呪霊が守る東京!北斗七星が意味する日本三大怨霊・平将門の結界

日本史(平安・鎌倉時代)

日本の怨霊伝説には欠かせない平将門(たいらのまさかど)。

帝都物語をはじめ多くの作品で最強の怨霊として登場します。

歴史大好き、くろーるです。

平将門の怨霊は、自分に仇なすものは許さないところが日本三大怨霊となった所以でしょう。

その強力な呪術力は、何度もこの世に復活してきました。

東京に眠る平将門怨霊伝説と北斗七星魔法陣のお話です。

理想国家「坂東王国」の「新皇」になろうとした平将門

9世紀の終わりころに下総国(現在の千葉県北部)で平将門は生まれたといわれています。

ただ、資料はほとんどないために、幼少期の平将門についてはわかっていません。

15~16歳ころに京都・平安京へ出仕し、その能力と真面目な人柄は認められていたそうです。

朝廷に仕えた中で、平将門が希望した職は検非違使(けびいし)という軍事警察に該当するものでした。

平将門の地元である当時の関東地方は、治安が悪化していました。

人々が平和に暮らしていけるように、自らが検非違使の職に就き、治安維持をしようという真面目な平将門らしい考えです。

しかし、いくら真面目に勤めても検非違使になることは叶いません。

京の都のものたちは自分たちの権力争いに明け暮れ、国を治める気が見られないのでした。

朝廷の現実に失望した平将門は関東へと帰ることを決意します。

地元へ帰った平将門を待ち受けていたのは、関東平氏たちの領地争いでした。

平将門
平将門

まったく・・・どいつもこいつも争わずにいられないのか・・・

このときから、平将門は自分の理想国家「坂東王国」を構想していたのかもしれませんね。

領地争いをしているものどうしを、ときには調停し、ときには武力で圧倒し、例え一族であろうとも死をもいと

わずに平定していきます。

気づけば関東八州を納める盟主となり「新皇」を名乗ったのです。

慌てたのは京都の朝廷です。

ひとつの国に二人の天皇はいりません。

朝廷は平将門が反乱を起こしたとして、討伐軍を向かわせることにします。

ほぼ同時期に西国では藤原純友(ふじわらのすみとも)も反乱を起こしたため、この両方を指して「承平天慶(じょうへいてんぎょう)の乱」と呼びます。

平将門は関東にあらたな平和国家を造りたかったのでしょう。

逆賊として処刑され日本最初のさらし首に

平将門に従う兵はおよそ5,000名ほどいました。

ところが、長い間の関東平定で各地の兵たちは疲れもあり、一度各地へと帰したところでした。

そこへ4,000名の兵を率いた朝廷軍が攻めてきたのです。

平将門の率いる兵は1,000名ほど。

数の上では圧倒的に不利な状況でした。

それでも、坂東武者率いる騎馬隊を駆使し、平将門は善戦します。

良質な馬の産地でもあった関東周辺で育ち、騎馬の上から兵を攻める方法を考えたのは平将門といわれます。

機動力で優れた平将門軍も多勢に押されて劣勢に立たされていました。

一度は、平将門軍の猛攻に朝廷軍も追い詰められるものの、どこから飛んできた矢が平将門の額を撃ち抜きます。

まだ、30代の若さでした。

討ち取られた首は京の都に送られ、さらし首にされたといいます。

初めてさらし首にされたものは平将門といわれ、それほど朝廷にとっては衝撃的な反乱だったのでしょう。

一方で、武将でありながら、人の目に自分の末路をさらすことは屈辱であったこともわかります。

平将門が、この世に怨念を残していることも理解できるというものです。

体を求めて空を飛ぶ平将門の呪いの首

平将門の首塚

平将門の首は、京都の七条河原にさらされたといわれます。

さらされた平将門の首は、いく日経っても腐ることもなく眼光鋭くにらみつけ、まるで生きているようだったと伝わります。

夜になると平将門の首は、恨めしくも語りだします。

わがむくろやいづこに!いま再びつながりて、怨敵らと一軍せん!

首を失くした体さえあれば、もう一度一体となって戦ってみせるというのです。

ついには、平将門の首は白い光を帯びると関東めがけて飛び立ちました。

飛んできた首が力尽き落ちた場所が、現在千代田区大手町にある「平将門の首塚」だといわれます。

京都~東京の距離およそ600キロを体を求めて飛んできたという、どれほど深く強い怨念であったかがわかります。

害する者は時代を越えても容赦しない平将門怨霊伝説

平将門は、菅原道真・崇徳天皇とともに日本三大怨霊のひとりに数えられます。

ここまでの話であれば、他の二人に比べるとさほどこの世に強烈な恨みを残すようには思えません。

しかし、平将門の祟りはたびたび人々を震撼させる事件を起こしているのです。

1924年(大正13)に関東大震災により焼失した大蔵省の庁舎を再建築するため、平将門の首塚を壊して仮庁舎を建築します。

ところが、1926年(大正15年)には当時の大蔵大臣・早速整爾(はやみせいじ)が突然死します。さらに管財局職員・矢橋賢吉が亡くなるなどの不幸が立て続けに起きたのです。大蔵省では平将門の鎮魂碑を建て慰霊したといわれます。

1940年(昭和15年)第二次世界大戦の最中のことです。戦争による物資不足などもあり、平将門の首塚の慰霊もおろそかになっていた中、大蔵省庁舎に落雷があり庁舎は全焼、周辺にも大きな被害を出しました。この年は平将門没後1000年にあたる年だったのです。

太平洋戦争終結後、空襲により焼野原になった東京へアメリカのGHQがやってきます。GHQの指示を受け、駐車場を整備していたブルドーザーが何かにぶつかり横転し運転手が亡くなるという事故は発生します。掘り起こして見ると、それは平将門の首塚の碑だったのです。平将門の怨霊話を聞いたGHQは工事を中止したといいます。

平将門の首塚の前にはあるビルは、高度経済成長時代に日本長期信用銀行でした。首塚に面したところにいる行員は体調を崩すということが続き、窓を塞ぐことで免れたといわれます。1998年、日本長期信用銀行はバブル崩壊の影響で破綻します。これも平将門の呪術ではいわれています。

2020年11月22日、平将門の首塚の改修工事が始まりました。するとその3日後、茨城県を震源とするマグニチュード4.3のやや強めに地震が発生しました。震源地の近くには、平将門の胴体が祀られていると伝わる神社があったのです。もしや、平将門が動き出したのではないかと噂されます。

呪霊が守る東京!北斗七星が意味する日本三大怨霊・平将門の結界 まとめ

鳥越神社平将門の首がこの地を飛び越えた(とびこえ=とりごえ)ことからこの名がついたといわれます。一説には、平将門の手が埋まっているとも伝わります。
兜神社平将門を討った藤原秀郷(ふじわらのひでさと)が、供養のために平将門の兜を埋めたと伝わります。
平将門の首塚怨霊の中心地にして、平将門の首が埋まっている場所です。
神田明神御祭神の一柱に平将門が祀られています。
築土八幡神社平将門の首を密かに持ち帰り埋めたとされ、戦前までは首桶が安置されていました。
水稲荷神社平将門を討った藤原秀郷が怨霊封じに建てたといわれます。
鎧神社平将門の鎧が埋められたと伝わります。

江戸の街づくりにおいて、風水をもちいて建設されたというのは有名な話です。

徳川家康の側近であった僧の南光坊天海によって、鬼門に寺院を配置するなどして守られてきたといいます。

ここまで見てきたとおり、平将門の呪術力は強力であることがおわかりだと思います。

この平将門の強力な呪術力を、江戸の守りに利用することが考えられたのです。

平将門の首塚を中心に、縁のある寺社をつなぐと北斗七星の形になるといいます。

北斗七星は古来より“天帝の星“といわれているのを知っているでしょうか。

バラバラになった平将門の体をつなぐように、縁ある場所を結びつけることで平将門の呪術を復活させたとされるのです。

同時にJR山手線の円は、龍脈という吉相の気を流し込む役割をしているといわれます。

平将門の強力な呪術力を東京の守りに利用しつつ、分断することで強力過ぎる力を弱めているということでしよう。

平将門の結界がこれからも守られ、平穏な日々が続くことを祈るしかありません。

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