歴史上の人物が妖怪退治をする話はよくあります。
その偉人の人並外れた能力を示す元となっています。
しかし、歴史上の人物そのものが妖怪だとされたものは珍しいのです。
歴史大好き、くろーるです。
平安時代後期の皇后・美福門院得子(びふくもんいんとくこ)は、妖怪狐・玉藻前(たまものまえ)が化けたものだったという話があります。
のちの創作話だというのは簡単ですが、そこには別の意図が隠されていたのではないでしょうか?
『玉藻前伝説』が伝えようとした真相に迫ります!!
美福門院得子は鳥羽天皇を利用した悪女?
藤原得子(ふじわらのとくこ)のちの美福門院得子は、1117年に生まれます。
平安のシンデレラストーリーともいうような言われ方もしますが、藤原得子の出自が悪いわけではありません。
当時、美男美女の多かった藤原閑院流の出身ではなかったものの、天皇を支える摂関家・藤原四家ではもっとも栄えた藤原北家の出身です。
家柄は申し分ないものの、おそらく父親の無能さが藤原得子の評判を下げたのではないでしょうか。
時の絶対権力者であった白河(しらかわ)法皇の晩年には、最側近のひとりであった父・藤原長実(ふじわらのながざね)。
藤原長実は「院の近臣」といわれる側近集団の一員ですが、この院の近臣はほぼコネ採用なのです。
その上、法皇の権威を笠に着る″虎の威を借る狐″というのですから、評判も悪くなるのも仕方がありません。
無能なクセに出世しやがって
こんな陰口が叩かれたのでしょう。
父・藤原長実の死後に、娘であった藤原得子は第74代天皇・鳥羽(とば)天皇に気入られ、側に仕えるようになります。
鳥羽天皇には正妻である藤原璋子(ふじわらのたまこ)のちの待賢門院(たいけんもんいん)璋子がいましたが、白河法皇との忌まわしい噂もあり、鳥羽天皇との仲が必ずしも円満とはいえなかったかもしれません。
待賢門院得子と白河法皇の禁断の関係とは?→『愛した男は養父!白河法皇と子をなし西行を惑わす待賢門院璋子の魔性』
藤原得子がその正妻の地位を狙ったかどうかはわかりませんが、裏で陰謀の糸を引いているといわれつづけました。
正妻・藤原璋子の子である崇徳(すとく)天皇を政治の場から追いやり、その子を天皇になることのないようにします。
また、自分を呪ったものがいるとした呪詛(じゅそ)事件の犯人として、藤原璋子こと待賢門院璋子も追い落とします。
そして、藤原得子の子が近衛(このえ)天皇として第76代天皇となりました。
いずれも、確実な証拠はありませんが、まわりで動いたものたちが藤原得子に近い人物であったことは確かです。
藤原得子に関わることとしては、もうひとつ不思議な話があります。
鳥羽天皇が鳥羽上皇となり、ともに藤原得子が美福門院得子となってからのことです。
自分の養女に藤原呈子(ふじわらのていこ)という女性がいます。
美福門院得子は近衛天皇の側に仕えるもの、いわゆる側室としようと考えていました。
そのうち、藤原呈子が体調の不良を訴えます。
それが妊娠ではないかということになったのです。
近衛天皇の子供を身籠ったならば、次の天皇の母となります。
その母となる美福門院得子への権力も大きくなるのです。
ところが、出産予定日を過ぎても子供が生まれる様子はありません。
様々な方法で出産祈願をするも効果がなかったのです。
結果、これは藤原呈子の想像妊娠だったといわれています。
ただ、美福門院得子が妖怪で呪術を使えるものであったなら、藤原呈子のお腹に宿ったものはいなかったとはいい切れないかもしれません・・・
美福門院得子の正体は国を亡ぼす狐の妖怪!『玉藻前伝説』
美福門院得子には、伝説の妖怪・玉藻前であったといういい伝えがあります。
玉藻前とは狐の妖怪で、美女に化けて権力者を意のままに操ったとされます。
美福門院得子の美貌に魅せられた鳥羽天皇は、彼女を側に仕えさせます。
ところが、美福門院得子が来てからというもの、鳥羽天皇の体調が思わしくないのです。
原因もわからず、鳥羽天皇の体調は悪化を続けます。
そこで陰陽師・安部泰成(あべのやすなり)に鳥羽天皇をみてもらったところ、美福門院得子が原因であるというのです。
美福門院得子の正体が妖怪・玉藻前であり、鳥羽天皇はその悪しき呪術にかけられていたのです。
正体を見破られた玉藻前は、狐の姿に戻ると逃げ出しました。
玉藻前がいなくなった途端に、病気から快復した鳥羽天皇は討ち取ることを命じます。
玉藻前追討軍は、那須野(現在の栃木県)に追い詰め見事に討ち取ったのです。
討ち取られた玉藻前は、そのまま石へと変化すると近づくものを毒で殺す「殺生石(せっしょうせき)」となりました。
殺生石は、その後僧によって砕かれたことで毒を出すことはなくなりました。
今でも那須湯本温泉には、この殺生石といわれる石が残されています。
キーワードは「中国からやってきた妖怪」
狐の妖怪・玉藻前は、よく知られた九尾の狐(きゅうびのきつね)であるともいわれます。
玉藻前は中国生まれの妖怪で、中国やインドに出現しては時の権力者を色気で騙し、好き勝手をしてきたのです。
日本へは吉備真備(きびのまきび)が乗った遣唐使の船で上陸したといわれます。
734年のことですから、来日後、380年間も潜伏していたことになります。
玉藻前の伝説は、室町時代になってからの御伽草子などに書かれたものであるため、後世の創作といえるでしょう。
一般的には、美貌だけで鳥羽天皇に気入られ、多くの権力を握ったことへの人々の嫉妬からくるものといえるかもしれません。
ただ、このことは違う真実も表わしているように思えます。
同時期の歌人・西行は、高野山で死者の魂を人形に蘇らせる術を行っています。
西行はこの術に失敗しますが、この術の秘法を知っているものからはこういわれます。
「この術を使った人造人間が、朝廷にはたくさんいるのだ。」
西行がつくろうとした人造人間の話→『死者の蘇生に失敗!高野山で人造人間をつくろうとした歌人・西行』
中国からやってきた妖怪・玉藻前に操られる天皇と、朝廷に入り込んでいる得体の知れない人物たち。
これは単なる偶然の話ではないと思いませんか?
これは「平安のサイレント・インベージョン」、″静かなる侵略″だったのではないでしょうか。
相手が中国、当時の唐であったかはわかりませんが、そういった外国の勢力が朝廷内に権力を持ち始めていたことを示唆するために、このような伝説という形で残したように思えるのです。
「気付いたときには、他国の意のままになっていた」
現代にも伝えるべき警鐘なのかもしれません。
中国侵略の警告!?鳥羽院が愛した美福門院得子と妖怪・玉藻前伝説 まとめ
美福門院得子が玉藻前であったというのは、あくまで伝説に過ぎません。
しかし、話の中にわざわざ″遣唐使の船に乗ってやってきた″という記述を残すのですから、海外からやってきたものが勢力拡大を図っていた示唆だといえます。
玉藻前伝説も西行の人造人間話も、平安時代の同時期であることは偶然にしては出来過ぎです。
そして、どちらも得体のわからないものが国の支配権力に関わっている話であることも偶然だと考えるには、あまりに楽観的ではないでしょうか。
今も昔も、日本は外国勢力には入り込みやすい環境があったのかもしれませんね。