「死して屍(いかばね)拾うものなし」
忍者の心得(こころえ)とは、こうあるものです。
歴史ゴシップ好きのくろーるです。
伊賀流忍者として知られた服部半蔵(はっとりはんぞう)。
時代劇や映画では、徳川家を守る影の頭領として活躍する姿をよく見かけます。
ところが、実在の服部半蔵はなんと忍者ではないのです。
としたら、忍者・服部半蔵は創作!?
いえいえ、服部半蔵は実在の人物です。
では、服部半蔵とは何者なのか?
みなさんの知ってる服部半蔵が誰なのかを解き明かします!
服部半蔵は服部家を継ぐものに与えられた名前!!
忍者といえばライバル伊賀VS甲賀!
その伊賀忍者を操る人物が服部半蔵と思いますよね。
服部半蔵は一人ではなく何人もいるのです!
そもそも、服部家を継ぐものは必ず「服部半蔵」と名乗るルールになっています。
代々続く「服部半蔵」の中で、みなさんが忍者と思っている“服部半蔵”は、二代目服部半蔵のことなのです。
二代目服部半蔵は、正式には「服部半蔵正成(はっとりはんぞうまさしげ)」といいます。
この二代目服部半蔵が徳川十六将という、徳川家康に仕え功績のあった武将として有名な人物です。
二代目服部半蔵が忍者なの?
違うんヤテ!
二代目服部半蔵は、その強さから“鬼の半蔵”と呼ばれ、敵方にも恐れられました。
槍を使って戦うことを得意とする武将だったのです。
では、服部半蔵がどうして忍者ということになったのでしょう?
服部半蔵が忍者として伝わるようになった理由
武将のはずの二代目服部半蔵が、現代では忍者として知られる理由があります。
服部家は伊賀流忍者の三大家のひとつ
伊賀流忍者とは、伊賀国(現在の三重県北部)にあって忍術を得意とする人たちの集団をいいました。
普段は農業や商人をやりながらも、各地の情報収集などをしていました。
伊賀流忍者には、服部家・百地(ももち)家・藤林(ふじばやし)家といわれる三大家があったとされます。
服部家はそのひとつで、初代・服部半蔵が徳川家に仕えたことで、二代目服部半蔵は徳川家康の家臣団のひとりとなりました。
服部家自体が、伊賀流忍者のルーツなんヤテ!
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徳川家康の伊賀越えは服部半蔵の忍者軍団のおかげ
織田信長が明智光秀に裏切られ、京都の本能寺で殺された本能寺の変。
この日本史でも有名な事件があったとき、徳川家康は大阪の堺にいました。
このとき徳川家康は、織田信長との面会のあと大坂でのんびり旅行中だったのです。
明智光秀を攻めたくとも、十分な戦力はありませんでした。
それどころか、織田信長を殺した明智光秀軍が大阪へやってくることも考えられたのです。
織田様を追って切腹するダラ!
そこまで徳川家康は、追い詰められたといいます。
大阪見物に付いてきていた家臣団の中には、服部半蔵もいました。
まずは、三河(みかわ)まで帰り、兵を連れてきましょうて!
まずは、三河(みかわ)まで帰り、兵を連れてきましょうて!
敵がどれほどいるかもわからない中、大坂から三河国(現在の静岡)まで逃げることになりました。
途中、伊賀国を通る必要がありました。
そのとき、服部半蔵が伊賀忍者を使って、無事に伊賀国を通過させたのです。
二代目服部半蔵は「伊賀組同心」の頭領
徳川家康の元には、伊賀出身のものが多く集まっていました。
それだけではありません。
伊賀忍者のライバルとされる甲賀出身者も多くいたのです。
これは元を正せば、織田信長が伊賀国(現在の三重県)を攻撃したことに始まります。
1578年(天正6年)から始まった天正伊賀の乱といわれる戦いで、織田信長に攻められた伊賀国とすぐ北にあった甲賀国のものが徳川家康の治めていた三河国(現在の静岡県)に逃げてきたのです。
徳川家康は、その伊賀・甲賀出身者たちを自分の配下に加えました。
情報収集は大事なことダラ
情報収集は大事なことダラ
情報収集を重要視していた徳川家康は、忍者のもつ能力を有効に使おうとしたものです。
伊賀・甲賀のもので組織された軍団をつくり、そのまとめ役を二代目服部半蔵に任せました。
「伊賀組同心」は関ヶ原の戦いや大阪の陣にも通常の兵として参加し、戦った記録が残っています。
それとともに、事前の情報収集や偵察・ガセネタを広めることによる相手のかく乱、ときには暗殺ということもあったでしょう。
記録に残っているものもありますが、仕事の内容からいえば表に出てはいけないことでしょうから、本当の活躍はわかりません。
二代目服部半蔵は、こうした隠密行動を指示する立場にあったのでしょう。
二代目服部半蔵自身が忍者だったわけではありませんが、忍者らしい仕事はしていたかもしれません。
父・初代服部半蔵は忍者から武将に転職したかった
初代・服部半蔵である服部半蔵保長(はっとりはんぞうやすなが)という人物がいます。
有名な二代目服部半蔵の父親にあたります。
この初代・服部半蔵こそは、伊賀の生まれだといわれています。
正確な記録はありませんが、伊賀にいた服部家となると、初代・服部半蔵は忍者であった可能性が高いのです。
ところが、初代・服部半蔵は、先の天正伊賀の乱よりも早くに徳川家に仕えていました。
それは、忍者としての将来を不安に思っていたようなのです。
二代目・服部半蔵は忍者ではなく、忍者軍の軍団長。
初代・服部半蔵は忍者だったけど、転職して武将になったということでしょうか。
ただ初代・服部半蔵の記録は少なく、徳川家でどのような仕事をしていたかはハッキリしません。
そのうちに、息子である二代目・服部半蔵が徳川家康の下で活躍し、伊賀忍者たちを操っていたことで服部半蔵が忍者であるとなったのでしょう。
息子には武将になって欲しかった父・服部半蔵の願い
いつの時代になっても、親は子のことを想っているのでしょうね。
初代・服部半蔵が伊賀国から三河国の徳川家にやってきたのは、忍者の身分が低いことが理由だったようです。
忍者の歴史は古く、聖徳太子の時代から“しのび”という忍者らしき記録が残されています。
また、各大名たちも情報収集のために隠密組織をもっており、「草」「猿」「ねずみ」「盗」などと呼ばれてきました。
俺たちは、下に見られていたのだ!
忍者の仕事とは、情報の収集です。
情報を集めるためには、ときには文書などを盗む必要があります。
そのため、泥棒と同じような見方をされ、武士のすることではないという考えもありました。
卑怯な方法という考えから、織田信長や豊臣秀吉は忍者のことを嫌っていたともいわれます。
武将とは違い、評価のされない身分の低いものだったのです。
初代・服部半蔵は、忍者であったキャリアから武将としては認められなかったのかもしれません。
だから、二代目・服部半蔵には、地位も高く将来性のある武将になることを託したのでしょう。
二代目・服部半蔵も父親の期待に応え、槍のテクニックを磨いて“鬼の半蔵”とまで呼ばれるまでになり、
徳川家康の重臣のひとりにまで出世したのですね。
今となっては、忍者としての服部半蔵の方が、どこかミステリアスで魅力を感じるのは皮肉なことです。
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まとめ:服部半蔵は忍者じゃない!伊賀流派忍者だったのは実は父親!?
初代・服部半蔵が願ったとおり、服部家は徳川家康に取り立てられ、武将となりました。
ところが、三代目服部半蔵は、大坂の陣の最中に行方不明となり、未だ生死もわかりません。
四代目・服部半蔵は、義父の事件にからんで藩代えとなり、他の藩に仕える身分となります。
その後も仕えた藩が無くなるなどの不運もありながらもなんとか明治まで続きましたが、十二代目をもって服部家は断絶することになります。
武将として生きる道を選んだ服部家でしたが、本当に良かったのでしょうか?
それでも、服部半蔵の名が忍者として、現代でも知られ続けることは名誉なのかもしれませんね。