1600年(慶長5年)10月、豊臣・徳川の東西両陣営が関ヶ原で激突した天下分け目の戦い。
それが、関ヶ原(せきがはら)の戦いです。
歴史好きのくろーるです
日本の大名たちが東西の陣営に別れて戦った国内最大の合戦ともいわれます。
それほど大規模な戦いだったにも関わらず、戦闘時間はたったの6時間。
東軍が即日で勝利するというスピード決着でした。
関ケ原に展開した西軍の半数以上が戦い半ばで、戦いに参加しないか味方を裏切り攻撃を仕掛けたのですから当然ともいえる結果です。
味方がこれほど多く裏切るともわからずに西軍を指揮していた石田三成(いしだみつなり)とは、それほど無能な男だったのでしょうか?
実は、石田三成は西軍内で裏切りが起きることを、ほぼ正確に予想していたのです!
裏切りを予想していながら、石田三成が関ヶ原の戦いには勝てなかった謎を解明します!!
徳川家康の天下を決定づけた日本最大の合戦「関ヶ原の戦い」
豊臣秀吉(とよとみひでよし)の死後、政権を奪うために動き出した徳川家康(とくがわいえやす)。
豊臣政権存続のためには、徳川家康は危険人物となっていました。
なんとか徳川家康を排除し、豊臣政権を守ろうとした人物こそ石田三成だったのです。
豊臣秀吉にその才能を認められ、有能な官僚として活躍した石田三成。
石田三成にとって、豊臣政権を守ることが豊臣秀吉への恩返しだったのです。
会津(現在の福島県)の上杉景勝(うえすぎかげかつ)討伐をきっかけに、徳川家康は東側の大名を、石田三成は西側の大名を集めます。
そして、東軍およそ7万6000人。西軍およそ7万5000人が関ケ原(現在の岐阜県)で日本最大の激突となりました。
秀吉様のため、豊臣政権を守らねば!
ここで一気に、わしの時代を手にいれようぞ!
西軍が有利な布陣ではじまった関ヶ原の戦いですが、途中で次々と裏切る西軍大名が続出します。
西軍の主力のひとつであった小早川秀秋の裏切り、最大勢力の毛利軍の静観と、石田三成は想定外の展開にあいます。
石田三成を支えていた大名たちも激戦むなしく、関ヶ原の戦場で次々と散っていきました。
戦闘開始から6時間あまりで、西軍は大敗北をしてしまうのです。。
石田三成は捕らえられ、首を斬られて殺されます。
関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康は、実質的な天下人となったのです。
関ヶ原の戦いでは、西軍の二大勢力のみならず、多くの裏切り大名が現れました。
これほどの多くの裏切りを、石田三成がまったく知らなかったワケがありません。
関ヶ原の戦いの本当の敗北はどこにあったのでしょうか?
怪しい行動だらけの小早川秀秋の信頼度はゼロ
西軍最大の裏切りをやってのけた小早川秀秋(こばやかわひであき)。
小早川秀秋は、中国の大大名・毛利家を支える小早川家の当主です。
さらに、元は豊臣秀吉に甥にあたる血筋ですから、西軍では大いに活躍していいはずです。
血筋からも家柄からも、石田三成が西軍の主力として信頼しても当然でしょう。
ところが、関ヶ原の戦いの前から、小早川秀秋は怪しい行動を繰り返していたのです。
関ヶ原の戦いの前哨戦であった伊勢国(現在の三重県)の津城戦に参加予定だった小早川秀秋軍が、突然引き返して、石田三成の城であった近江(現在の滋賀県)佐和山城の南側で居座るという謎の行動をおこします。
小早川秀秋は裏切ったのか?
この時点で、西軍陣営内には小早川秀秋裏切りの噂が流れ始めます。
石田三成もこの状況を見過ごしていたわけではありません。
自分の佐和山城へ招待して捕まえようとしたり、使者を送って暗殺しようとしましたが、すべて失敗に終わります。
小早川秀秋も悪運強く難を逃れ、大きく軍を後退させるのです。
ところが、突然関ヶ原の戦場の現れたかと思うと、松尾山という西軍の重要拠点に陣を張ることになります。
この小早川秀秋の行動が、関ヶ原の戦いを引き起こすことになったのです。
小早川秀秋の出現に驚いたのは、石田三成だけではありません。
東軍を率いていた徳川家康も、動揺して本陣を動かすことになったのです。
関ヶ原の戦いの裏切りは3日前から予想されていた
石田三成は関ヶ原の戦い3日前に、信頼する同僚であり、大坂にいた増田長盛(ましたながもり)に手紙を出しています。
この手紙には、石田三成が西軍陣地内で裏切りが起こるであろうことを予測しているのです。
伊勢から来た軍勢は登り降りが大変なところへ陣を張っている。
ヤル気の無い証拠だ。
これは東軍を南側から攻める位置にいた毛利・吉川(きっかわ)・安国寺(あんこくじ)・長宗我部(ちょうそかべ)・長束(なつか)軍を指しています。
南宮山(なんぐうさん)に陣を張り、南側東軍を攻撃していたなら、北側の西軍本体と挟み撃ちが可能な場所だったのです。
関ケ原の戦い開始後には、石田三成の予想どおり、この軍はひとつも動くことがありませんでした。
また、この手紙では小早川秀秋のことも書かれています。
一部隊まるごと敵へ寝返る密約があるらしい。
それは伊勢から引き返して、その場で待機するよういわれているらしい。
まさに、小早川秀秋の行動そのままだったのです。
ここまで予想していた石田三成の手紙ですが、ただ増田長盛に愚痴をいったわけではありません。
西軍の半分はアテにならないから、増援部隊を送ってくれ!
大坂からの増援をお願いした手紙だったのです。
残念ながらこの手紙は大阪へ届くことはありませんでした。
途中で東軍の監視に引っ掛かってしまったのです。
当然、西軍の内部情報が徳川家康に伝わっていただろうことは想像できます。
小早川秀秋の登場に徳川家康も慌てて出陣、そして開戦へ
関ヶ原の戦いは、徳川家康が石田三成を関ケ原へおびき出し、得意な野戦で挑んだといわれます。
全体的な戦略は、ほぼ正解でしょうが、関ヶ原の戦い当日については、必ずしも予定通りだったとはいえないようです。
そのきっかけとなったのも、またもや小早川秀秋だったのです。
先にも書いたように、関ヶ原の戦場に突然やってきた小早川秀秋軍。
小早川秀秋は西軍の重要拠点と考えていた松尾山を占拠してしまいます。
この松尾山は東軍を西側から攻める位置にありました。
ところが、ここを守っていた伊藤盛正(いとうもりまさ)が小早川秀秋軍に明け渡してしまいます。
伊藤盛正隊が徳川家康と通じていたのか、それとも小早川秀秋軍を主力と思って譲ったのかはわかりません。
しかし、信用していない小早川秀秋軍によって、石田三成は本隊を動かさざるを得なくなりました。
さて、東軍の徳川家康軍はというと、実はまだ陣形を整え終わってはいなかったのです。
そこへ、小早川秀秋軍の登場と西軍本体の移動という情報が飛び込んできます。
このままでは、ますます不利な陣になってしまうことを恐れた徳川家康は、取るものも取りあえず慌てて移動を始めます。
小早川秀秋が現れた!?
西軍本体が移動している!?
この徳川家康の移動がどれほど急だったかというと、周りに身支度を整える小姓がおらず、側女と茶坊主が慣れない鎧つけをしたといいます。
よっぽど急いだ行動だったのです。
おそらく徳川家康は、小早川秀秋が来ることも予想していなかったのではないでしょうか。
なぜなら、動かないように指示していたからです。
しかし、未だ西軍につくか東軍につくかを迷っていた小早川秀秋は、西軍につくかのごとく関ケ原へ現れました。
石田三成からは小早川秀秋裏切りを疑われ、徳川家康からは指示に従わずなかったと思われていたのでしょう。
どちらにも信用はされていなかったのです。
関ヶ原の戦いの西軍裏切りの黒幕→『関ヶ原の戦い・西軍裏切り真の黒幕!もうひとつの明智光秀生存説』
西軍の裏切りを予想していた石田三成!家康も翻弄された関ヶ原の戦い まとめ
ここまで裏切りを予想していながら、石田三成は裏切りに備えた準備ができませんでした。
それは石田三成には指示をするだけの権限がなかったからです。
豊臣政権下では、ひとりの大名に過ぎず、また事務方としての能力を評価されていたことも影響していたでしょう。
せめて、小早川秀秋だけでも確実に味方にするか、さもなくば処分できていたならば、関ヶ原の戦いでの東軍大勝利は避けられたかもしれませんね。