歴史ゴシップ好きのくろーるです。
「月日は百代の過客にして、行きかふ人も又旅人也。」
江戸時代の紀行文の名作「奥の細道」の書き出しです。
俳句の名人・松尾芭蕉(まつおばしょう)が東北・北陸を旅して書いたことで知られていますね。
しかし、この「奥の細道」には不自然な点も多くあります。
そのため、松尾芭蕉は忍者で、東北・北陸の内偵が目的だったのではないかといわれています。
本当に松尾芭蕉が忍者であった可能性はあるのか?
その根拠を検証します!!
隠密・松尾芭蕉といわれる根拠とは?否定できない忍者説
生まれが服部半蔵の故郷伊賀流忍者の里・伊賀国である
松尾芭蕉は1644年・寛永21年に伊勢・伊賀国(現在の三重県伊賀市付近)で生まれたといわれています。
生まれた月日や詳しい生まれ場所はわかっていません。
もし、松尾芭蕉が忍者だとしたならば、あえて身元を隠す必要があったとも考えられます。
伊賀国といえば、甲賀流と並ぶ忍者の二大流派のひとつが伊賀流忍術の里です。
服部半蔵は伊賀流忍者でも超有名な人物でしょう。
松尾芭蕉が忍術を身につけることができる環境が近くにあったことは確かだといえます。
ちなみに、この時代に“忍者”という職業はありません。
“忍び”“草のもの”“素破(すっぱ)”“乱破(らっぱ)”などといわれるスパイ活動を得意としていたものを指します。
ここではわかりやすくあえて“忍者”という呼び名を使います。
母親は有名な忍者の一族「百地(ももち)」氏の出身
松尾芭蕉の母親は、百地氏の出身といわれます。
百地氏といえば、織田信長が伊勢国を攻めた1578年(天正6年)の天正伊賀の乱を戦った百地丹波(ももちたんば)が知られています。
百地丹波は、実在した伊賀忍者のひとりです。
松尾芭蕉の父親は平氏の流れとなる武士の出身でありながら、当時は農民であったとされています。
忍者自体が普段は自給自足の農民として生活していたものが多かったのです。
松尾芭蕉の両親は、忍者と縁がある家系でありそうですね。
一日の移動距離60キロ!旅する距離としては速すぎる!?
「奥の細道」は、東北から北陸へと2400キロを150日かけて旅しました。
滞在した日を引いて計算すると、1日に約50~60キロを歩いていることになります。
松尾芭蕉が「奥の細道」へと旅に出た年齢が46歳のときです。
人生50年だった時代に、46歳はそれなりの高齢と考えられます。
普通の人間であれば、1日の移動距離としてはかなりハードな距離と考えられるのです。
忍者として松尾芭蕉が鍛えられた人間であると考えれば、歩くことも可能な距離といえるでしょう。
さらに、松尾芭蕉が俳諧人、俳句をつくる人であるならば、旅の行程も大事にするのではないでしょうか。
この時代の1日の移動距離の参考として飛脚が90キロ・参勤交代が40キロ・カゴが24キロと考えると、松尾芭蕉一行は、なかなかのハイスピードで歩いたと考えられます。
何か目的があったと考えても不思議ではありません。
目的は伊達家・仙台藩の内偵!?不自然過ぎる旅行日程
それほどまでに急ぐ目的とは何だったのでしょうか。
それは東北・北陸地方の各藩の内偵ではないかといわれます。
東北でもっとも有力な藩といえば、仙台藩・伊達家になります。
外様大名としては大きな力をもっている伊達家。
徳川幕府に対抗するならば大きな脅威(きょうい)になることでしょう。
俳句の旅として仙台藩に行くならば、怪しまれることもないでしょう。
仙台藩に入る前に、黒羽というところでは10日滞在しています。
しかし、松尾芭蕉が出発前にぜひ見たいといっていた松島は、たった一日しか滞在していません。
奥の細道の全日程から考えると、スルーしたといってもいいほどの短い滞在です。
藩を通ることは外国へ行くようなもの!?関所を簡単に通過できた謎
この時代の各藩は、現在の国と一緒です。
そのため各藩に入るには、厳重なチェックと通行するための証明が必要でした。
気軽にそれぞれの地方をまわることは難しかったはずです。
いくら松尾芭蕉が有名だといっても、簡単に通れるというものではありません。
徳川幕府の隠密行動だというならば、通行証も簡単に発行されていたかもしれません。
500万~600万という旅費も徳川幕府の援助のおかげ!?
松尾芭蕉の東北・北陸の旅には、およそ500万~600万円の費用がかかっています。
旅の同行者は、河合曾良(かわいそら)が一人だけ。
各藩においては、いろいろな特産物も食べていることがわかっています。
それほどの豊富な資金はどこから来たのでしょうか。
松尾芭蕉は俳句の名人で、有名人ではありましたが、生活はなかなか苦しいものだったようです。
その中で、これほどの旅費を貯めることは難しいですよね。
徳川幕府が資金提供をしていたと考えるのは自然な流れともいえますね。
松尾芭蕉が忍者だったなら、謎も多い「奥の細道」旅行
ここまで松尾芭蕉が忍者だという仮定で話してきましたが、疑問があることも確かです。
「奥の細道」旅行へ行くまでの貧乏生活の謎
徳川幕府における忍者は、「御庭番(おにわばん)」と呼ばれる部署がありました。
いわゆるスパイ活動をする専門部門があったのです。
松尾芭蕉が「奥の細道」の旅行へ出たのは46歳のときです。
それまでの大半の生活は、お金のない暮らしをしていました。
俳句だけでは食べていくことはできませんので、土木工事のアルバイトなどもやっています。
徳川幕府の忍者であるならば、松尾芭蕉はそれなりに収入を与えられていたと考えるべきではないでしょうか?
本当の身分を隠すために、庶民の生活をしていたとも考えられますが、ちょっと違和感があります。
東北・北陸の藩が徳川幕府に内偵される理由がない
松尾芭蕉の「奥の細道」旅が東北・北陸の内偵調査だとするならば、徳川幕府に敵対する理由があるはずです。
確かに、伊達家・仙台藩は東北のもっとも勢力のある藩です。
仙台藩主・伊達政宗は、豊臣秀吉も徳川家康も一目置く存在でした。
しかし、松尾芭蕉が生きた時代は、徳川三代将軍家光の時代です。
徳川家光は、伊達政宗のことを“おやじ”と呼ぶほど慕っていました。
それほど信頼関係があったといえるのです。
また、仙台藩の少し南にあった会津藩の藩主は、保科正之(ほしなまさゆき)です。
保科正之は、徳川家光の母違いの弟であり徳川家光の信頼が厚い人物でした。
今後、徳川幕府に反抗するものは、私の子孫ではないと思え。
これを藩のルールにしたほどです。
さらに北陸の大藩といえば、加賀国(現在の石川県)前田藩です。
このときの前田藩主・前田綱紀の母親は、徳川家光の養女だった女性です。
さらに前田綱紀の奥さんは、さきほどの会津藩主・保科正之の四女なのです。
徳川幕府とのつながりがとても強いといえますよね。
他にも東北・北陸には藩があるので、徳川幕府に反抗的なところもあったかもしれません。
しかし、東北・北陸の有力な藩が、徳川幕府との関係が強いのであれば、自分だけが反抗したところで、すぐに潰(つぶ)されてしまいます。
内偵調査までする必要があったのかなと思われます。
そもそも「奥の細道」を作成したら内偵の意味がないのでは!?
松尾芭蕉が忍者で、その目的が東北・北陸の藩の内偵だとするならば、「奥の細道」という紀行文を発表すること自体が謎ではないでしょうか。
奥の細道の中に内偵したことを書くわけではありませんが、行った場所を全部書いているわけですから、
もしかして内偵か!?
と思う藩の人たちもいたかもしれません。
内偵をするということは、秘密の内に状況を調査し徳川幕府や徳川将軍家光に報告するものです。
わざわざ発表してしまっては、意味がなくなってしまうのではないでしょうか。
隠密だったのは河合曾良!?松尾芭蕉はカモフラージュに使われた!
ここまで松尾芭蕉忍者説を否定しながらも、それでも松尾芭蕉と「奥の細道」には怪しい部分があります。
それは、「奥の細道」は事実を元にしたフィクション、創作されたものだということです。
東北・北陸の旅から戻ってきた松尾芭蕉は、3年もかけて「奥の細道」を書いています。
しかも、一緒に旅をした河合曾良が書いた日記「曾良旅日記」には、「奥の細道」とは違う内容があります。
真の目的を隠す必要があるところには、手を加えて創作したとも考えられます。
では、なぜ「奥の細道」として発表したのでしょうか。
これは、東北・北陸の藩の中で、徳川幕府へ反抗的なものへの警告だったのではないでしょうか。
先程も書いたとおり、この時代は徳川三代将軍家光の時代です。
徳川家光は生まれながらに将軍だった初めての人物です。
戦国時代を生き抜いて、戦場経験のある初代家康・二代目秀忠とはそこが違います。
徳川幕府による安定した政治を続けるために、全国の藩の状況を調査しようとしていたのではないでしょうか。
最初の調査のルートが、「奥の細道」ルートだったと考えられませんか。
事実、松尾芭蕉は、
次は九州へ行きたい!
といっていたことはわかっています。
残念ながら松尾芭蕉は、1694年に51歳で亡くなりますが、1709年に河合曾良が九州巡検使として九州をまわることになります。
『奥の細道』旅は徳川幕府の安定した支配体制をつくるために、どの程度、徳川幕府の支配力が浸透しているのかを調査することが目的ではなかったのでしょうか。
そして、調査をした真の人物は河合曾良だったのではないかと思います。
松尾芭蕉という、俳句の有名人に注目を集めておけば、その陰で河合曾良の注目は少なくなり調査はやりやすくなったわけです。
松尾芭蕉はそのサポート役だったとしたら・・・
忍者の基礎はあった松尾芭蕉なら適任だと考えられませんか。
松尾芭蕉の正体が服部半蔵ではない3つの理由
伊賀の忍者といえば服部半蔵を思い浮かべる人が多いことでしょう。
忍者の仕事は情報収集ですので、松尾芭蕉の「奥の細道」旅が隠密行動であるなら、その真の正体は服部半蔵なのではないかという説があります。
松尾芭蕉=服部半蔵説の根拠
①服部半蔵・松尾芭蕉ともに伊賀国の生まれもしくは縁をもっている。
②服部半蔵は突然徳川家家臣を辞退もしくは行方不明になっている。
③松尾芭蕉の『奥の細道』旅の超人的行程は、忍者でなければ不可能である。
ところが、松尾芭蕉=服部半蔵説の根拠自体が事実誤認であるといわざるをえません。
①服部半蔵は複数いるため、単純に松尾芭蕉=服部半蔵にはならない。
②初代・服部半蔵以外は、伊賀国生まれではない。
③松尾芭蕉の時代は、3代目もしくは4代目服部半蔵にあたるため忍者ではない。
服部半蔵の正体について→『服部半蔵は忍者じゃない!伊賀流忍者だったのは実は父親!?』
松尾芭蕉が忍者であったとしても、服部半蔵自身が忍者ではないので、同一人物と考えるのは無理があります。
徳川家康に仕えた服部半蔵は2代目になります。
3代目・4代目服部半蔵の時代には、徳川家自体との関係も薄くなっているのです。
ますます、松尾芭蕉=服部半蔵とは、考えにくいですよね。
まとめ:松尾芭蕉の正体!伊賀生まれの忍者説・服部半蔵と同一人物!?
松尾芭蕉たちが、ただの俳句旅行と考えるのも少し違和感を感じます。
確かに、何かの目的をもって『奥の細道』旅へ出かけたように思えます。
松尾芭蕉が生きた時代には、三代目将軍・徳川家光の時代です。
徳川家は盤石の体制になろうとしているところでした。
松尾芭蕉が『奥の細道』で旅したところは、徳川寄りの大名たちがいた藩ではあります。
しかし、その藩の体制が庶民にまで行き届いているのかを確かめたのかもしれません。
例え表面上は問題がなくとも、不満が溜め込まれていないかを調査していたのではないでしょうか。