歴史ゴシップ好きのくろーるです。
26歳の若さでこの世を去った石川啄木(いしかわたくぼく)。
天才歌人として活躍した期間は、10年にもなりません。
『一握の砂』『悲しき玩具』といった歌集は今でもたくさんの人の心に響いています。
結核と貧しさと戦い、志半ばで逝ってしまったイメージがありますが、実像の石川啄木は違います。
周りにも家族にも迷惑をかけるクズ人間だったのです。
人間・石川啄木のクズエピソードをご紹介します。
石川啄木は嫌いになっても、石川啄木の歌は嫌いにならないでください!
石川啄木のクズエピソード①中学校ではカンニングの問題児
盛岡で生まれた石川啄木は、父親がお寺の住職というなかなか厳しい家庭で育ちました。
元々、勉強は優秀だったようで、盛岡尋常中学校(現在の盛岡一高)には、学年120名中10番目という成績でした。
石川啄木が在籍した盛岡尋常中学校は、多くの有名人を輩出しています。
・米内光政(よないみつまさ)
第34代内閣総理大臣、連合艦隊司令長官、海軍大臣を歴任。
・金田一京助(きんだいちきょうすけ)
日本国語学者の第一人者。
アイヌ語研究の創始者でもある。
石川啄木を長年援助していた人物。
・野村胡堂(のむらこどう)
銭形平次の生みの親で小説家。
音楽評論家としても有名
学業ができる人物が多いことからも、石川啄木が入学当初は優秀だったといえます。
しかし、入学後は文学活動に忙しく、勉強をおろそかにしていきます。
また、石川啄木は正義感も強いと見えて、様々な活動にも参加しています。
英語教育を導入する会や教員へのストライキといったことです。
活動参加のために学校を休み、素行の悪い生徒として目をつけられていたのです。
学校内での評判は、けっして良くなかったと考えられます。
勉強をしていない石川啄木ですから、試験となれば隣の頭のいいやつに自分の試験を書かせようとする始末。
二度のカンニングがきっかけとなり、石川啄木は学校を辞めてしまったのです。
ちなみに、石川啄木の奥さん・節子は、盛岡尋常中学校で出会っています。
石川啄木のクズエピソード②パトロンは金田一京助・フリーターで多額の借金
終生、お金が無くて苦労しているイメージのある石川啄木ですが、実際にかなりの借金を背負っていました。
借金をした相手は合計で63人。
借金の合計額は1,372円で、今の金額に換算すると1,400万円相当になるといいます。
お金貸してください!
石川啄木を最後まで支援してきた人物でもあり、中学校の先輩でもある金田一京助も、その一人です。
金田一京助には、樺太への出張中にも借金をお願いしてきたというエピソードがあります。
借金をしても返済をしていればいいのでしょうが、おそらくあまり返済していないようです。
そもそも、石川啄木がたくさんの借金をしているとわかったのは、同じく歌人である宮崎郁雨(みやざきいくう)によります。
宮崎郁雨は、石川啄木に一番多額のお金を貸しています。
いっぱいお金貸してください!
“清貧の歌人”という石川啄木のイメージが我慢できなかったのかもしれません。
それでも、宮崎郁雨は石川啄木の死後、石川啄木の墓碑を作るなどをしています。
石川啄木の借金は、生活苦のための仕方ないことと思われがちですが、これは違います。
確かに、石川啄木は仕事が続かないこともあり、収入が一定しません。
学校の教員や新聞記者・新聞の校正係など、行く先々で職が変わっています。
生活のためのお金を確保するための借金もあったでしょうが、借金のうちの多くを女遊びにも使っていました。
女遊びするためのお金貸してください!
しかも、わざわざ日記にしてまでの熱心ぶりだったのです。
石川啄木のクズエピソード③証拠隠滅!?ローマ字で浮気日記
石川啄木のクズエピソードとしては有名でしょうが、ローマ字で女郎通いの日記を書いていたのです。
女郎買いとは、今でいうキャバクラと風俗店を一緒にしたようなイメージでしょうか。
お店に行って、どんなことをしたか、お気に入りの女性からどんなことをされたかを詳しく書いていたのです。
石川啄木の死後、この日記に書かれた短歌を出版しようという動きもありました。
しかし、この短歌を発表することは、一緒にこの赤裸々な風俗体験談の存在を教えることにもなります。
しばらくの間、石川啄木のローマ字日記は発表を控えられたという、いわくつきの日記だったのです。
公表できないほどの内容とは、どれほどなのか?
岩波文庫『啄木・ローマ字日記』より一部抜粋します。
「いくらかの金のあるときは、予はなんの躊躇うこともなく、かの、淫らな声に満ちた、狭い、汚い街へ行った。
(中略)そして、10人ばかりの淫売婦を買った。ミツ、マサ、キヨ、ツユ、ハナ、アキ・・・名を忘れたのもある。」
「予は女の股に手を入れて、手荒くその陰部をかき回した。しまいには5本の指を入れて・・・(以後略)」
文筆家らしく、こと細かに書いているだけに、そのいやらしさが伝わる内容です。
石川啄木は、奥さんにこの日記を燃やすようにいっていたようです。
「なぜこの日記をローマ字で書くことにしたのか?なぜだ?予は妻を愛している。愛しているからこそこの日記を読ませたくないのだ。」
石川啄木の奥さん・節子は、このローマ字日記を燃やせなかったといいます。
表向きは、“愛着から”といっていますが、その実は、石川啄木の浮気の証拠としたかったのかもしれません。
というのも、節子自身も石川啄木から浮気を疑われていたからです。
石川啄木のクズエピソード④奥さん浮気疑惑で離婚
石川啄木にもっとも多額のお金を貸していた宮崎郁雨ですが、石川啄木の妻・節子宛の手紙にこう書きました。
「あなた一人だけが映っている写真が欲しい。」
それを見た石川啄木は、節子が浮気をしていると一方的に決めつけます。
きっと浮気してるから離婚!
節子には離婚をいいつけて、実家に帰してしまいます。
さらに、お金を貸してくれていた宮崎郁雨には、絶交を言い渡します。
お金は返さないけど、絶交します!
それでも、石川啄木の最後を節子は看取っていますし、宮崎郁雨も石川啄木の死後の貢献はすでに書いたとおりです。
節子と宮崎郁雨の不倫の真相はわかりませんが、石川啄木が愛されていたことはよくわかります。
石川啄木のクズエピソード⑤世話になった人に「死ねばいいのに」
「一度でもわれに頭を下げさせし 人みなしねと、いのりしこと」
一度でもいいから自分に謝らせたい!
自分を見下す人たちは全員死ねばいい!
そう願っている・・・
簡単に言えば、こうゆうことでしょうか。
これは、石川啄木が書いた短歌です。
石川啄木のイメージからは、相当かけ離れたものと思いませんか?
でも、石川啄木はお世話になった人にひどい批判をしていることもあります。
与謝野晶子のご主人である与謝野鉄幹には、東京生活では居候をさせてもらっている恩人。
その与謝野鉄幹のことを「時代遅れの幻滅作家」と見下した言い方をしています。
石川啄木には、こういった傲慢な一面があったようです。
生活を世話になり、借金もしているにも関わらず、その相手を内心ではバカにしていたのかもしれません。
病と闘い、父になろうとした石川啄木の晩年
石川啄木のイメージを覆すようなクズなエピソードを書いてきました。
しかし、傲慢で不遜な態度も23歳ころを境に変わっていったようです。
はじめは短歌や詩のセンスを周りから評価され、自分は天才歌人だと浮かれていたのでしょう。
歌だけではなかなか食べていけない生活を続け、世間の現実を知ります。
石川啄木は、16歳で結核を発病しており、常に死を意識した生涯を送ってきました。
長男を生まれてすぐに亡くし、奥さんも肺結核を患い、母親も肺炎により亡くなります。
病気とともに生きる中で、家族を大事にする生活を意識しはじめたといいます。
仕事を第一にし、その中で短歌を詠むことを繰り返したのです。
石川啄木の家族を想う心は、死後に発表された「悲しき玩具」に反映されてくことになります。
クズエピソードだけを見ると、石川啄木のダメ人間ぶりに嫌気が差します。
でも、一人の人間として見ると、石川啄木のクズエピソードにも愛着が出てきます。
誰もが知る清貧の歌人・石川啄木も、男でしかないのだなって思えてきますね。