風林火山敗れる!
1575年(天正3年)三河国(現在の愛知県)長篠で激突した織田信長(おだのぶなが)・徳川家康(とくがわいえやす)連合軍と武田勝頼(たけだかつより)軍。
新興勢力と旧勢力の戦いでもあったといわれる長篠(ながしの)の戦い。
歴史好きのくろーるです。
戦国最強といわれた武田軍自慢の騎馬隊の機動力が、鉄砲隊の威力に圧倒されたとされています。
織田信長の考え付いた戦法は、戦国時代の戦い方を変えたとまでいわれるのです。
ところが、武田騎馬隊も鉄砲隊の三段撃ちも存在しなかったようなのです。
劇的な勝利と思われた長篠の戦いは、いたって普通の戦いだったのかもしれません。
長篠の戦いのリアルな姿を追ってみます!!
初めて鉄砲を使って騎馬隊を破ったのは長篠の戦い!?
甲斐(現在の山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)といえば、戦国時代のカリスマ的存在でした。
その武田家二代目の武田勝頼に対し、新興著しい織田信長と盟友・徳川家康連合軍が戦いを挑んだ長篠の戦い。
武田軍の強さは機動力を生かした武田騎馬隊が主力で、野戦では最強とされていました。
この機動力に対抗すべく織田信長が発案した戦法こそ、三段撃ちの鉄砲隊でした。
織田信長は早くから鉄砲の威力に注目し、戦場での活用を考えていたのです。
ただ、この時代の鉄砲の欠点は、一度撃ったあとに二発目までは時間がかかること。
連続して撃つことができないことでした。
そこで鉄砲隊を3隊に分け、1隊ずつ順番に射撃する方法を考え出します。
織田信長の考えた三段撃ち鉄砲隊に、武田騎馬隊は織田・徳川軍に近づくこともできず、大敗戦となったのです。
ついに戦場での戦い方にまで革命を起こした織田信長は、天下統一へ向けた大きく前進することになるのです。
ということで、長篠の戦いは有名になっています。
が、しかし!
武田騎馬隊も三段撃ち鉄砲隊も存在していないとしたら?
長篠の戦いは、まったく違った風景の戦場になってしまいます!
敵は強い方が盛り上がる!武田騎馬隊は資料に発想を得た創作部隊
馬に乗って戦うなんてムリムリ!!
武田騎馬隊の大前提となる馬のことからお話します。
当時の日本の馬は、現在見られるサラブレットとは違って、もっと小型サイズでした。
サラブレットの体高が160cmくらいなのに対して、日本馬の体高は120cm程度です。
40cmもの差があり、当時の武将が乗馬しても足が着かない程度のイメージでしょう。
そんな小柄な馬に、重量のある鎧(よろい)と兜(かぶと)を着た武将が乗って駆けまわるとします。
長時間の戦闘に馬が耐えられると思いますか?
この頃の馬の役割は、移動と指揮命令所でした。
ほとんどの武将は、戦場まで移動したあと、下馬して戦ったのです。
武将を降ろした馬は、他の下のものが引いて陣地まで帰っていました。
馬に乗ったまま槍を振り回すというのも無理がありますし、敵兵が馬を刺したり斬りつけたりしたら簡単に倒されてしまいます。
また、一部の馬に乗ったままの武士は、戦況を見ながら部隊を動かすことが目的でした。
高いところから見ることで、戦況を把握することは当然ですね。
日本の武士が馬から降りて戦ったことは、ポルトガル宣教師のルイス・フロイスも書き残しています。
ワタシタチハ馬デモ戦イマスガ、
日本人ハ戦ワネバナラナイトキハ、
馬カラ降リマス!
実は、武田騎馬隊の生みの親がいるのです。
江戸時代に書かれた『甫庵信長記』です。
この本は、織田信長の家臣・太田牛一(おおたぎゅういち)によって書かれた織田信長の一代記『信長公記』をベースに書かれた歴史小説でした。
この『信長公記』に書かれていた馬と扱いについて、間違った解釈をしたことで武田騎馬隊が出現したのです。
「関東衆馬上の巧者にて」という一説が、『信長公記』に書かれています。
戦国時代に“馬上”とは戦場のことを指していたのですが、これを“馬術が得意な人”と解釈してしまったのです。
これがワザとであったのか、知らずに解釈したのかはわかりません。
ただし、『甫庵信長記』は江戸時代に大ヒットした歴史小説となったのは間違いないのです。
“馬上の巧者”からアイデアを得て、武田騎馬隊にまで発想を広げた可能性はありますよね。
なぜなら、同じような発想を「三段撃ち鉄砲隊」でも書かれているからです。
火縄銃は重いよ!超人のスタミナが必要な三段撃ち鉄砲隊
織田信長が考えて戦国時代の戦い方を変えたとされる「三段撃ち鉄砲隊」
この鉄砲隊も、実は『甫庵信長記』の中で創作されたものだったのです。
『信長公記』には、織田信長が用意した鉄砲は1000丁と書かれています。
まだ、出始めであった鉄砲を1000丁も揃えるところは、織田信長のスゴイところです。
それを3倍の数にしたこところまでは良かったのですが、3000丁の鉄砲が一斉に射撃される状況にムリが起きたと思われます。
3000丁も鉄砲を並べるところなんてないでしょ!
3000丁の鉄砲の前に敵が一斉に出てくると思う?
そこで思いついたのが、1000丁の鉄砲を3回転させるアイデアだったのです。
ただ、この当時の鉄砲は火縄銃といわれるものですが、かなりの重量があったとされます。
仮に3回転して射撃をするとしても、かなりの短い間隔で撃つことになったはずです。
撃っては鉄砲を持って後ろに移動を繰りかえすことは重労働でした。
9回転もするとヘトヘトになってしまうという実験結果もあります。
長篠の戦いは、明け方から昼過ぎまでおよそ8時間くらいの戦闘時間であったとされています。
8時間も交代交代撃つなんてムリムリ!
この間、三段撃ちを続けることにはかなりもムリがあったといえるのではないでしょうか。
織田・徳川連合軍の勝利は決まっていた!長篠の戦いの真実
騎馬隊も鉄砲隊もウソだったとなると、長篠の戦いはオーソドックスな戦いだったといえるのではないでしょうか。
織田・徳川連合軍が勝つ確率は、はじめからかなり高かったと思われます。
というのも、戦力差が大きく違っていたからです。
いろいろと説はあるものの、長篠の戦いの動員戦力は、織田・徳川連合軍が2万6000人、武田勝頼軍が1万5000人。
合戦の勝敗に大きく影響する兵力差は、圧倒的に織田・徳川連合軍の方が多かったのです。
また、織田・徳川連合軍は陣地の前に大きな防御施設を作っていたことがわかっています。
空堀と呼ばれる深い溝を作り、高い防御の柵を立てていました。
溝の深さと柵の高さを合わせると3メートルほどにもなったと考えられます。
歩いてきた歩兵からすると巨大な壁だったのです。
さらに、柵の間からは鉄砲を置いて射撃のできる銃眼がありました。
巨大な壁に阻まれてモタモタしている敵を、ラクラクと射撃することができたというわけです。
そんな都合よく武田軍がやってくるかな?
織田・徳川連合軍は、はじめから武田軍が攻めてくることだけを考えて作戦を練っていたようです。
もし、武田軍が攻めてこなければ、いつまでも待ってもいいという考えでした。
そういう意味では、武田勝頼軍には、戦わずに引き上げるという選択肢もあったかもしれません。
ところが、戦国時代のカリスマの息子のプライドか、武田勝頼軍は織田・徳川連合軍に一斉攻撃をしかけます。
そして、大敗してしまうのです。
確かに、織田・徳川連合軍を前にして引き返したとなれば、その後の武田家の威厳は保たれません。
ベテランが新人に負けたようなものですから。
織田信長は、そこまで考えて陣地の防御を作ったのかもしれませんね。
先を読む力が、織田信長のスゴさだったといえます。
騎馬隊も三段撃ち鉄砲隊もなかった!嘘でつくられた長篠の戦い まとめ
江戸時代に書かれた歴史小説『甫庵信長記』の大ヒットは、武田騎馬隊と織田信長の三段撃ち鉄砲隊を史実にしてしまったといっても過言ではありません。
戦場を駆け回る最強の騎馬隊!
その騎馬隊が鉄砲の一斉射撃で壊滅する!
驚愕する武田勝頼と対照的に高笑いする織田信長の姿は、映画にしても絵になります。
でも、実際の長篠の戦いは、もっと地味な普通の戦いだったのです。
あの武田軍でも織田信長の日の出の勢いを
止めることはできなかった。
それだけのことだったのです。