歴史大好き、くろーるです。
幕末の京都で人斬り集団として恐れられた“新撰組”
新撰組の中でも、局長・近藤勇(こんどういさみ)に次ぐNO.2が土方歳三(ひじかたとしぞう)でした。
鬼の副長として、敵である尊王攘夷志士だけではなく、新撰組の隊士からも恐れられていました。
近藤勇亡き後の新撰組隊士を引き連れ、土方歳三は戊辰戦争を転戦します。
北海道まで渡った土方歳三は、函館で最期を迎えたといいます。
しかし、土方歳三の遺体は未だに行方不明。
土方歳三の遺体はどこへ??
死因にも疑いがもたれ、生存説まで残っているのです。
土方歳三の最後にまつわる、いくつかの説をご紹介していきます。
土方歳三が愛した新選組とは?簡単に解説
新撰組とは、簡単にいうと京都の治安維持を担当していた組織で、現在の警察にあたります。
警察といっても、幕末の京都は、要人を殺害するテロが頻発する無法地帯。
そのため、新撰組もテロの相手を殺害することも黙認されていました。
テロといっても、今から見れば、新しい日本を作るために必要と考えてされたこと。
どちらにも、言い分はあったわけです。
他にも警察のような組織はありましたが、新撰組は次の点で特殊でした。
・新撰組の隊士は、武士じゃなくても入隊できた。
・入隊後は、武士以上の武士になるため、掟を厳守。
この新撰組の鉄の掟を作った人物が、土方歳三でした。
局長の近藤勇をはじめ、土方歳三も元をたどれば農民の子。
そのため、武士らしい振る舞いをすることを義務としたのです。
さらに、この掟を破った人間は、罰として切腹と決まっていました。
新撰組隊士からも土方歳三が怖れられた理由は、この掟を必ず守らせたからです。
″鬼の副長″の誕生だ!
切腹を怖がって脱走したものは、追って殺害するほどの厳しさでした。
土方歳三のイメージは、この掟を守らせることが原因で“厳格で残酷”となったと思われます。
その一方で、土方歳三は大変なイケメンだったようです。
若いころから女性の話は数限りがありません。
クールでカッコ良かったのでしょう。
新撰組を世間で有名にした事件があります。
【池田屋襲撃事件】
尊王攘夷志士が会合を開いているという情報を得た新撰組は、池田屋を襲撃します。
池田屋に集まっていた尊王攘夷志士は、当時では各藩で有名な人物ばかりでした。
20数名いたうち、半分以上が死亡、残りの多くも捕まりました。
この池田屋襲撃事件により、将来の要人候補が死亡したため明治政府の形が変わったとも言われます。
池田屋事件では沖田総司は役立たず?→『新撰組の天才剣士・沖田総司はここイチバンで役立たず!!』
新撰組が京都で活躍した期間は、わずか4年ほど。
その後は、幕府軍に従って戊辰戦争を戦いながら、逃亡する生活を送ることになります。
死因は失血死!新撰組副長土方歳三の最後
鳥羽伏見の戦いから始まった戊辰戦争を土方歳三は、新撰組を連れて連戦しました。
局長・近藤勇が処刑され、その他の隊士たちとも戦いの中で死に別れや離れていくものもありました。
会津戦争の敗戦のあと、幕臣・榎本武揚(えのもとたけあき)たちと合流した土方歳三は、北海道へ渡ります。
榎本武揚たちの旧・徳川幕府軍は、北海道・箱館(現在の函館)に拠点を置きました。
箱館に拠点をおいた榎本武揚たちは、独立政府・蝦夷共和国を設立することを考えます。
蝦夷共和国は明治新政府軍から独立し、北海道で新しい国造りをしようとしたのです。
土方歳三が、この蝦夷共和国に賛同していたかは定かではありません。
しかし、少なくとも長年ともにした新撰組の隊士たちの居場所が必要だったのでしょう。
また、蝦夷共和国側としても土方歳三は必要とされました。
- 「新撰組副長」という有名な肩書
- 実践経験の豊富な人材
旧徳川幕府軍で構成された蝦夷共和国政府には、陸上での実践経験が不足していました。
明治新政府軍に対抗するためにも、土方歳三は貴重な人材だったのです。
実際、箱館戦争が始まると土方歳三が率いる部隊が負けることはありませんでした。
明治新政府軍も土方歳三が率いている部隊と知ると、作戦が慎重になることもあったでしょう。
それでも、他の部隊の敗戦により、だんだんと戦線を縮小せざるをえません。
蝦夷共和国政府が置かれていた五稜郭から南へ3kmほどのところに、一本木関門という関所が置かれていました。
そこを土方歳三は最後に守備していたといいます。
ここが「土方歳三最期の地」とされていますが、正確な場所はわかっていません。
迫る明治新政府軍に対して、決死の対抗戦の最中、土方歳三は一発の流れ弾を腹部に受けるのです。
腹部に銃弾を受けた程度で、土方歳三ほどの人物がすぐに亡くなるとは考えにくいと思われます。
しかし、土方歳三被弾の報告を受けた新撰組隊士・大野右仲が駆けつけたときにはすでに亡くなっていたことになっています。
死因は、銃弾を受けたことによる失血死が有力です。
過去に、土方歳三の最後を扱ったドラマでも、流れ弾による失血死説が取り上げられています。
1988年の年末時代劇スペシャル「五稜郭」や2006年の三谷幸喜脚本NHK大河ドラマ「新撰組!」においても、土方歳三は銃弾を受けて亡くなってしまいます。
函館市の一本木関門があったとされる場所に、「土方歳三最後の地」碑が建てられました。
では、土方歳三の遺体は、どこへ行ってしまったのでしょうか?
土方歳三と箱館戦争までともにした数少ない新撰組初期メンバー→『″誠の道″を貫き土方歳三と五稜郭まで戦った新撰組一の怪力・島田魁』
新撰組・土方歳三の遺体が見つからない謎
今現在においても、土方歳三の遺体がどこにあるかはわかっていません。
箱館戦争の他の遺体とともに、葬られたとされています。
土方歳三の遺体が見つからない理由は・・・
土方歳三の遺体を隠したからでは??
というのです。
箱館戦争の頃は、まだ、武士の時代が終わったばかりです。
戦いで敵軍の有名武将を殺すことで、報酬が出たのかもしれません。
土方歳三は、旧徳川幕府軍では数少ない有名な人物。
その土方歳三を打ち取った証拠として、首を持ち帰れば大変な報酬だったかもしれません。
敵軍に土方歳三の首を取られることを恐れた新撰組隊士または同じ部隊の人間が、土方歳三の遺体を隠したと考えられます。
ただ、実は土方歳三の遺体を受け取りにいったという人物がいます。
この人物により、土方歳三の死因に疑問が出てくるのです。
土方歳三の死因は暗殺?榎本武揚との確執説
土方歳三死亡の報告を受けて、蝦夷共和国政府のある五稜郭から遺体を引き取りにいった人物がいます。
元御庭番(おにわばん)であった小芝長之助(こしばちょうのすけ)という人物です。
御庭番といえば、要するに忍者のことだね!
密偵・暗殺などを任務としていた御庭番いわゆる忍者出身者が、わざわざ土方歳三の遺体を引き取りに行っています。
新撰組の隊士がいるにも関わらずです。
良く考えるならば、蝦夷共和国の重要人物である土方歳三の死亡は、できるだけ伏せたいことだったと考えられます。
とはいえ、なんとか遺体だけでも丁寧に埋葬してあげたい。
そのために隠密行動の必要性から、御庭番であった小芝長之助が選ばれたと考えられます。
でも、裏の仕事も忍者は得意とするのでは??
そうです、土方歳三を暗殺するために送られた人物かもしれないのです。
土方歳三暗殺の可能性を裏付ける理由もあります。
・明治新政府軍と戦わずに共存したかった榎本武揚にとって、抗戦派の土方歳三は邪魔だった。
・土方歳三は、榎本武揚が降伏するのではないかと疑っていた。
・土方歳三死去からわずか6日後に、蝦夷共和国軍は明治新政府軍に降伏した。
・蝦夷共和国の幹部の中で死亡したのは、土方歳三だけだった。
・榎本武揚は降伏後、しばらく拘束ののち、明治政府で外交官として活躍。←土方歳三暗殺の報酬?
土方歳三が暗殺されたとするならば、暗殺の証拠を隠すためにも土方歳三の遺体をすぐに処分した可能性もあります。
銃弾を腹部に受けたことで失血死をしたという土方歳三の死因が、あまりもあっけない気もします。
箱館戦争の早期終結のため土方歳三を暗殺したとするならば、遺体が見つからないことも納得です。
ただ、旧徳川幕府軍の最新鋭の戦艦が北海道・江差沖で暴風雨により座礁・沈没します。
このときに、榎本武揚と土方歳三は抱き合って号泣したと伝わります。
最後まで、二人の志は一緒であったと信じたい気持ちにもなります。
土方歳三がロシアへ渡った可能性
遺体が見つからないために、土方歳三生存説もあります。
箱館戦争を生き延び、ロシアに渡った土方歳三は再起を計画していたというものです。
しかし、土方歳三が目指す再起とはなんでしょうか?
土方歳三の辞世の句と伝わるものがあります。
そのひとつに、
鉾とりて 月を見るごとに おもふ哉 あすはかばねの 上に照るかと
訳すと
剣を手にとりながら月を眺めていると考えることがある。
明日こそは自分の亡骸をこの月が照らすのだろうかと
土方歳三は、箱館に来てからは「死に損ねた」ということを、たびたび話していたそうです。
故郷から一緒に戦った仲間たちは、そのほとんどが世を去っていました。
自分だけが生き残り、死に場所を求めていたところが見られます。
土方歳三の最後の心残りは、残された新撰組隊士たちのことだったのではないでしょうか。
その元新選組の隊士たちも箱館戦争で多くが死んでいきました。
これ以上、ロシアにまで渡って何をすることがあったのでしょうか。
目的が見つからずに生き永らえることを土方歳三がしたとは思えません。
土方歳三・ロシア生存説は、ありえないと考えます。
ゴールデンカムイは仮説として成り立つ!?土方歳三生存説!
土方歳三生存説のひとつの仮説として注目していることがあります。
「土方歳三は生かされていた説」です。
アイヌの財宝を巡る冒険譚として話題の漫画「ゴールデンカムイ」には、生きて年老いた土方歳三が登場します。
実際に新撰組の生き残りとして北海道・小樽で天寿を全うした永倉新八(ながくらしんぱち)とともに、アイヌの財宝を狙っているのです。
ゴールデンカムイに登場する土方歳三は、網走監獄の監守長により監禁され、生き永らえていました。
その理由は「恨み」
網走監獄の監守長の兄が、土方歳三に殺されたことを恨んでの監禁なのです。
生きることより死ぬことに美学を持っていたはずの土方歳三を生かしつづけることで、その無様な最期を見てやろうというのです。
とっても悪趣味な復讐ですが、男の恨みほど怖いといいます。
土方歳三が生きていた仮説としてはありえると、私は納得してしまいました。
ちなみに、年老いてもゴールデンカムイの土方歳三は、めちゃくちゃ強いです。
ゴールデンカムイに登場する、もうひとりの新撰組生き残り『77歳まで生き残った新撰組最強の二番隊隊長・永倉新八の武勇伝』
まとめ:死因も遺体も不明?新撰組・土方歳三生存説を検証!?
いずれにしても、新撰組“鬼の副長”土方歳三は、箱館で最期を迎えたという結末です。
死因には、銃弾による失血死と暗殺説がありえます。
ロシア生存説は、土方歳三の生き方としてあり得ないかと思います。
私としては、死に場所を求めた土方歳三と蝦夷共和国実現を見据えた降伏を考えていた榎本武揚との利害の一致と考えます。
土方歳三の死をもって、榎本武揚が明治新政府軍の顔を立てての降伏ではないでしょうか。
決して土方歳三の死は無駄ではなかったはずですから。
土方歳三に会いたくなったら函館へ行こう!『土方歳三・石川啄木に会いに函館に行こう!『土方・啄木浪漫館』