自分の立身出世(りっしんしゅっせ)のために、裏切り裏切られる戦国時代。
徳川時代が来ることを予想しながら、友情のために負け戦へ参加した武将がいました。
歴史ゴシップ好きのくろーるです。
不治の病気と闘いながら、不自由な体を押して関ヶ原で戦った大谷吉継(おおたによしつぐ)。
千人の部隊を与えて、戦わせてみたい。
亡き豊臣秀吉に、そうまでいわせた能力は、関ヶ原でも発揮されました。
小早川秀秋の裏切りを警戒しながらも、藤堂高虎隊や黒田長政隊を圧倒した戦いぶりを見せたのです。
最期は、裏ぎった小早川秀秋隊の攻撃を持ちこたえられず、大谷吉継隊は壊滅し、自害します。
厚い友情に散った大谷吉継の生きざまは、人気ある戦国武将のひとりです。
病気が無ければ、豊臣秀吉を支えた五奉行にも選ばれただろうといわれます。
大谷吉継の出世と活躍を苦しめた病気の正体何だったのでしょうか?
大谷吉継の病気の正体はわからない!?
大谷吉継といえば、病気のために顔が崩れていたために、白い頭巾(ずきん)を被って関ヶ原の戦場へやってくる姿が印象的です。
目も見えず、また、歩くことも困難であったため、輿に乗って采配をとったといわれます。
しかし、これらの確たる資料はありません。
その多くが、江戸中期以降の読み物に書かれたものです。
わかっていることは、
・皮膚の病気にかかっていたこと。
・5年の間、政治的な場に一切の記載がないこと。
・目が見えないために、花押で押印していたこと。
・関ヶ原の戦いでは、輿に乗っていたこと。
事実に近いとされる、いわゆる一次資料に書かれていることをトータル判断して、病気を推測しているに過ぎません。
記載のある症状もほんの一部でしかなく、一つの病気に絞ることができるほどの決定的なものがないというところでしょうか。
もっとも有力な説はらい病と呼ばれたハンセン病
ハンセン病は、日本では長く差別の対象になっていた感染症のひとつです。
感染症といっても、感染率は非常に低く、ましてや遺伝による継承は全くの非科学的なものです。
しかし、古くは平安時代から感染者の記述のある病気で、対処方法は患者の隔離という差別を助長する処置しかありませんでした。
ハンセン病は、らい菌という細菌に感染することで抹消神経に支障をきたす病気です。
初期症状では皮膚に炎症をおこし、赤や白の斑紋が出て痛くもかゆくもないといいます。
感覚神経が侵され、痛みなどを感じないのだそうです。
症状が進むと皮膚が変形したり、失明や手足が動かなくなるといったことにもなります。
大谷吉継が5年間の空白から表舞台に復帰し、関ヶ原の戦いで死ぬまでの様子を見ると、ハンセン病であることは十分考えられます。
目が見えないことや足が不自由であったことは、ハンセン病による症状の進行を裏付けるものです。
また、ハンセン病の感染から発症までは、時間がかかることも特徴で、潜伏期間は5年といわれます。
ときには10年~20年もかけて進行するケースがある、わかりにくい病気でもあります。
性病・梅毒の可能性も捨てきれない!
大谷吉継のかかっていた病気の有力なもうひとつの説が、梅毒です。
性行為によって感染することの多い梅毒もまた、日本史上では感染者の多い病気です。
黒田官兵衛や加藤清正も梅毒だったといわれています。
日本は古くから性行為には寛容なお国柄で、大名・武将が供をさせる小姓といわれる役職は、多くが美少年です。
織田信長の小姓・森蘭丸が有名です。
この小姓は、主君の夜のお相手だったといわれています。
女性だけでなく、男性とも関係をもつことが武将のたしなみでもあったのです。
そのため、性病の感染も多かったと推測されています。
梅毒も初期症状では皮膚への炎症が見られます。
進行すると痛みをともない固い腫瘍ができるため、できた場所によっては顔の変形もあるのです。
皮膚がただれるといったことにもなるようで、人前に出ることをためらうことも納得できますね。
重い病気の大谷吉継が石田光成と友情を結んだエピソード
石田光成も大谷吉継も豊臣秀吉によって、その能力を見出され出世をしてきた人物です。
元々は武将としてより事務方として能力を発揮した二人ですので、その間に友情が深まったと考えてもおかしくありません。
ただ、その友情を決定的なものにしたエピソードが有名です。
豊臣秀吉の開いたある茶会でのこと。
当時のならわしとして、点(た)てたお茶を参加したものたちで回して飲むというものがありました。
大谷吉継の順が回って来たときに、ただれた皮膚であったのか、茶の中に何かが落ちてしまったのです。
それを見ていた居並ぶ大名たちは、怪訝(けげん)な表情をする中、次の番であった石田光成は飲み干してしまったのです。
あまりにもよいお茶でしたので、思わず飲み干してしまいました。申訳ありませんが、もうひとつ茶を点てていただけますか。
石田三成のとっさの機転で、大谷吉継は恥をかくこともなく、その場を壊すこともなかったのです。
このことを恩に感じた大谷吉継は、関ヶ原の戦いで西軍に参加するよう石田光成に誘われたときに、一度は断るものの西軍の主力として奮戦することとなります。
徳川家康とも親しく、次の天下人は徳川家康だと予想していたにも関わらず、大谷吉継は親友・石田光成を選んだのです。
まとめ:らい病か?梅毒か?友情の関ケ原に散った大谷吉継の病気とは?
大谷吉継の病気の真相は、信頼のできる資料が少ないため、確定できないのが真相です。
茶会でのできごとも梅毒による皮膚のただれとも、ハンセン病による感覚神経が侵されたことによる鼻水や涙を感じなかったためとの解釈もできます。
さらにいうと、大谷吉継の顔が醜いといったことも書かれていないことや、関ヶ原の戦いで最後まで指揮をとっていたことを考えるとハンセン病の可能性が高いかもしれません。
梅毒であれば、痛みにより冷静な状態で指揮をとれないとも考えられるからです。
最期にもうひとつ、大坂で千人斬りという通り魔事件が起きたとき、大谷吉継を疑うデマが流れました。
人の生き血が病気に効くために、大谷吉継の指示によるものだというのです。
これには、親友の石田光成だけでなく、豊臣秀吉さえ真犯人探しに懸賞金を出すほどの怒りぶりだったといいます。
それほど、大谷吉継の人柄に信頼を置いていたということですね。