に陶軍を壊滅しようとしたのです。
ところが、陶軍が厳島に上陸しても、小早川隆景と来島水軍はやってきません。
焦る毛利元就は、息子に向けて手紙を書きます。
ちゃんと来島水軍に応援頼んでくれたよね?
お願いだから!なんとしても!絶対に!
応援してくれるように頼むんだよ!
翌日には、また手紙を書いて、
まだ、来てないけど大丈夫??
もし、来島水軍が来ないなら、
隆景の水軍だけでも来てよね!
間に合わないとかナシだからね!!
毛利元就がどれほど焦っているのかがわかりますね。
奇襲も戦術もなかった!来島水軍の登場に陶晴賢軍は大混乱
厳島の戦いについてもっとも古い記録である厳島神官の回想記『棚守房顕覚書』によれば、
土佐(現在の高知県)へ行こうとしていたところへ毛利家の使者が応援要請にやってきたので、来島水軍はそのまま厳島へ向かった。
翌日には毛利元就を乗せて厳島へ上陸すると、陶軍は一戦もせずに逃げていった。
おそらく、海上に現れた来島水軍の大船団を見た陶軍は、これ以上戦いを続けることは無理だと思ったのでしょう。
ただちに撤退したのでしょうが、なんといっても2万もの大軍です。
広くはない厳島の中で逃げ惑う陶軍は、すでに大混乱になっていたのでしょう。
陶晴賢の自害もあって崩壊してしまったのです。
毛利元就軍は、ほとんど戦うことなく陶軍が敗走するという状況になりました。
厳島の戦いの勝利者は、来島水軍であって毛利元就軍ではなかったのです。
これでは活躍の場の無かった毛利元就の家臣たちに、感状がなくてもおかしくないのです。
奇襲もなければ戦術もなし!厳島の戦いは毛利元就に勝利なし!? まとめ
厳島の戦いから12年後、毛利軍が伊予(現在の愛媛県)の大名・河野家へ援軍を送っています。
このことについて、毛利元就は小早川隆景への手紙を出しています。
この援軍は来島衆に助けて
もらったことへの恩返しだ。
来島水軍は、このとき河野家の配下となっていたのです。
毛利元就が、厳島の戦いの恩を忘れずにいたことがよくわかります。
援軍によって負けずに済んだ厳島の戦いでしたが、その後の毛利元就の躍進となったことに違いありません。
毛利家が大大名となったこの一戦は、センセーショナルな方が都合が良かったのでしょう。
だから、“おとり作戦に奇襲”という話になって、伝わっていったのかもしれませんね。