歴史好きのくろーるです。
漫画アニメ『るろうに剣心』の主人公・緋村剣心(ひむらけんしん)は、実在の人斬りをモデルにしているといわれます。
“幕末四大人斬り”のひとりでもあり、“最強の人斬り”ともいわれました。
河上彦斎(かわかみげんさい)、そのひとです。
尊王攘夷思想の持主であった河上彦斎は、思想の異なる開国派の人物を殺したとされます。
しかし、何人斬ったのかはわかっていません。
河上彦斎が殺した人物として記録に残っているのは、佐久間象山(さくましょうざん)ただ一人。
さらに、佐久間象山を斬ったあとは、河上彦斎は一切の殺しを止めてしまったというのです。
明治に時代が変わっても、尊王攘夷思想を持ち続けた人物でもある河上彦斎。
そんな最強人斬りを殺したのは、「維新三傑」で明治政府の内務卿・木戸孝允(きどたかよし)!
幕末最強の人斬りが、明治の重鎮に殺されるまでを追ってみました。
茶坊主から尊王攘夷志士、そして人斬りへ
掃除しかできない人間が
人を斬るほどになるなんて・・・
1834年(天保5年)熊本藩の下級武士の子として産まれた河上彦斎。
武士といえども低い身分であったので、藩主の屋敷の茶坊主として採用されました。
屋敷の掃除などをする仕事ですから、ヒマな時間のたっぷりあった河上彦斎。
当時、思想の流行りであった国学や兵法を学ぶうち、尊王攘夷の思想に共感するようになったのです。
熊本藩は直接的な外国からの圧力はありませんが、薩摩藩をはじめとする九州諸藩は外圧を感じやすい環境にありました。
自然と天皇を中心とした国造りをし、西洋・外国を排除しようという考えにもなりやすかったでしょう。
兵法の師匠であった宮部鼎三が新撰組に殺されたため、その敵討ちに京都へ来た河上彦斎は、ここで長州藩の尊王攘夷派と交流をもちます。
当初は尊王攘夷派であった木戸孝允や奇兵隊の高杉晋作などとも親交があったのでしょう。
一方で、外国に対して港を開き、西洋の技術や知識を取り入れることで、日本を強靭化しようという開国派はまさしくライバル・敵!
京都で尊王攘夷派が開国派の人物を狙って殺害をすることは、日常的になっていました。
河上彦斎のように身分の低く剣術に長けたものが、開国派人物の殺害指示を受けていたようです。
いつの時代も教育は国造りの根幹になります。
学問が十分ではなく知識の少ない河上彦斎のようなものが、剣の腕だけで認められようと人を斬る道を選んでしまうのかもしれません。
内戦で混乱する国には、よくある悲しい話ですよね。
人斬りをやめるきっかけは、開国派・佐久間象山の殺害!!
幕末四大人斬りといわれながら、“最強の人斬り”ともいわれる河上彦斎。
そのワケは、殺害人数がわからないところなのです。
河上彦斎自身は、殺害依頼を受けると、そのターゲットがどのような人物なのかは知らず斬っていたようです。
ただただ、尊王攘夷の妨げになるとだけ教えられたのでしょう。
1864年(元治元年)の佐久間象山殺害については、衝動的に斬ったと河上彦斎本人があとから自白しています。
そして、佐久間象山殺害後、河上彦斎は人を斬ることを止めました。
ずいぶんと人を斬ったが、象山を斬ったときは
体じゅうの毛が逆立って、初めて人を斬ったと感じたから
それ以来は人を斬ってない。
のちに河上彦斎は、こう話しています。
人斬りをやめた理由には、人を斬る感覚を恐れたとも、佐久間象山という人物のことを知ったがためともいわれますが
その真相はあまりはっきりしません。
その他にも、本当は歴史に名を残した人物の殺害に関わっていたかもしれません。
その依頼人が明治政府の中心人物であったのであれば、どこまでも闇に葬るべきことだったでしょう。
元人斬り・河上彦斎、木戸孝允に殺される!!
時代は大きく変化し、大政奉還・王政復古・鳥羽伏見の戦いの間、河上彦斎は熊本藩の獄舎の中にいました。
尊王攘夷を唱える河上彦斎は、すでに時代遅れの考えだったのです。
河上彦斎が動くことで、熊本藩の論調を乱されることを嫌って、拘束したのでしょう。
獄舎から出た時には、すでに時代は明治。
当初は尊王攘夷派であった木戸孝允も、開国による日本の強靭化を目指していました。
裏切り者!!
河上彦斎には、木戸孝允だけではなく、明治維新の主力となった人物をそう見ていたのではないでしょうか。
明治政府の陸軍の創設者・大村益次郎(おおむらますじろう)の殺害犯をかくまったとして、河上彦斎は捕まってしまいます。
「河上が生きているうちは枕を高くして寝られない。」
元は尊王攘夷派で、明治維新後は大臣などを務めた三条実美の言葉です。
河上彦斎を知るものは、
「殺されるかもしれない・・・」
と恐れたのです。
河上彦斎本人は、佐久間象山以降は人を斬っていないというのに・・・
木戸孝允が河上彦斎は捕まったことを聞いたのは、ヨーロッパ出発の直前でした。
忙しい中にもかかわらず、担当判事を読んでこういいました。
河上は今も尊王攘夷の考えを変えない。
いずれ国家に害をなすに違いない。
私が戻るまでに始末しておいてくれ。
こうして「人斬り彦斎」は明治の内務卿・木戸孝允に殺されたのです。
抜刀スタイル・そのキャリアが緋村剣心のモデルとなった
漫画アニメ「るろうに剣心」の主人公・緋村剣心のモデルとなった河上彦斎。
河上彦斎が佐久間象山殺害後に人斬りを止めたという話が、“人を斬らない元人斬り”という緋村剣心の設定になったのでしょう。
その他にも、色白で女性のような容姿、普段は礼儀正しいという河上彦斎の人物像も同じです。
そして、抜刀スタイル。
膝が地面につくほどの低い姿勢から、相手を下から上へと斬り上げる“逆袈裟懸け(ぎゃくけさがけ)”を河上彦斎は得意としていました。
これも、漫画の中で緋村剣心の抜刀スタイルとして描かれています。
『るろうに剣心』は漫画という創作の世界ですが、実在した河上彦斎にこれほど似ているとすると、とてもリアリティを感じることができるのではないでしょうか。
『るろうに剣心』登場人物のモデルとなった歴史上の人物
幕末の最強人斬り・河上彦斎は木戸孝允に殺された!? まとめ
幕末の四大人斬りの中でも、人斬りをやめるという異色の経歴をもった河上彦斎。
佐久間象山を斬ったあとの心境の変化は、今も謎のまま。
河上彦斎本人だけが知っているのでしょうね。
木戸孝允ももしかしたら、河上彦斎に人斬りを依頼したもかもしれません。
その口封じに処刑を急がせたとしたら・・・
これは、ちょっと想像のし過ぎですね。