77歳まで生き残った新撰組最強の二番隊隊長・永倉新八の武勇伝

日本史(幕末・明治時代)

歴史ゴシップ好きのくろーるです。

本拠地のあった場所の名をつけて“壬生(みぶ)の狼”と呼ばれ、人斬り集団とまで恐れられた新撰組

新撰組が解散したあとも、明治・大正まで生き残ったメンバーがいます。

恐れを知らない激しい斬り込み姿から、がむしゃらな新八=“ガムシン”のあだ名で呼ばれた二番隊隊長・永倉新八(ながくらしんぱち)です。

局長・近藤勇(こんどういさみ)、鬼の副長・土方歳三(ひじかたとしぞう)、天才剣士・沖田総司(おきたそうじ)と同じく、新撰組になる前からの初期メンバーのひとりでもあります。

負傷しながらも池田屋で応援が来るまで死闘を続けた活躍や、局長・近藤勇に意見したことでも知られます。

北海道で晩年を過ごし、新撰組の汚名挽回(おめいばんかい)にも貢献した人物です。

数々の武勇伝を残した永倉新八にスポットをあててみます。

剣を極めるために脱走!永倉新八は新撰組の生みの親!?

松前藩の藩士の長男として生まれた永倉新八

松前藩は北海道にあるアイヌ民族との交易などで栄えた藩でした。

ただ、永倉新八が生まれたのは松前藩の江戸の出先だったため、江戸で育った生粋(きっすい)の江戸っ子です。

幼い頃から剣術が得意だったため、刀の腕には自信がありました。

神道無念流(しんとうむねんりゅう)の剣術道場に入門し、腕を磨きましたが、それだけではもの足りず、松前藩を抜けだして剣術修行の旅にまで出てしまいます。

剣術修行の旅の中で道場破り、いわゆる剣の腕試しで立ち寄ったところが「試衛館」でした。

試衛館は、のちの新撰組局長・近藤勇の創った剣術道場だったのです。

土方歳三や沖田総司など、新撰組の主力となる試衛館のメンバーたちと意気投合した永倉新八は、そのまま試衛館に滞在します。

あるとき、永倉新八は徳川幕府が「浪士隊」を募集していることを聞きつけます。

徳川14代将軍家茂が京都へ行くための警護隊を作るというのです。

永倉新八
永倉新八

剣の腕を見せるチャンスじゃないかい?

近藤勇たちを京都へ行くきっかけを作ったのは、永倉新八だったわけです。

早速、浪士隊へ参加することを決めた試衛館のメンバーは永倉新八を含め8名でした。

これが、新撰組のはじまりとなりました。

永倉新八がいなければ、近藤勇たちの新撰組は生まれなかったのかもしれませんね。

20人を相手にたった二人で奮戦!池田屋事件の武勇伝

京都での浪士隊の役割は京都の治安維持、今の警察のようなものです。

浪士隊はよく働きました。

徳川幕府での京都を管理していたのは京都所司代といい、そのトップが会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)でした。

松平容保から正式に京都の治安維持を命じられ、「新撰組」と名前もあらためました。

近藤勇を中心に“武士”として働きはじめたのです。

新撰組の名前を世の中に広めたのが池田屋事件です。

【池田屋事件とは】

尊王攘夷志士(そんのうじょういしし)が会合を開いているという情報を得た新撰組は、池田屋を襲撃します。

池田屋に集まっていた尊王攘夷志士は、当時では各藩で有名な人物ばかりでした。

20数名いたうち、半分以上が死亡、残りの多くも捕まりました。

この池田屋襲撃事件により、将来の要人候補が死亡したため明治政府の形が変わったとも言われます。

【尊王攘夷志士】

尊王攘夷とは、それまで政治を行ってきた徳川幕府から、天皇を中心とした国家運営をしようという考えを支持する人たちをいいます。実際にはさらに細かい勢力がありますが、わかりやすくするために省(はぶ)きます。いずれも、徳川幕府にとっては対抗勢力として考えていました。

尊王攘夷志士が京都に放火の上、天皇をさらいだそうという計画があることを知った新選組は、その計画の会合場所を捜し出し捕まえようとしていました。

会合の日はわかったものの、会合場所はいくつか候補があってはっきりしませんでした。

当初、池田屋は会合が開かれている場所の候補ではありましたが、他の場所が本命と見られていました。

近藤勇
近藤勇

いちおう池田屋も行ったみたほうがいいな。

そのため、本命の場所へ副長の土方歳三が率いて新撰組の本隊を向かわせ、池田屋には近藤勇はじめ精鋭4名と見張り隊員として6名の合計10名という少数精鋭で向かったのです。

その中の精鋭のひとりとして永倉新八もいました。

ところが、その会合は池田屋で開かれていたのでした。

池田屋には尊王攘夷志士が20数名いるところへ、たった4名で飛び込むことに。

しかも、戦いはじめてまもなく、沖田総司が持病の肺炎で血を吐いて倒れます。

さらに藤堂平助がおでこを斬られ、その流れる血で目がふさがれ戦闘不能になってしまうのです。

近藤勇
近藤勇

総司っ!大丈夫か!!

永倉新八
永倉新八

近藤さんっ!平助もヤラれた!

近藤勇と永倉新八のたった二人で、尊王攘夷志士20名を相手にすることになってしまったのです。

永倉新八も親指の付け根を斬られ、負傷した状態で土方歳三たちの本隊が来るまで戦いました。

新撰組本隊が到着したときには、防具はボロボロになり、刀は折れていたといいます。

二人で10倍の敵を相手に戦い続けたのですから、永倉新八が新撰組の中でもどれほど強かったかがわかります。

新撰組最強隊士は誰?隊士の中の評価は永倉新八!?

新撰組中で誰が最強であるかを聞かれて、初期隊士のひとり、阿部十三はこう答えています。

阿部十三
阿部十三

一に永倉、二に沖田、三に齋藤の順

永倉新八の得意とした剣の技があり、その名を「龍飛剣(りゅうひけん)」といいました。

この「龍飛剣」は、刀を下に構えた姿勢から、相手が斬りかかってきたところを相手の刀を上へ擦り(すり)上げながら、下へ斬り落とす技でした。

必殺の剣の技をもった永倉新八を最強と評価する隊士も多かったということですね。

俺たちは家来じゃねぇ!仲間だっ!近藤に歯向かった永倉新八

池田屋事件で有名となった新選組。

京都では知らないものはいない有名人です。

尊王攘夷志士からは恐れられていた新撰組ですが、飲み屋では人気者です。

ましてや、新撰組局長・近藤勇ともなれば、誰からもチヤホヤされるわけです。

仲のいい女性も5名もいたといいます。

人気絶頂の近藤勇は、新撰組の中でもトップとして振舞うようになっていきます。

永倉新八たち浪士隊から一緒に戦ってきたものにも家来のように扱う姿が見られました。

永倉新八
永倉新八

俺たちは仲間だ!近藤さんの家来なんかじゃねぇ!

本物の武士になることを目指して、ともに戦ってきた仲間だと考えていた永倉新八は、近藤勇の身勝手さを告発します。

「非行五か条」といわれる近藤勇への告発状は、どこまでも剣術を極める仲間でいたいという永倉新八の思いが書かせたものです。

この「非行五か条」には、三番隊隊長・斎藤一や十番隊隊長・原田左之助といった幹部クラスの人物たちも一緒に告発しました。

新撰組の鉄の掟である「局中法度」に違反することのため、死を覚悟した告発でした。

この「非行五か条」は、新撰組を管轄していた会津藩主・松平容保の仲裁で、大事にはなりませんでした。

しかし、この頃から近藤勇たちと永倉新八たちとの考えのすれ違いがあったと考えられます。

このすれ違いが、新撰組の解体へと発展していくことになります。

永倉新八、新撰組を脱退する!新撰組解体のはじまり

池田屋事件から3年後、時代は徳川幕府から天皇による統治となります。

大政奉還です。

大政奉還により、それまで徳川幕府の治安維持隊であった新撰組は、京都から追い出されることになります。

大政奉還への反対、徳川体制の維持のため、新政府に対して旧幕府軍が対抗した戊辰戦争の始まりです。

旧幕府軍の主力のひとつとして新選組は、鳥羽・伏見の戦いに参加します。

永倉新八は決死隊をつくって、大砲や銃を主力に戦う新政府軍に、刀ひとつで突撃し、よく戦い抜きました。

このとき京都で襲われ負傷していた近藤勇にかわり、隊長であった土方歳三が不在のときには、隊長代行をするなど永倉新八が重要なポジションにいたことがわかります。

旧幕府軍が鳥羽・伏見の戦いで負けると、新撰組も一緒に江戸へと引き下がります。

江戸へと攻めてくる新政府軍を、甲府で迎え討とうと甲陽鎮撫隊となった新撰組でしたが、これも負けてしまいます。

負傷していた近藤勇にかわって永倉新八たちは、会津藩とともに会津で戦おうと提案します。

会津藩は、京都での新撰組の親代わりともいえる存在でしたので恩があります。

旧幕府軍の本隊とされていた会津藩は、いずれ新政府軍に攻められることはわかっていました。

新撰組がその実力を発揮して戦う場所としてはふさわしいと考えたのです。

近藤勇
近藤勇

そんな勝手な決定は受け入れねぇ。俺の家来として戦うならば、その提案を受け入れてもいいぜ。

自分がいない間に決められたと考えた近藤勇は、永倉新八たちにそういったのです。

どこまでも剣術を極める仲間であり、近藤の家来ではない。

その信念一筋に戦い続けた永倉新八は、新撰組を脱退することにしたのです。

新撰組を脱退した永倉新八は、同じく新撰組を脱退した元十番隊隊長・原田左之助や他の元新撰組隊士など100名ほどで「靖兵隊」をつくります。

永倉新八率いる「靖兵隊」は、北関東を中心に新政府軍と戦い続けますが、会津藩の降伏とともに「靖兵隊」も終えることとなります。

この間に、近藤勇も新政府軍に捕まり、首を斬られます

沖田総司も病気が悪化し、亡くなってしまいます

新撰組の隊士はひとり、またひとりと戊辰戦争の中で死んでいきました。

会津藩の降伏と一緒に戦いをやめた永倉新八でしたが、新撰組といえば新政府軍にとっては憎み切れない相手です。

というのも、池田屋事件で殺されたもののほとんどが、新政府軍のものたちの出身藩だったからです。

永倉新八も江戸へ戻って、ひっそりと隠れて生活をし始めます。

その間に箱館戦争を最後に戊辰戦争も終わります。

新しい日本として、江戸から東京へと生まれ変わっていきます。

いつまでも隠れた生活を続けることも難しくなっていきました。

一度は抜け出した松前藩でしたが、戻ってくることを認められ、松前藩の専属の医者であった杉村家の養子になります。

永倉新八は、“杉村義衛”と名前を変えて明治時代を生きることになるのです。

関連記事:死因も遺体も不明?新撰組・土方歳三生存説を検証!!

新撰組の生き残り永倉新八!晩年に残した多くの武勇伝

永倉新八が新撰組としての武勇伝を多く語られるのは、むしろ、晩年になってからです。

戊辰戦争が終り、永倉新八は明治時代を新しい自分となり生きていきます。

松前藩に戻り、藩専属の医者の養子になってからも、剣術と常に関わる生き方をしています。

北海道へ行った永倉新八は、今の月形町にあった刑務所・樺戸集治監で剣術の先生となります。

刑務所の看守たちに、剣術を教える仕事をします。

その後、東京へ戻って剣術道場を開きます。

また、北海道へ戻ってからは、現在の北海道大学でも剣術を教えています。

このとき、永倉新八はすでに70歳を超えているのです。

今の70歳とは違い、当時は老人といっても十分な姿でした。

55歳にして日清戦争に参加を志願

明治27年、日本は清と朝鮮半島を巡って戦争になります。

日清戦争です。

このとき永倉新八は55歳

日清戦争で戦った兵士の多くが20代から30代であったことを考えると、かなり高齢の兵士になったことでしょう。

永倉新八は、抜刀隊をつくることを提案し、日清戦争の最前線に行くことを志願しました。

鳥羽・伏見の戦いの再現ともいえるものですね。

おそらく抜刀隊として日清戦争で活躍し戦死をすることで、新撰組の名誉を回復できると考えていたかもしれません。

この頃の新撰組の評判は、人を殺した罪人のような扱いでした。

新撰組であったことを隠して生きる必要があった時代です。

昔の同志たちが悪くいわれることに耐えがたい気持ちがあったでしょう。

「お気持ちだけ。」

新政府には、そういってやんわりと断られたそうです。

年齢を考えて断ったのか、それとも新撰組の永倉新八と知って断ったのかはわかりません。

永倉新八
永倉新八

新撰組の手を借りたとあっては、薩摩と長州の面目が立たないのだろうよ。

断られた永倉新八は、そういって自分を納得させたようです。

新撰組だった証拠をは体に残った7つの傷!「七カ所手負場所顕ス」

永倉新八が酒を飲むと酔っては、披露していたものがあります。

新撰組二番隊隊長として戦っていたときに負った、体にある7か所の傷跡です。

この7か所の傷がどのようにしてついたのかを、半紙にまとめて残しています。

永倉新八の孫4人が成人したら見せるようにと、わざわざ言い残してまでいます。

永倉新八にとって、新撰組として過ごした時間が、どれだけ大事であり、大切にしてきたかがわかりますね。

1.元治元年7年、久留米藩(現在の福岡県)の真木和泉を追っているときに、敵と鉄砲の打ち合いをしているときに腰に当たった銃弾のあと。

2.慶応4年4月、靖兵隊として下野国(現在の栃木県)で戦っているときに、銃弾が二の腕にあたったあと。

3.慶応4年閏4月、靖兵隊として宇都宮で戦ったときに人差し指についた傷あと。

4.元治元年6月、池田屋事件で手の平に負った傷あと。

5.元治元年7月、禁門の変のときに公家のところへ逃げた長州藩士を追っているときに負った人差し指の傷あと。

6.文久3年7月、大阪で力士たちと喧嘩になり、同じ新撰組隊士・島田魁が横にふった脇差があたってついた腕の傷あと。

7.慶応4年2月、鳥羽伏見から江戸へ引き上げたあとに、仲間と3日間酒を飲み続けてから外へ出たあと、酔っぱらって三人の侍とぶつかり喧嘩となり、目の下に負った傷あと。

前半の緊迫したシーンでの負傷とは反対に、6と7はオチのある話に仕上がっています。

酒を飲んだ場で真面目な永倉新八が披露すると、最後は大爆笑まちがいなしのネタだったでしょうね。

たったひと睨(にら)みでチンピラも退散!

永倉新八の数ある武勇伝の中でも、もっとも有名な話をご紹介します。

4人もの孫にも恵まれ、すっかり気のいい優しいおじいちゃんと思われていた晩年の永倉新八。

映画が好きで、孫と映画館へ行くことを楽しみにしていました。

いつもと同じように、孫と映画を見て出てくると、そこでチンピラと出くわしました。

よろよろと歩く気弱そうな老人と幼い子供の二人連れですから、ちょっと脅(おど)せば金でも出てくると思ったのでしょう。

チンピラが孫に手をかけようとした、そのときです。

永倉新八
永倉新八

すわっ!!

大きな掛け声をかけたかと思うと、永倉新八がチンピラをひと睨(にら)みしたのです。

永倉新八から発した殺気は、孫ですらいつも優しいおじいちゃんとは違って見えたでしょう。

「殺される!」

すさまじい殺気に押されたチンピラは、すごすごと立ち去ったといいます。

年はとっても新撰組二番隊隊長です。

経験した修羅場のすごさが違います。

チンピラごときでは、永倉新八の足元にも及ばなかったわけです。

信念を通した生き様!永倉新八が残した句に見る人柄

武士(もののふ)の節を尽くして厭(あく)までも貫く竹の心一筋

永倉新八が戦うときに来ていた陣羽織(じんばおり)の裏に書かれていた句です。

どんなときも武士として、刀だけで生きていくことを心に誓っていたことがわかります。

堅物といわれた、真面目で男気のある永倉新八らしい句に感じませんか。

まとめ:77歳まで生き残った新撰組最強の二番隊隊長・永倉新八の武勇伝

多くの新撰組の隊士が死んでいった中、永倉新八が生き続けたことは、新撰組にとって重要なことでした。

今、こうして日本の歴史の中で、新撰組が注目されるのは、永倉新八が書き残した「新撰組顛末記」のおかげでもあるのです。

それまで、新政府の人間を何人も殺した殺人集団として悪の組織だった新撰組が、徳川幕府のために最後まで戦った忠実な部隊であったことが広く知れ渡りました。

また、徳川幕府の専属の医者であった松本良順(まつもとりょうじゅん)と一緒に、近藤勇・土方歳三の墓を建てたのです。

いつも近藤勇と土方歳三の写真を部屋に置いて拝んでいたともいいます。

竹刀の音を聞かないと飯が喉を通らない。

自分は剣術の他に能がない。

永倉新八は、どこまでも剣とともに生きてきたのでしょう。

そして、新撰組は永倉新八にとっての剣に生きる仲間たちとの大事な時間だったのですね。

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